ここ数日、AIでオーディオブックをつくっては、その話をブログやVoicyで配信し続けています。

昨日の梶井基次郎の『檸檬』の話も、まさにそうでした。

参照:梶井基次郎の『檸檬』が、AIの挿絵のおかげで初めて腑に落ちた。

ただ、つくりながら少しずつ自分の中で見えてきたことがあって、僕は、ただ作品の本数を増やしたいわけではないんだなと。

20年近く、ずっとオーディオブックを聴く側にいた人間が、ようやく「こんなものがあったらいいのに」を自分の手で形にできるようになった、そのこと自体が、いま本当に嬉しいのです。

じゃあ、その「こんなもの」とは一体なんなのか。今日はそれを、自分の中の思考の整理も兼ねて書いてみたいと思います。

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大前提として、先に書いておきたいことは、人の生の声で読まれる作品は、本当に心の底から素晴らしいと感じるということです。

一冊の本を読み込んで、声だけで物語を立ち上げていくその過程、そうやって生身の人間が集い、ひとつの作品をつくりあげるのは、ものすごい労力がかかります。

プロのナレーターさんたちの朗読を聴いていると、そこにはもはや演技を超えた職人技があり、何かがその場に顕現してくるような、厳かな印象を受けます。

これは決して、AIで朗読をつくることの言い訳として書いているわけではなく、長年のいちユーザーとして、本当に心ずっとからそう思っているんです。

この耳心地としての極上の体験があることを、僕自身が、誰よりもよく知っている。

じゃあ、それでもなぜ、僕はAIでオーディオブックをつくりたいのか。

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ここで、最近自分の中でふと気づいたのは、現代版のすき焼きと吉野家の牛丼、高級寿司と回転寿司、行列のできるラーメン屋とカップヌードル、みたいな組み合わせなんだろうなあということです。

これらは一見すると対立しているように見えて、実は満たしているニーズがまったく異なるはず。

すき焼きの代わりに牛丼を我慢して食べている人はいないし、深夜にカップヌードルを食べているときに、行列のできるラーメン屋のことを思い出す人もいないはず。

それぞれに、それぞれの食べたくなる場面やシーンがあるというだけなんですよね。

あと、テクノロジーの対比で言えば、一眼レフカメラと使い捨てカメラやチェキのような対比もわかりやすいと思います。

使い捨てカメラやチェキは、画質では一眼レフには絶対に勝てません。でも、気軽に持ち歩けるからこそ撮れた写真というものが、確かにある。

そして2010年代、スマホのカメラが写真業界を大きく変えたわけですよね。

でも、プロカメラマンの世界がなくなったわけではない。むしろ余計にプロの業が目に見えるようになったとも言えるかと思います。

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このように、新しい道具が身近になると、それまで生まれなかった作品が必ず生まれてくる。

オーディオブックでも、それとまったく同じことが起きるんじゃないか。僕が探ってみたいのは、まさにそこなんですよね。

吉牛というチェーン店も、スシローのような回転寿司も、日清のカップヌードルも、日本の高度経済成長期に生まれた産物であることは間違いないわけですから。

一流品には、最大限の敬意を払う。そのうえで、せっかく新しい技術が出てきたのだから、その技術だからこそ、できることを新たに探ってみたいなあと。

互いに共存共栄するために、です。

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では具体的に、AI音声で何をつくりたいのか。

ひとことで言えば、ラジオドラマ形式と、紙芝居形式です。

登場人物ごとに声が異なれば、いまこの場面で一体誰が話しているのかがすぐにわかるようにもなりやすい。

会話の場面では、人物同士の距離感や感情が、声の掛け合いから自然と伝わってくるなと思います。

そして場面ごとに、適切な挿絵が一枚あれば、馴染みのない時代や土地を頭の中に立ち上げるための、手がかりになります。

耳だけでも楽しめて、画面に目を向けると、さらに理解が深まるのだというのは、昨日のブログの中でも書いたとおりです。

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この点、どれだけ朗読が上手いナレーターさんであっても、ひとりで読む以上、声はひとつです。

