僕らは他者が考えていることが根本的には理解できないし、わからない。

だから何かしら、客観的な正解を求めようとしてしまう。

わからないからこそ、他者が生み出してくれた「正解」を知って、割り切ろうとするんだと思います。

もしくは、その正解的な振る舞いを、世間の中でつくりだそうとしてしまう。

「これをやっていれば大丈夫、70点は下回らない」というコンセンサスのようなものを作り出して、それに安住したくなる。それが日本の場合は「空気」と呼ばれるものだと思います。

答えがわからないからこそ、そんな「絶対的な正しさ」にすがりたくなるわけですよね。

でも、やっぱりそれだとダメなんだと思います。

わからないからこそ、相手のことをわかろうとすることが大切なんだろうなあと。

相手の痛みや苦しみを、まるで自分ごとのように自覚しようと努めること、それができるかどうかが、きっといま僕らには試されている。

今日はそんなお話です。

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このことを考えるたびに、僕は心理学者・河合隼雄さんがよく持ち出す話題で「養子に真実を告げるべきか否か」の話を、いつも思い出してしまいます。

「自分たちの子供は、実は養子で、でもその子供は自分が養子であることを知らず、それをいつどうやって本人に告げるべきなのか」というお話です。

なぜか、僕はこの話が本当に大好きで。

この話の教訓の中に、人間が他者に対して寄り添おうとしたときに、持ち合わせておいたほうがいい根源的な優しさ、そのヒントのようなものが隠れているなと思うのです。

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さて、河合隼雄さんは子供に告知するべきか否かという質問を親から聞かれた場合に、このようなときにいちばんしてはいけないのは、簡単な理屈に頼ってきめてしまっている人だといいます。

それは具体的に、どんな人かと言いますと、何でもほんとうのことを言うのが正しいと決めきっている人です。

一方で、最後まで隠し通しなさいと決めている人も、ダメだといいます。

じゃあ、実際にはどうしろというのか?

以前もご紹介したことがある『カウンセリングを語る』という本から、以下で少しだけ引用してみたいと思います。

親は河合先生が言われたとか、校長先生がこう言われたとか、あるいはカウンセラーの先生がこう言われたと思って、自分は安心してしまって、その子を「ちょっと」と呼んで、「いままで言ってなかったけれども、じつはあんた養子なんですよ」と言うんです。そんなの絶対にうまくいくはずがありません。

なぜうまいこといかないかと言うと、ひとりの子どもがいままでほんとうの親だと思っている親から、おまえは養子だと言われるということが、どれだけショックであるか、それがどれだけつらいことかという気持ちの共感ということが、その親にはないわけでしょう。親はもう安心しているわけです。教えてもらって言うんだから、これは言って間違いないと思っているんですからね。言うことによる心の痛みというのが、親のほうになかったら、これは絶対だめです。


この話を一番最初に読んだとき、僕は本当に頭をガツーンと殴られたような感じがしました。

先に安心しようなんて、甘えた考えを持っている時点でもうアウトなのだ、と。

そうではなくて、目の前の相手の中にある不安や怖れ、その寂しさのようなものを、共に共感しようと努めること。

自分だけが、そのつらさから一足早く抜け出して、客観的な「正解」を与えるというある種の神的な視点からの行為は、やっぱりどこかで完全なる逃げ、なんですよね。

それよりもむしろ、より自分自身も共にその苦しみを感受する方向へと向かうべきなんだと思います。これは先日もご紹介した『利他・ケア・傷の倫理学』の話なんかにも見事につながる話だと思います。

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さて、きっと、ここまでのお話は、誰もが共感してくれる話だと思って書いています。

でもそうすると、またここでひとつ新たな問題が立ちあらわれてくる。

それは一体何なのか?

