Wasei Salon内で、鈴木麻実子さんが書かれたエッセイ集『鈴木家の箱』の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/1e92db1553f6

鈴木麻実子さんは、スタジオジブリプロデューサー・鈴木敏夫さんの娘さんです。

僕自身が、彼女が運営している「鈴木Pファミリー」というオンラインサロンに初期から参加していることもあって、サロン内だけで読むことができたこの書籍に集録されているエッセイを、初期の頃から読ませてもらっていました。

その内容が、毎回目からウロコが落ちてくるような素晴らしい内容ばかりで、更新されるたびに心底驚いていたんですよね。

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多くのひとが知るところで言えば、映画『カントリー・ロード』の邦訳の歌詞を書いたのが、鈴木麻実子さんです。

そして、僕がここ数年で出会った方の中で、いい意味で一番変わっているなあと思わされる、本当に稀有な方だなとも感じています。

どのように稀有な存在なのか、それを言葉で表現したくても、既存のものさしや尺度では、はかることができない方だなあと思う。

それゆえに、その一挙手一投足に僕はいつもハッとさせられてしまうし、学ばされているところも本当に多くて、Wasei Salonのメンバーのみなさんにもそれをぜひ味わってみて欲しかったので、この本の読書会を開催した経緯となります。

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この点、どうしても、親が有名な方である場合「二世」や「親の七光り」など少しネガティブな文脈で語られてしまいがち。

「こんな親の元だからうまくいったんだ」と、そうやって無責任に言い放つのは簡単ですし、批判した素振りを見せることには、本当に頭を使わずに済んでしまうことです。

でもそれだと非常にもったいないし、大きな誤解につながってしまうと思うんですよね。

実際に、麻実子さんも紛れもなく鈴木敏夫さんの娘さんだから、この類まれなる感性が失われずに済んだのだとは思います。鈴木敏夫さんが徹底的に違う生態系で育てあげたその成果が、はっきりと一人の人間として、結実していらっしゃるなあと思わされる。

天真爛漫という言葉がとてもよく似合う方だなあと思いますし、普通の人間が持ち合わせているような邪気がまったくない。このエッセイ集は、そんな感性の賜物であって、そう考えると本書のタイトルにもある「家」って、本当に大事だなあと僕は思わされるんですよね。

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これは完全に余談ですが、みんなもっともっと「家」や「血筋」と真剣に向き合って、そこから自分が学べること、活かせることは何かを徹底的に考えたほうがいいのに、とよく思います。

だって、それこそが「個性」のひとつだよって僕なんかは思ってしまうから。

それは生まれたときから定まっている自らの「身体」と同様、生まれた瞬間に完全に決まっていて、自分で決して選べるものではないはずだと思います。

もちろん、解釈はいかようにも開かれているから自分で解釈を選び取る自由はある。

にも関わらず、自分は自分だと傲慢になり、周辺環境と自己をすべてを切り離して「個人」としてなんとかしようとするから、結果的に世間の価値観に見事に侵食されて「個性的になりたい」という没・個性的な人間になってしまう。

その中で生まれてくるジレンマを抱えて、どんどんと生きづらくなるひとが続出しているのが、まさに現代社会だと思います。

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そもそも個性というのは、一人で育まれるものでは決してない。

周囲に存在している他者によって規定されている「私」という存在や現象、それらを反射させるような形で自覚し、その「私」をどうやって周囲に対して活かし還元することができるのかを考えたとき、初めてそこに「個性」のようなものが立ちあらわれてくるはずです。

だとしたら、家や生まれ育った環境というのは、僕らがもっともっと真剣に向き合うものだと思うのです。

Wasei Salonのメンバーのみなさんとも一緒に対話をしながら、まるで本質看取をするように、この本のおもしろさとは一体何なのかを話し合っていきました。

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すると、読書会の後半部分では自然と「特権性」の話にもつながっていきました。

特権的に既に何かを与えられているからこそ、普通のひとが考えないことを考えることができる。

そうやって、それぞれがそれぞれの置かれた環境によって、少しずつ異なる状況の中で、それぞれに深く考えられることに意味があるんだと思います。

「なるほど、立場が違うと、そんなふうに考えることができるのか!」という発見にもつながっていく。

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もちろんそれはノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)というものが、まず大前提として存在しているはず。

