佐々木俊尚さんがTwitterやVoicyで発信されていた、国民全員が投資家になることで景気を享受できる社会に、というお話。


わかりやすくアンチコメントもいっぱい届いていたみたいで、佐々木さんがTwitter上でひたすらそのリプライに反論しているのが、最近なんだかとても印象的でした。

もちろん、多くの意見は取るに足らない意見だと思います。投資をまったく理解していないんだろうなあと思う反論ばかり。

でも一方で、そうやってアンチコメントを書き込みたくなるひとたちがいることも少し理解できて、僕の最近の課題感も実はそのあたりにあるなと思ったので、少しこのブログにもその想いをまとめてみたいと思います。

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この点、まず自分の立場を改めて明確にしておくと、僕も佐々木さんと同じく、国民全員が投資をして景気を享受したほうが良いとは思います。

なぜなら、国家がそれを推奨し、新NISAのような制度で税制優遇をしてくれているわけですし、最近のブログでも何度も語ってきたように、もうこれからは庶民ほど投資をしないといけない時代に突入してくるはずだからです。

労働に対しての純粋な対価だけで満足に生活をし、子どもの教育費まで用意できるというひとは、相当優秀な稼ぎ手ではないかぎり、もう不可能になってくるはず

それぐらい強烈なインフレ時代がやってきていますよね。

だからインフレに一番強い株式に投資をして「みんなで市場経済の恩恵を受けましょう!」という提案というのは至極真っ当な提案だと思うし、本当にそのとおりだと思います。

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ただし、問題はここからで、そのうえで今投資を行うことが国民全員にとって間違いなくWin-Winのような状況にあるとしても、それでも「ノーディール」をしたいひとたちの気持ちもよくわかる。

なぜなら、投資というのは「複利」で運用されるものだから、です。

極端な話、健康増進みたいな形で「みんなで毎朝ラジオ体操をしましょう!」みたいな話とは、まったく性質が異なる議論なんですよね。

じゃあ、それは一体どういうことか。

たとえば、先日の日経平均株価が過去最高を更新したというような大相場の日において、なけなしのお金で庶民が毎月積み立てしてきたインデックス投資をしていて、それが晴れて1年間の投資運用成績として「数十万円も増えました!やったー!」と喜んでいるうちに、富裕層は何千万〜何十億円という金額を一日で増やしてしまったりするわけですよね。

そのうえで、「あなた達にもちゃんとプラスがあるのだから、この状況に反対するのはおかしいだろう。わかる?頭悪いの?」と。

「誰にとってもWin-Winでしょ」という論理の背景には「このような状況を是認せよ」ってことなんですよね。

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そして、今みたいに相場の調子がいいときには全員が含み益がでていて、みんなハッピーという状態なんだけれども、でも相場の状況が悪くなったら、あまり資産が多くない人間から順番に、自らの資産を取り崩さなければいけない状況に追い込まれるわけです。

特に、庶民はその含み損をいっぱい抱えてしまっているような状況でさえも、日々の生活が目の前に迫ってきて、子どもの学費などで入り用になった場合においては、背に腹は代えられないということでで、資産を売却させられることになる。

一方で富裕層は、冬相場はタダ黙って眺めていれば良い。数年間放っておいたら、また市場は勝手に回復してくるのだから。なんなら、底値で買い増しさえできてしまって、更に資産を増やす勢いです。

それが格差社会の実態であり、今まさに起きていること。

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それを、Win-Winではなく、Win-Loseと捉えるひとも一定数は出てくるのは、当然のことだよなあと思います。

圧倒的な勝者と敗者に分かれていて、そこに「複利」と「時間」という概念が組み合わさってしまったら、これぐらいの格差が生まれてしまう。

みんなでラジオ体操をして健康に!という話ではないということです。

市場経済のルールは万人に対して開かれている、それゆえに株式という仕組みが素晴らしいものだったとしても、そもそもそこで生まれた格差を、一生まき返すことができないぐらいの天文学的な差が開いてしまった場合においては、もはやそれは「身分制度」とほとんど変わらないのではないでしょうか。

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とはいえ、たぶん富裕層側からすると「自分たちは常にリスクをとっているのだから、そのリスクに対してのリターン、そのプレミアムは受け取って当然だ」という反論が出てくるはずで。