もちろん、複数の俳優さんを集めてラジオドラマをつくること自体は、昔から行われてきたことですが、でもそれは、僕のような個人の手には、到底届かないものだった。

コスト的にも、人脈的にも、です。

それがAIによって、自分の机の上で、しかも継続的につくれるようになったわけですよね。

配役を決めて、演出を考えて、挿絵を添えて、違和感があればいくらでも録り直して、そこから生まれた改善版を、また気軽に世に出し直すことができる。

この組み合わせを、小さな制作体制で何度も何度も繰り返し試せること。それが、いまのAI音声のいちばんの強みだと思っています。

そして、ここに価値を感じている人は、まだそれほど多くはない気はしますが、でもここにこそ圧倒的なイノベーションがあると、僕は睨んでいます。

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あと、ここからは、つくる側ではなく、聴く側の話です。

名前だけは知っているような古典や、長編過ぎて手が伸びなかった小説など、登場人物や時代背景がつかめずに、途中で離れてしまった物語が、聴き手の僕の中には、過去に大量にありました。

というのも、僕は昔からどうしても、登場人物の多い作品に弱いんです。

名前と顔と、人間関係が、頭の中でうまく描けず、読み進めるうちに「この人、誰だっけ…」となって、そこで物語から置いていかれてしまう。

ミステリー作品なんて、特にそうです。

先日も、Wasei Salon内で『薔薇の名前』の読書会が開催されましたが、あのような作品が僕にとって一番の急所であり、弱点。

https://wasei.salon/events/3bbd8eaf9ce5

作品内で一体何が起きているのか、さっぱりわからなくなってしまう。

だからこそ、挿絵があって、登場人物ごとに声が違うと、僕にとってはそれだけで格段に聴きやすくなるんです。

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これは、新しい技術で何か派手なことをしたいという話ではなくて、自分の弱点を補ってくれる「眼鏡」や「コンタクトレンズ」のようなものだと感じています。

視力が弱い人が眼鏡をかけたら、同じ景色がちゃんと見えるようになる。それと同じで、声と絵があれば、僕にも見えるようになる物語があるということです。

思えば聴き手としての僕にとって、その眼鏡の役割をずっと果たしてくれていたのが、ラジオドラマ形式でした。

そして、同じ弱点を持っている人は、きっと僕だけではないはずで。

もし声と絵の助けがあれば、そういう作品にもう一度近づける人がいるかもしれない。

「初めてこの作品を、最後まで聴けました!」と、いつか、そんな感想をひとつでももらえたら、それは僕がつくりたかったものがちゃんと届いた、という証拠だと思います。

そのようなAIオーディオブック市場がどれほどの大きさになるのかは、正直まだわかりません。

ただ、まだ誰も見ていない楽しみ方が、そこにありそうな気がしますし、そうすれば先人たちからの置き手紙が、また現代に蘇り、少しでも多くのひとたちにその魅力が届くかもしれない。

だからこそ、それを実際に自分の手でつくりながら、確かめてみたいなあと思うのです。

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そして、つくる過程そのものも、僕は自分の活動としてちゃんと届けていきたいと思っています。

少しメタな視点になってしまいますが、どの作品を選ぶのか。どの登場人物に、どんな声を与えるのか。どんな挿絵なら理解を助けて、どんな挿絵だと逆に邪魔になるのか。散歩しながら聴いてみて、どこで自分が引っかかったのか。

そのひとつひとつに、AIと、僕自身の判断が掛け合わさっているわけです。

自らの試行錯誤も含めて、そのままブログやVoicyで話していくことによって、そこに自然とオリジナリティも出てくると思っていますし、このものづくりの過程こそ、AI時代のひとつの参考になるんじゃないかとも思っています。

20年ずっとオーディオブックを聴いてきた人間の視点が、そこに否応なしに表れるはずだし、そういう話をしているからこそ、本が好きな人やオーディオブックが好きな人と、ちゃんと新たに出会えるのだと思います。

匿名のAI制作チャンネルとしてではなく、鳥井がちゃんと魂を込めてやっているんだな、とも思ってもらえるはずですから。

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最後に、少し欲張りな話をしておくと、オーディオブックをつくって届ける側には、オトバンクさんやAudibleさんのような大きな会社があります。

でも、聴く側でほんとうにオーディオブックを熱く語っているひとは、ほとんどいません。ほんとうに、僕とF太さんぐらいです。

だからこそ僕は、聴く側から、このジャンルにちゃんと関わっていきたい。バトンリレーをつないでいきたい。

この「オーディオブックラボ」という取り組み自体が僕のライフワークのひとつとなって、そこから人や仕事との新しい出会いにつながっていくこともあるだろうし、オーディオブックが好きな人たちと、もっともっと深くつながっていける。それが、いちばんの理想です。

でもそのためにも、まずは自分が本当に聴きたい作品を、淡々とつくってみながら世に公開してみること。

AIという新しい技術で何がひらけるのか、正直まだ僕にもわかりません。だからこそ、つくりながら、みなさんと一緒にソレを確かめていけたら、ほんとうに嬉しいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。