そうやってひとりひとりが、自分が考えなくてもいいことを考えずに、でもその空いた余力でもって考えるべきことを考えられること。

それぞれが、それぞれの置かれている立場とド真剣に向き合った結果として、出し惜しみや無理なく自然と発露されることが大事なんだろうなあと。

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この点、一般的なリベラル勢はどうしても、万人が平等であるような状態を目指してしまい、何事も「不公平だから」という理由で相手の優位性や特権性を、すぐに力ずくで奪おうとしてしまう。

そして、そのために生み出されたロジック自体も、ものすごく正しくものに思えてしまう。

だから、みんな自分から自発的に捨て去ってしまう。そのうえで「ずるい、ずるい」ってお互いに言い合うことになる。ルッキズムのような議論もまさにそうですよね。

だとしたら、それを無理やり捨て去らせたり、いやいや封印させられたりすることではなく、むしろそれをどうやってお互いに活かし合うかのほうを考えることのほうが、大事なはずなんです。

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もちろん一方で、そのような特権的な地位というのは複利でドンドンと増大していってしまうもの。

根本的に、不平等極まりないものなんです。

あっという間に、一世代では逆転不可能な状態となり、財閥どころか士農工商のような身分差別のような状況に陥ってしまう。

ゆえに定期的に革命なんかも起きてしまう。

でもだからこそ、武士のような教育や帝王学のようなものも同時に存在したのだと思うのですよね。世の中の多くのひとが近年感動した話で言えば、映画『鬼滅の刃』の煉獄さんのお母さんのような教育方針です。

自分のために使うのではなく、世間や社会に還元していくその姿勢のほうが、強く求められているということでもある。

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僕はこのような教育や思想がなければ、そもそもリソースを配分するという思想自体が、健全に機能しなくなってしまうと思うのです。

それぞれの自己利益の最大化を暗黙の了解にしてしまうと、みんなズルして、バレないように、少しでも我田引水しようとしてしまう。

その才能をこっそりと使うようになってしまうし、こっそりと貯めこむようにもなってしまう。

だとすれば、本来結実させるべきは、そうやってお互いに持って生まれたものにしっかりと感謝をしつつ、それを自己利益の最大化のために用いるのではなくて、社会に対して役立てる発想のほうなんだと思います。

それは先日、内田樹さん「ほんとうのエリート教育」のお話でも明確にご紹介したとおりです。


家や親が特殊であるということだって、本来は足が速いとか、背が高いとか、顔がいいとかと、同類であるはずですから。

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そしてこちらのほうが、過度な平等意識を目指すよりも、世の中が安定的に駆動すると僕は思います。

そして、今のような社会においては、とても大事なことだと感じます。

僕らは西洋から輸入した平等概念にあまりにも強くとらわれすぎてしまっているせいで、お互いが持って生まれたかけがえのないものを、お互いに還元し合うチャンスさえ奪われてしまっているような気がしてならない。

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最後に、もちろんこのエッセイを読んで、僕らが恨まなかったり嫉妬したりしないでいられることも、明らかなる「特権性」のひとつだと思います。

少々メタ的な視点になりますが、自分たちの居場所がちゃんと存在していて、しっかりと手触りのある形で「いきがい」のようなものを感じられている何よりの証でもある。

だとすれば、そんな僕らに課せられている「責務」も間違いなく存在するはずですし、それも同時に問われているのだと思います。

ひとりひとり、自己としっかりと向き合っていくことで何かしら社会に還元できるものは見つかっていくはず。それを持ち合わせていない人間なんて、この世には存在しない。

もちろんそれを果たすも果たさないも「自由」があるわけだけれども、できればきっと果たしたほうが良いはずで。

まさにこのブログの内容それ自体も、僕が書いておく必要があることなんだろうなあと思って、今こうやって書いています。

なにはともあれ、『鈴木家の箱』は読みやすくて本当におもしろい本です。ぜひみなさんも手にとってみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。