今日、京都で開催された『なんでやってんねやろ?』の公開収録の第1弾が配信されました。
ここから、4週にわたって、当日のイベントの様子をすべて配信していきたいと思います。(ちなみに編集してくださっているのは、もんさんです。もんさん、本当にありがとうございます!)
第1回の配信内で、最初に語られたトークテーマは「地方拠点であることのメリット・デメリット」です。
こちらのテーマから、話は自然と「京都は都市なのか、地方なのか」という話題にもつながっていきました。
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この点、坂ノ途中の小野さんが、京都をローカルと捉えていて、東京に行ったときに地方からやってきたことに対するある種の「居心地の悪さのようなもの」を感じているというお話は、個人的にはものごく意外でした。
僕としては、小野さんのそんなことお構いなしの感じで、いつだって脱構築しているような姿勢が、個人的には大好きだったからです。こんな言い方をすると、あまり適切ではないのかもしれないけれど、京都発、しかも農業の分野におけるスタートアップとして圧倒的な唯一無二な感じがあったからです。
まったくスタートアップらしからぬスタンスで、100年続く農業を目指し、淡々と取り組まれている印象を強く持っていました。
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一方で、イケウチオーガニック京都ストアの益田さんは、やっぱり京都の強みはっきりと理解されていらっしゃって、東京だと会えない人も、京都にいると自然と会えてしまうから、京都はメリットしかないというお話を語られていました。
池内代表も、イケウチオーガニックの東京にストアを出したときには、特に周囲からは何もいわれなかったのに、京都にストアを出したときには「イケウチ、成功したね!」と周囲から言われて驚いたと語られていました。
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では、なぜ京都は、このような独自性の強いポジションを築くことができたのか。
ここからが今日の本題で、以下ではその理由を考えてみたいなと思っています。
きっと、東京や大阪とは、その比較軸がまったく異なるからだと思います。
そもそも、ものさし自体が全然違う。何度も繰り返しますが、京都には唯一無二な感じがありますよね。
日本には、京都以外に京都のような街は一つも存在していない。それは歴史的にも、文化的にもどちらの面においてもそうです。
ここで思い出されるのは、今回も養老孟司さんの『京都の壁』という本の内容であって、京都には、そんなふうに「勝てるところでしか勝負をしない『したたかさ』がある」と書かれてありました。
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養老さんは「大阪は、都市としては京都よりはるかに人口も多く、商業の街としての歴史も文化もある大阪が、なぜ京都ほど人気がないのか」
そして「なぜ大阪は、東京にこんなにも敵対意識をもっているのか」という問いを立てながら、以下のように語ります。
本書から少しだけ引用してみたいと思います。
これは大阪の片思いです。京都も東京も、大阪に対してあまり対抗意識はないようです。東京は首都であり、政治・経済・文化の中心であり、その地位は揺らぎませんから、特に大阪を意識することはありません。
京都はどうでしょうか。そもそも同じ土俵に乗りませんから、相手にしていません。仮に土俵に乗ったところで、タイミングを外します。
実は、これがとても大事なことです。大阪のように対抗意識をむき出しにして、同じ物差しで勝負しようとすると、たちまち勝ち負けがはっきり決まってしまうからです。京都のようにタイミングを外すには呼吸がいります。それが京都らしい。これを大阪の人は「ずるい」と言うかもしれませんが、京都にはそういう大人の余裕があります。
他と比較することで白黒がはっきりついてしまい、その結果、卑屈になったり、逆に強烈な対抗意識を燃やしたりする。そこから新たなパワーが生まれることもありますが、京都には歴史や伝統という、勝てるところでしか勝負しないしたたかさがあるようです。
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永遠の二番手の大阪は、いつだって東京に追いつけ追い越せで、ライバル心をむき出しにして、勢い余って「大阪万博」のようなものさえ仕掛けてしまう。
さらに、そのような博打している様子を眺められながら、小回りが効いてしまう福岡が、その後釜を虎視眈々と狙っているようなイメージです。
でも京都は、そもそもそのような土俵の上にあがる気がまったくない。
