現代は、ドンドン挑戦がしやすくなってきている世の中です。

ものつくってを売りたかったら、お店やブランドを自分でゼロからつくればいいし、インタビュー記事を書きたかったら、自分でゼロからメディアをつくればいい。

今はそれが誰でも簡単に実現できる時代であって、そのためのノウハウなんかも広く無料で語られているようになってきているため、そのハードルは限りなく低くなってきています。

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だから、声がかかるのを待ってしまうのは良くない。そんな白馬の王子様幻想は、一刻も早く捨てさらないとダメだ、と語られます。

AIも出てきて、本当になんでもできるし、チームさえも不要なんだから、と。

「それよりも、とにかく打席に立つ回数を増やせ、何が当たるかなんてわからないんだから、バッドを振ったもん勝ちだ!」と声高に叫ばれる。

その主張自体はとてもよくわかりますし、僕もまったく異論はない。

本当にそのとおりだなあと思います。

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でも、これは逆説的なんだけれど、この話が大手を振って語られるからこそ、より一層、普通のひとたちの腰が重たくなっている現象がいま間違いなくあるなと思っています。

そして、ここからが今日の本題に入ってきます。

なぜなら、そうなってくれば、余計に自分がやる必要もなければ、自分である意味さえなくなってくるからです。

彼らに対して「挑戦しないやつは、自己責任」とそんな説教臭いことを言ってみたところで、それは「北風と太陽」でいえば、北風みたいなものにしかならない。

誤解を恐れずに言えば、いじけている人間に対して、どれだけ発破をかけて自己啓発めいた話をしてみたところで、彼らは決して乗ってこない。

つまり、踏み出すことのハードルの低さ、そこに眠っているチャンスの話を説いてみたところで仕方ないわけです。

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じゃあ、このような場合における太陽的なアプローチとは一体何か?

それがきっと「お互いに気軽に誘い合うこと」なんじゃないかなあと思います。ひとりで立ち上がって挑戦しろ、ではなくて、です。

これは、『葬送のフリーレン』において、フリーレンたちが僧侶ザインを仲間にするときの話なんかにもとてもよく似ている。

あんなふうに、フリーレンに強引にでも誘われたら、ついて行ってもいいかなと思えるひとたちって、現代にはきっとたくさんいる。

だとしたら、誘うハードルを極端まで下げることのほうが、圧倒的に大事なんだろうなと。

今って呼ばれたら行くけれど、自分からは行かないっていうひとはすごく多いなと感じます。

それは、価値がわからないからじゃないんです。行ったら楽しい、行くことでチャンスが掴めるとわかっていてもなお、というか、それがわかりきっているからこそ、余計に腰が重たいっていう状態になってしまっている。

そして「ここは退屈、迎えに来て」ってみんなが思っている。

特に現代は一人っ子の子が多いから、過保護の親の元で育っていれば、習い事だって、受験戦争だってスポーツのクラブチームの勝負事だって、何もかも、あちら側からやってきた。打ち返すことが人生。

さらに、僕が「進撃の巨人現象」と昔から呼んでいるような、なにかに興味を持って気になってインターネットで検索した瞬間に、すぐに圧倒的なクオリティのものを見せつけられてしまう。

しかも、同世代の人間の作品として、です。

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先日、スタジオジブリの鈴木敏夫さんがラジオの中で語られていた映画『君たちはどう生きるか』をつくって少し後悔していることとして語っていた話が非常に面白くて、良い作品はクリエイターに絶望を与えてしまう、と。

『君たちはどう生きるか』のような映画は「才能、時間、お金」三拍子揃わないとつくれない。それを世に出したことに多少後悔していると。クリエイターを絶望させるから。

これは本当にそう思いますよね。

「あんなものなら俺だって書ける」と思って実際に筆を取ってみてしまうとか、そうやって、ある種の舐め腐った態度からじゃないと人間って意外と動かない。

最初から絶望している人間は、ただその場に留まって、いじけるだけ。

ビジネスがわかっているひとは、今後はテクノロジーの進化やちょっとした人脈でそんなクオリティなんてすぐに簡単につくりだせるようになって、どこかでまくれると思っているし、そもそも時代側も変化するから、その時代ごとに求められるものが変化することも理解しているけれど、でもそれを知らないと絶望していじけちゃう、ということなんだと思うんです。

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だから、やっぱりいかに巻き込まれていくか、誘われるかのほうが大事だと思います。

