最近、エリート教育とは何かをよく考えています。

世の中の格差が広がっていく一方で、自分たちの優位性をなんの臆面もなくひけらかすひとたちが増えてきたからだと思います。

たとえば、近年よく話題にあがる「境界知能」という言葉も、自分よりも劣っている人間に対して、そのレッテルを貼りとして使われることが増えたことなんかも、そのひとつのわかりやすい例かもしれません。

昔は、そのように明らかに自分の優位性をひけらかす行為は、あまり行われてはいなかった気がします。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というような言葉が、まだかろうじてしっかりと機能していた。

でも一方で今は「俺は勉強せずに、東大に合格できた。就活を頑張る人間なんて意味がわからない」なんてことを、東大出身のひとが公の場で言いふらしているような世の中です。

そのほうが、SNSが中心の社会においては注目されるからなのだと思います。

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そもそも論として、知能の差について言及することはそれ自体は、全く問題ないことではあると思います。それは単純に個体差であるわけだから。

同じ男子でも2メートルを超えるひともいれば、150センチを切るひともいるのと同じこと。遺伝的な問題がそこには必ず関係していると思います。

何か優劣が存在しているわけでもなく、世の中には多様なひとが存在しているよね、という本当にただそれだけです。

問題は、そのような個々人の違いをどのように扱うのか、その個人の知性の特性をどのように役立てるのか、その意識の部分であるはず。

それが「エリート教育」の話にも直接的につながってくると思うのです。

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この点、以前もご紹介したことのある内田樹さんの『生きづらさを考える』という本の中に、ものすごくわかりやすい話が書かれてあったので、少し引用してみたいと思います。

東大に入るような秀才は、自分ではすごく勉強したようなことを言ってますけどね、ほんとうはあまり努力していないんです。遺伝的に頭がいいから。授業を聞いてるだけで教科がすらすらわかるような頭の作りに生まれついているんです。だから、それに対しては「努力しなくても東大に受かるような頭に生まれついてありがたい」と思うべきなんですよ。勉強ができるのは自分の努力の成果じゃなくて、ただの遺伝形質なんです。力が強いとか、背が高いとか、目がいいとかいうのと同じです。そういう天賦の才能はみんなのために使って、世の中に還元しなければいけない。そういうことを教えるのがほんとうのエリート教育なんです。あなたがたの持って生まれた才能をどうやって世のため人のために使うか、それを考えさせるのがエリート教育でしょう。


これは本当にそのとおりだなあと思います。

その秀でた能力をどのように扱うのか、それがいちばん大切な視点であるはず。

他人よりも秀でて持て余している身体的の特徴というのは、それはその人の個性にすぎない。

そして、立派な財産であり資産ではあるのだけれど、それをどうやって「社会」の中で扱えばいいのかは、ちゃんと教えてもらわないと子どもはわからない。

逆に言うと、教えてもらえずにいるからその自分の個性をなんとかして自己利益の追求に当てようとしてしまう。

どうやってその持て余した能力を扱うと、本質的に他者から喜ばれるのか、社会のなかの幸福の総量を増大させることにつながるのか。

本来、それを丁寧に教えてくれるのがエリート教育だったはずだと思います。

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でも、今の東大を筆頭に、一流大学はそのような教育自体を一切していないんだろうなあと思います。僕も自分の大学で、そのようなことは教えてもらった記憶はほとんどありません。

むしろ、そうやって生まれ持った才能を用いて、自己利益の最大化する方法が、大手を振って教えられてしまっているように思います。

なぜなら、それは教えている側も、まさにそのよう方法で自分たちが今のポストを得たからである、と。

再び内田樹さんの本書から引用してみたいと思います。

でも、東大ではそんな教育をやってないと思う。どんな分野でも、「才能で食う」というのはほんとうはフェアじゃないんです。生まれつき力持ちの人が腕力で人を支配するのと同じで。そういう力は、道に倒れている木があったら「僕がどけてあげるから、みんな通りなさい」というふうに使うものでしょう。でも、東大の先生たちは「君たちはその才能を自己利益のためではなく、公共の福利のために使いなさい」というふうには教えていないと思います。彼ら自身が自分の才能を最大限に活用していまのポストを得たわけですから。


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さて、なぜ今日は突然このようにわかりきっていることを淡々と書き続けているのか。

それは、トークンエコノミーが浸透することによって、この現代社会の不条理の仕組みや構造みたいなものが、ひっくり返る可能性があるかもしれないなあと僕は割と真剣に信じているからです。

僕自身も、内田樹さんのこのようなお話というのは全面的に同意をするし、そんなエリート教育がしっかりと施されて、世の中に生きるひとみんなが、自分の秀でている能力を社会のために活かして、お互いに助け合って生きていける世界観がいいよね、と真剣に思っています。