そうやって寄り添われる側の「あんたなんかに、わかられてたまるか!」という反発する気持ちです。

こっちはこっちでまた非常に厄介だなあと思います。

直接つながっている話ではないですが、この感情についても本書の中では言及されていたので、再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。

ほんとうに共感できたと思うところに、やっぱり危険が生じるときがあります。こっちがわかったと思うでしょう。そうすると、わかられたというのは、また腹が立つんです。

この気持ちがわかりますか。そんなに私という人間をわかられてたまるか、というところがあるんです。この気持ち、私はこのごろ非常によくわかるんですが、みなさんいかがですか。

わかられたということは、まるごと、ぱっと自分という存在をとりこまれたような気がするんです。手もとをさらわれたような。つまり私という人間はものすごく大きいんだから、おまえのような人間に全部わかられてたまるか、という気持ちがあるんです。


非常に面倒くさい話をしている自覚はあるのだけれど、でもこれは紛れもない真実であって、この話を理解しておくことがいま本当に大事なことだなと僕は思っています。

このときに輪をかけて「あなたのことは、すべてはわからない」という敬意と配慮を持つことが、とっても大事なのだと思う。

なんなら人間は、この「他人にわかられてたまるか!」という部分にこそ、自らの一番実存的な存在証明のようなものを置いている場合が多いわけでもありますから。

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ただ、大抵の場合、どれだけ優しい人であっても、このタイミングで相手にすねられたような感じがしてしまうんですよね。

「あっそう、だったらもう勝手にして!」みたいな気持ちになってくる。

だって、こちらも側は、一度は乗り越えてきているわけですからね。

自らは「正解らしきもの」に頼らずに、ちゃんとあなたの痛みに共に寄り添おうとして、割り切らなかったという強い自負がある。

にも関わらず、「わかられてたまるか!」と恩を仇で返すような言動がなされたら、そりゃあイラッとしてしまうのも当然です。

親と子のようなわかりやすい関係性であれば、その相手の拗ねているように見える状況に対しても、圧倒的な年齢差やその関係の絶対性を頼りに「親の責務」として多少は気持ちの落としどころみたいなものを見つけられるかもしれない。

だけれども、これが社会人同士であれば、それはものすごくむずかしい作業だなあと思います。

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「こっちが最大限に気を使ってやっているのに、何だその態度は…!」となってしまう。

だから、余計に問題や関係性がこじれていく。

そして、このようなわかりあえなさの体験が「どうせ、人と人とはわかりあえない」という圧倒的なニヒリズムの実体験となって自らの中に確固たる証拠として残ってしまう。

だからこそ、ここでまた冒頭の話、つまり振り出しに戻ってしまうわけですよね。

それゆえに、客観的な正解らしきものだったり、世間の空気としての正しさに判断を委ねたくなってしまって、「先生」と呼ばれる人たちに「答え」を求めて、自らがその権威の意見に安住しようとしてしまう。

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でも、本当に大切なことは、わかりあえない、だからわかり合おうとする、それでもあなたのことはすべてはわからないという敬意と配慮を持ち続けること。

ここまでの一連の流れをしっかりと辿っていくことが、大事なのだと思います。

この大きく分けて三段階の過程を踏むことで、もしかしたらわかりあえることがあるかもしれないというふうに思うんですよね。というか、僕はここに希望を持ちたい。

少なくとも、「お互いさま」だと歩み寄れるようにはなるかもしれない。しっかりと対話はしたという感触が、自分たちの中には残ると思うのです。

いや、もちろん今日のブログは本当に死ぬほど面倒くさい話をしている自覚はあるのですが、でも、どうか「最初からわかりあえない」とあきらめる前に、自分ごとに置き換えて考えてみて欲しい。

どれだけ歩み寄られたとしても、なんでもわかられた感じがしたら、やっぱりどうしてもイライラしてしまうものでしょう?

この人はなんでいつだってこんなにも上から目線なのか、と思うはずなんです。

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特に相手から何かを一方的に宣告されるような場面だったり、自分が相対的に弱い立場に置かれているという自覚がある場合には、なおさらそうなりがち。

世間で語られるパワハラ、老害、セクハラ、カスハラなどなど、ありとあらゆるディスコミュニケーションは、このような感情の発露がひとつの主な原因として間違いなく存在しているなあと思います。

「わかりあえる、わかりあえない」という正誤問題よりも、自分よがりな安心感を求めてしまわないこと。そして相手よりも優位に立てるとは決して思わないこと、常「わからなさ」における敬意と配慮を忘れないことが、とっても大切なんじゃないか。

なかなかにまわりくどい話をしてしまったという実感はありますが、今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。