ただ、これまでの社会の問題があるとすれば、軽率に誘うにはリスクが大きすぎた。

でも今ってかなり誘いやすい環境に変化しているなあと思います。

起業も副業も当たりまえとなり、転職だって日常茶飯事ですからね。

もちろんそこには新たな報酬としてのトークンのようなものも生まれてきている。インセンティブ設計が、より一層滑らかになってきているわけですから。

あともちろん、オンラインコミュニティのような存在はかなり大きい。

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そもそも、他者を誘うということは、これまでは相手の大切にしているものを壊してしまう可能性があった。家族がいたりすれば、なんだかんだでリスクがあったんです。

でも今は、そうじゃない。

一世一代の決断をしてもらう必要は、良くも悪くもまったくないわけです。

じゃあ、具体的に、お互いに誘い合うためにはどうすればいいのか。

ひとつは、ここは誘い合ってもいい環境を明確に作り出すこと。そのための境界線を設けること。

マッチングアプリだって、なんであんなに若い子たちがバンバン怯えることなく会っているのかといえば「そういう場(アプリ)だから」ですよね。

もうひとつは、断ってもいい環境をつくること。断られるのが、当たり前なら誰も傷つかない。

また最後にいちばん大事なことは、お互いの信頼関係を築ける場所が存在していること。

継続的なつながりを持ち続けて、この人が誘ってくれたのならついて行ってみようかな、そんなふうに思えるそんな信頼関係の構築が可能となる空間が本当に大事だなあと思います。

それが若い人にとっては、大学だったりするわけですよね。だから学生時代の友人同士で起業したりもする。

きっとこれからは、社会人にもそんな信頼関係を深める空間が必要ですよね。

そして、そのような関係性の中で「あなたと一緒にやりたい」と正直に言い合えて、そこに嘘や裏がないとわかることが、本当に大事になってくる。

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挑戦するハードルが極限まで下がっている時代だから「やる気がないやつは、ほっとけよ」という新自由主義的な話も簡単にできる。

AI+BI層でも生きていけるんだから、そこに甘んじるやつはほっとけ、と。

でも上述した『葬送のフリーレン』の物語がそうだったように、一度誘われて立ち上がったひとは自走していく。たとえ、パーティーから離れたとしても。

この感覚って、本当に大事なポイントだと思います。

つまり、引かれた手は、気づけば自走し始めて、さらにまた次の手を引いていく存在になる。そこから再度引きこもることはほとんどない。

この引き上げる力、立ち上がらせる力、ここにこそお互いのやりがいや豊かさのようなものも眠っているように思います。

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僕自身も、もともとはものすごく引き込もり体質でした。

たくさんの先輩起業家や、先輩経営者の方々に引き上げてもらった経験があるから、いまは躊躇なく、自分がやりたいことに対して全力投球できるような性格になった。

大事なことは、この贈与の連鎖なんだと思う。その滑らかさというか、みんなが「誘う・誘われる」に慣れちゃえばいい。

僕はそのような空間をつくりたいなあと思う。

なぜなら、そうやって小さな小商いみたいなものが、どんどんと増えていくと、結果的にそこに「コミュニティ」も自然発生的に生まれてくるから。

この無数の小商いが集まっている「コミュニティ」がきっとこれからは一番価値がある。

「コミュニティ」なんて今に始まったものではなく、チームとの対比で昔から語られていた。じゃあ何がいまこれだけ革新的だと騒がれているのかといえば、価値創造という点において、だと思います。

下手をすれば、AppleやTOYOTAのような大企業をつくること以上に価値があることになっていく可能性さえ秘めている。

だとすれば、戦後日本がひとりひとりの社員を家族のように育てあげて大きな会社をつくって世界に挑戦してきたように、ひとりひとりの手を引っ張って、自走してもらい、そこに「コミュニティ」が立ち上がることが従来的な大企業を作ること以上の価値があることなんじゃないかと思います。

糸井重里さんの例をかりると、そこにひとつの「球場」のようなものができるわけですから。

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そう考えると、今日語ってきたように、お互いに誘い合えること、手を引き合うことって、一周回って実はとても大事なことだと思う。

うまく伝わったかどうか不安な部分もありますが、だからこそこのWasei Salonもそうやってお互いに誘い合う文化をより一層大事にしていきたいなあと思います。

ぜひお互いに気軽に誘い合ってみて、何か楽しいと思える新しいことにチャレンジしてみてください。僕も全力で応援や支援をさせてもらいます!

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。