リスクを取ってこなかった人間が、こういう相場の状況が良いときだけ反論してくるのは、虫のいい話だと思う、と。

そちらも本当にぐうの音も出ないほどの正論で、まさに「アリとキリギリス」みたいな話ですよね。その指摘もまた、何ひとつ間違っていない。

リスクを取ったのだから、彼ら富裕層には受け取る権利があるし、それを周囲からとやかく言われる筋合いもまったくない。

「リスクを取らなかったやつが悪い、自己責任である」は本当にそう思いますし、ごもっともの話なんです。

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ただ、そのうえで僕が思うのは、富裕層の資産だけが一方的に指数関数的に増えてしまうと、結局のところ、革命が起きるまでの時間が早まるだけなのでは?と。

そして、それはあなた達にとっても、あまりメリットはないんじゃないんですか?とも、同時に思うのですよね。

以前もご紹介したことのある、『暴力と不平等の人類史』を書いた歴史家 ウォルター・シャイデルによると、人類の平等化装置とは「大量動員戦争、革命、国家の財政破綻、致死的伝染病の大流行」のこの4つしかないとのことです。

現状、僕からすると、この流れ自体がなんだか「加速主義」みたいになっている印象も受けてしまって、むしろ富裕層の命が狙われたり、革命を望んでいるひとが増えてしまうだけなのでは?と思ってしまう瞬間があります。

普通に考えたら、もっとこっそりやったほうがいいのに、今はあまりにも大手を振ってやりすぎじゃないか、と。

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なんなら、以前書いたブログ「金融教育の義務化は、容赦ない自己責任社会が訪れる前ぶれ」でも書いたことがありますが、むしろ国家がそれを先導してしまってもいる。


本来、日本という大きな船に乗っていて、国民全員でパーティーを組んでいる以上、分配や再配分の議論のほうが大事なはずなのに、その手立てを考えるはずの国家が、積極的にその役割をほとんど放棄してしまっているような状態です。

つまり現状は、国家が国家の役割をほとんど果たせていない。大企業のほうが国家並の権力を持ち始めて、国家にはもう自分たちで舵取りできるだけの余力や威厳のようなものが残っていない。

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僕らはこの現状に対して、もっとちゃんと向き合わないといけないと思います。

だから、自分たちの民間レベルでもちゃんと考えようよ、という話なんですよね。

ここ1年ぐらいのAIの発展や、それに付随するエヌビディアの成長なんかを見ていても本当に強く思うのは、今の感じだと歴史の進むスピードは、たぶん人間が想像を絶するスピートで進んでいくはずで。

そんな中、既に転がり始めている「複利」と「時間」の圧力に抗えるわけがない。そして、そこに恩恵を受けている人間は、自らの欲望に対しても抗えない。ぶくぶく太りすぎて自ら破滅する。それは過去の歴史が証明している通りです。

つまり、僕らがまだ命があるタイミングにおいて、シャイデルが言及している4つの平等化装置のいずれかが発動して、どこかのタイミングで全員が一度平等(丸裸)にされるという自体が起きても何もおかしくないだろうなと。

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もちろん、それぞれがそのような出来事が起きても問題ないようにと、自らが個人レベルにおいて資産防衛(自己投資なんかも含む)などの自助をすることに尽きるわけだけれども「防衛なんかしてみても、何の効果もなかったよねえ」と思えるようなことが起きても、まったく違和感はありません。

その時に大事になってくるのは、フラットに、そして敬意を持ったコミュニケーションができていること、その共助のほうであって、そこまでにいかに健やかな人間関係やコミュニティを構築しておくことができるかどうかが、いま試されているんだろうなあと。

喩えるなら、大きな地震が起きたときの避難場所みたいな場所であっても、どうやったら、僕らはお互いに猜疑心などを持たずに、お互いを尊重し合って、親切心に満ちた言動でもって助け合いながらコミュニケーションすることができるのか。

それが僕が最近よく考えていることであり、会社や国家ではなく、コミュニティ的な価値観、相互扶助的な観点を耕しておかなければいけないと思う非常に強い理由だったりもします。

相手との利害関係抜きに助け合えるためにはどうすればいいのか、その小さな社会実験として、Wasei Salonを運営している側面も間違いなくある。

あまりにも突拍子もない話だなと思われてしまったかもしれないですが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。