それよりも、自分たちにとっての強みを活かすためには一体どうすればいいのかを常に考えているということだと思うんですよね。
それは、ポジティブな面だけに限らず、ある種の「諦め」のような話でもある。諦めは「あきらかにみる」ということでもあるわけですからね。
これには異論反論あるとは思いつつ、養老さんのおっしゃるような、いわゆる「大人の余裕」というのは、そのような正しい「諦め」から立ちあらわれてくるものだと僕は思っています。
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そして、今日の話とは直接は関係ないですが、最近オーディオブックで聴いていた村上春樹さんの短編集『東京奇譚集』という本の中に「最初はピアニストになろうと思ったけれど、二流のピアニストになるのではなく、自分の耳の良さを活かして、一流の調律師になろう」と決意した人の話が書かれてありました。
村上春樹さんの話には、なんだかそういう話が非常に多いなと思わされます。
で、これっていうのはここ最近ずっと繰り返し語ってきている「宗教性」に関わる話でもあるなあと思っています。
東畑開人さんの「なりたくない自分を受け入れる」という思想の話にもつながるし、ヴィクトール・フランクル風にいえば「それでも人生にイエスと言う」という話でもあるような気がしている。
また、この深さのようなものは、自らの「宗教性」のようなものを深ぼっていかないと見えてこないタイプのものだと思います。
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このように、ものさし自体を変えてしまうこと。「自分自身を知る」とは、つまりそういうことだと思います。
京都に、あれだけ神社仏閣が存在しているのも、まさにその証拠のように思える。
京都に宗教施設があれだけ存在しなければ、そもそも今の地位はきっと築けなかったはず。そして他の世界の観光都市を見てみても、やはりそうですよね。
経済価値はそれほど高くなくとも、独自の文化、独自の価値観、ものさし自体を変えてしまえる唯一無二性を発揮できている場所というのは、宗教施設が密集している地域が非常に多いかと思います。
そして、それぞれの宗派や信仰対象は違えど、その「宗教性」は全人類、全世界に共通するようなもの。
人間であれば少なからず共鳴する部分があるからこそ、京都という街は世界中から人々が訪れて、今も愛されている土地なんだろうなあと思います。
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そうやって、自己を掘り下げていって、初めてわかる自己の弱さは、間違いなく存在する。
それを直視したところに大人の余裕や、したたかさがうまれてくるのだと考えれば「弱さの自覚≒自分の強さの発見」でもあるのだと言えると思うのです。
もしかしたらここが今日一番強調したいポイントかもしません。
しかし、その強さというのは、誰もが見たがらないものの隣りにあるというか、それらは表裏一体。
いや、表も裏もなく、まったく同じものであると言ってもきっと過言ではないですし、それを本質的に理解することがとても大事な気がしています。
それを発見するためには、広義の「宗教性」を自らで深めていきなから、何かをくぐり抜ける必要がある。
村上春樹さんの表現においてそれは「井戸掘り」であり「壁抜け」なんだと僕は思います。
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にも関わらず「なりたい自分の思想」のほうにばかり執着してしまうと、ずっとそれを見て見ぬ振りすることをし続けて、大阪みたいに経済や政治で、一位の東京をずっと追い続けることになる。
もしくは福岡みたいに「今ならまくれる…!」というチャンスを虎視眈々と狙う感じになってしまう。
そうじゃなくて、ものさし自体を疑い、正しく諦める感覚をうまく活用しつつ、東京が比較対象にならない文化を作り出した京都のすごさ、です。
そんな京都に、世界中から人々が何世紀にも渡って、集まり続けているわけですからね。
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今日の話は「都市」の話ではありますが、個々人においても非常に参考になる部分があるなあと思っています。
というか、それらは全く同じ分類のものと言っても、決して過言ではないはずです。
このGW期間中に、新しい街に訪れてみて、なぜか強く惹かれてしまった体験をしたひともきっと多いのかなと思うので「なぜ自分が、その街に惹かれたのか?」ぜひ考えるきっかけにして欲しいなと思います。
そうやって、自己や自らの暮らしと相対的に距離を取ることができるのも、旅の魅力ですから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。