昨日、『100分de名著』で、マルクス ・アウレリウスの『自省録』の回を観ました。
参照:100分de名著 マルクス・アウレリウス“自省録” 第1回「自分の“内”を見よ」 -NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019096814SA000/?capid=sns002
この回を観た理由は、岸見一郎さんが解説者として出演されていたから。
岸見一郎さんは、みなさんご存知のように、『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』などの著者の方です。
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僕は、この番組を観るまで、恥ずかしながらこの書籍のことは全く知りませんでした。
でも、なぜかこの『自省録』という言葉に惹かれたんですよね。
この本は、今から二千年近く前に書かれたそうです。著者は第十六代ロ ーマ皇帝マルクス ・アウレリウス。
彼は絶頂期のロ ーマ帝国を治めた名君の一人で、約二百年続いた繁栄と平和に陰りが見え始めた時期の難しい舵取りを担った賢帝だそうです。
そしてこの本は、彼の理想を、彼自身に言い聞かせるような形式で進んでいきます。
例えば、以下のような一説が出てきます。
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「されば 、お前は自分自身を単純で 、善良な 、汚れのない 、威厳があり 、虚飾のない 、正義の友で 、敬虔で 、親切で 、愛情深く 、義務に対して熱心である者であるようにせよ 。哲学がお前を形作ろうと欲したような人に変わらずあるように励め 。神々を敬え 。人を救え 。人生は短い 。」
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これを読んで、そんなことはできるわけがないと思うひとも多いでしょう。
実際、現実に直面して弱っているアウレリウスに対して、
「いや、それでも必ずできるはずだ」と理想を失わない強いアウレリウスが言い聞かせるために書いていたようです。
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ひとが「どうなりたいか?」ではなく「どうありたいか?」を目指すとき、このように自省し続けるしかないんだろうなと思います。
なぜなら、その基準やものさしは、自分の中でつくるしかないから。
「どうありたいか?」は決して、他者基準や他者評価ではありません。
参照:無法地帯なときほど、自己の倫理観が役に立つ。 | Wasei Salon https://wasei.salon/blogs/d09d83840635
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僕が大好きな日本の哲学者、中村天風の言葉にもこんな言葉があります。
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今日一日
怒らず 恐れず 悲しまず
正直 深切 愉快に
力と勇気と信念とを持って
自己の人生に対する責務を果たし
常に平和と愛とを失わざる立派な
人間として活きることを
厳かに誓います
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10代の頃にこの言葉に初めて出会ったとき「そんなことができるわけがないだろう」と鼻で笑っている自分がいました。
でも、なぜか気になる文章だった。だから、ことあるごとに読み返しては、いつのまにか暗唱できるようになっていたんですよね。
そして、恐れや不安が自分の中に生まれてくるたびにこの言葉を思い出していました。
そうすると、本当に少しずつなんですが、自分が変わってくる感覚に気づいたんです。
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もちろん、僕はこのような素晴らしい言葉を知ってもなお、これからもたくさんの失敗をするだろうし、今からそれを想像しただけでも、既に穴があれば入りたい気持ちになってくる。
でも、だからこそ、理想を掲げたほうがいいんだろうなあって思うのです。
必ずまた同じような失敗するからこそ、歯が浮いてしまうような理想を自分自身手で、掲げ続けなければいけない、と。
国家で言えば、憲法の前文なんかもまさにそうだと思います。
きっと国家もまた、戦争と似たような過ちを繰り返してしまう可能性がある。
それでも、その人間の愚かさに絶望することなく、自分たちが目指したいと思うあるべき姿を常に理想として、しっかりと文字にして掲げておく必要があるんだろうなあと思うんです。
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現状が、理想からは程遠いとしても、
自分が生きているうちに、その境地に到底辿り着けなかったとしても、
一歩ずつでも着実に、自分のありたい姿に近づいていくために、
これからも僕は、自己の理想をこのブログに書き続けていきたいなあと『自省録』を知って思った次第です。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。