最近「相関性」という言葉に夢中になっているのですが、ふと今の自分にとって身近な、「読む」と「書く」の関係性について悶々と考えてしまったこの頃です。


もしご興味ございましたら、ご一読いただけますと、大変嬉しいです。


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1年前の秋頃です。とある仕事のきっかけで自分が書かざるを得なくなり、「書く」という海に大人になってから飛び込みました。


そこでスイスイと泳ぐ人たちはどこか知的で博識で、自分の頭で考える教養を持ち合わせている、人間的にも尊敬する人たちばかりでした。

そして訪れた土地の一つが、noteだったりもしました。


まず、書くにあたってはじめにしたことは「読むこと」でした。インタビュー記事のライティングだったので、インタビュー系のWEB記事ばかりを読んでみた。「お手本を知る」くらいの感覚だったような気がします、はじめは。

ただ読んでいくうちに、いつのまにか本を手に取っては読むようになり、読書という深みにはまることに。

読めば読むほどに止まらない。読み終わっても作者の意図のすべてなんてわからないし、「彼らの言葉をもっと理解したいから」と関連する本をまた手にとっていく。

読書は連鎖する。

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同じくインタビューをした人が書き起こした対談のような本を見て思ったのは、彼らが伝えたい何万倍もの情報量を、この書籍という形でアウトプットしたにすぎないのだな、ということ。

氷山の一角。彼らは想像もつかないくらいの情報と向き合い、浴びながら、読んだうえで、書いていて。ありえないくらいに膨大な情報量の中から、自分が感化されたものをしっかりと見分け、自分の言葉としていて。

だから彼らには、自分の言葉があるのだと。意志があり、行動があり、教養がある。


「書けない」という人は読めていないのかもしれない。「企画が思いつかない」という人はもしかしたら社会に触れていないのかもしれない。

「考える」という行為は『自分の中で生じた違和感に耳を傾けること』だと最近は思っています。言わば敏感に反応してしまうくらいに周りと向き合っていれば、必然的に「考えてしまう」ものではないかとも思っています。

「考えられない」というのは、自分と向き合っていないこととイコール。「考えたくない」であり、その状態を自ら選択して身にまとっている。

とは言え、そんなことを言いながらもnoteを1年間も続けてきて感じたことは、書いた分、読んでいるということかもしれません。

下書きをして、読んで、書き直して、読んで、よしこれでOKと判断して公開する。誤字脱字が多いというのは「読む」ことが足りていないだけで、決して「書く」力がないわけではないのだと。

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だから今日も読もうと思います。
そうしたら必然的に書きたくなるのだから。


※元となる、noteの投稿記事

https://note.com/hachi_toyo/n/n039bbe176331