ただ一方で、社会とはそんなに甘くはないんだ、という現実問題もちゃんと理解している。

いわゆる弱肉強食の世界観ですよね。

もともと、賢く生まれた人間がたまたまそうじゃなかった人間を酷使し搾取してもいいんだという前提条件があって、それに適した社会構造にもなってしまっているのが現代です。

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つまり、理想としては、そのような倫理観を醸成するエリート教育のみでどうにかして欲しいのだけれど、教育ではどうにもならない社会の現状も間違いなく今この世界に存在している。

つまり、本当に悔しいことだけれど、どこまで行ってもキレイゴトに過ぎなかったんですよね、これまでは。

じゃあ、その現実とのギャップをどのように埋め合わせて、どうすれば理想に近づくのかをずっと考えていたのが、ここ数年です。

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で、トークンエコノミーのような仕組みが浸透すると、それが逆回転し始める可能性があるなと思っています。

ありがとうの意思表示、それをトークン(価値)とともに循環する世界が本当の意味で生まれてくると、このような話も決してキレイゴトではなく、いよいよ現実味を帯びてくるんだろうなと。

そもそもなぜ、自己利益の最大化を目指さなければいけないかといえば、もともと社会の報酬体系がそうなっているからですよね。

一番わかりやすいところで言えば、たとえばフードコートの食券の仕組みみたいに、先払いしてもらわないと食い逃げされるかもしれない、みたいな話です。

結果的にそのほうが回転率があがって、利益も最大化されるから、みたいな。

そうすると、作り手と受け手の距離はドンドン隔てられて、特に作り手に感謝はされもしない状況に陥る。でも資本自体は、着実に増えていきます。

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一方で、トークンエコノミーの世界だと他者を助ければ助けるほど、そして公共の福祉に資する行動をすればするほど、ポジティブに働く可能性が高いと思うのです。

そして、そのような行為に対する感謝や報酬というのは後払いのような形でも成立するようになる。

実際、今現在すでにまわり始めているFiNANCiEなどのトークンエコノミーの萌芽は、そうやってプラスのスパイラルが生まれ始めているように思います。

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内田樹さんの例に戻ると、嵐や台風の影響で倒れた木を力持ちの人間がどけてあげることによって、通るひとはどけてくれたひとに感謝を伝えて、双方が心の底から本当の意味で満足し合える。

そのときに「ありがとう」という気持ちだけでなく、金銭的「価値」も付帯させて送り合うことができるようになる。

それが当たり前になれば、お互いの持てる力を持ち寄って、感謝の意思表示をし合うようにもなる。その手段として、トークン自体がなめらかになるべく摩擦係数が少ない状態にも近づいていく。

つまり仕組みの変化で、自然とそのような助け合いが促されるようになると思うんです。

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で、トークンのようなものが常に循環していて、結果的に誰も食うに困らない世界観のほうが良くないですか?と僕は思う。

僕はそうなったほうが純粋にいい世界になると確信しています。

もちろん何も秀でた能力を持たないひとであっても、何も後ろめたさや負い目みたいなものを感じないような世界がいい。だってそれはあくまで個体差の問題でしかないから。

そして、他者から感謝されるようなことが何もできない人間なんていない。本当にただ横に座っているというようなことだって、本当は感謝の対象になるはずなんです。

隣りに座ってくれていただけ、の人に対して現金を包むことは違和感があっても、トークンを渡す、渡しても当事者間で変な空気にならないことは、本当に素晴らしいことだと僕は思います。

ここが今日一番強く強調したいポイントかもしれません。

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だから、ある種このトークンエコノミーのへの転換を目指す流れっていうのは、ひとつのエリート教育でもあり、公共の福利の実現そのものでもあると思うんですよね。

もちろん、トークンの仕組みが導入されることになり、さらに格差が広がる可能性も秘めていますし、それは一切否定しない。なんなら、自分でも過去に何度もその危惧は書いてきました。

まだまだザルの仕組みであって、悪用されたら、いくらでも悪用される可能性はあります。

でもそれは格差がドンドン広がっているような現状、身体的特性を自己利益のために最大限用いることを正当化している社会でも同様であって、今現在すでに悪循環に陥っていることとあまり変わらないような気がしています。

だとすれば、少しでも可能性のある方向へとチャレンジしてみてもいいんじゃないか。たとえ失敗に終わったとしても、何がダメだったのか、またひとつ学びは深まるはず。

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今の社会は、力持ちとして生まれた人間が、誰もが当たり前のように通れた道に対して、木をわざと倒すみたいなことを、平然とやり合っているような社会です。

それをして一体どうなるんだ?と僕は素直に思う。

それを容認すると、ほぼ生まれた時点で自分の人生が決まってしまうわけですよね。そんなのどう考えてもおかしいし、身分差別なんかとほとんど変わらない。

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トークンがなめらかに循環することで、少なくとも食うには困らずに誰もが生きていける、そんな世界がやってくる可能性は、少なからず存在していると思います。

僕はその可能性を模索することが、いまものすごく大事なことだなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。