昨日、このブログで「大人のための名作朗読」のリクエストを募集しました。

参照:オーディオブックラボの「大人のための名作朗読」のリクエスト

さっそくコメント欄やVoicyのコメントで、いくつもの作品を挙げていただいて、ほんとうにありがたい限りです。

ひとつずつ、著作権のリーガルチェックもしながら、順番につくっていきたいなあと思っています。

で、今日はその続きのようでいて、少し違う話をしたいと思います。

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梶井基次郎の『檸檬』という作品があります。

この作品は、これまでにも何度か実際に読んできましたし、朗読でも聴いたこともあります。

だから、個人的にはすでに知っているつもりの作品でした。

ところが今回、オーディオブックラボ内で、自分で朗読作品をつくってみたら、「あー、なるほど、そういう話だったのか!」と、妙に納得してしまったんです。

読むタイミングというものもあるでしょうし、いまの時代の空気も関係しているのかもしれないけれど、でも、あれだけ何度も触れてきたはずの作品が、今回初めて、なんだか一気に腑に落ちた。

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そして、その腑に落ちた感覚には、「挿絵の力」がかなり大きく関わっていたように思います。

というのも、AIが描いてくれた挿絵は白黒で、そのなかで檸檬だけが黄色く光っていたんです。

文章で読んだり、音声で聴いたりしていたときの僕は、主人公の鬱屈としたダウナーな感情については、確かにそういう世界観だよなと、わかっているつもりではいました。

でも、その暗がりのなかで黄金に輝く檸檬と、それを手にしたときの全能感のようなものは、この挿絵を見るまで、ほんとうの意味では理解できていなかったんだなと。

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ただ、ここからが今日いちばん書きたいことなのですが、僕は、今回のオーディオブックラボという企画において、挿絵なんてつくる気はサラサラなかったんですよね。

僕がつくりたかったのは、あくまでもオーディオブック。

AI音声で、自分でもオーディオブックがつくれるようになった。学生時代から20年ほど聴き続けてきた僕にとって、これはほんとうに衝撃で、だからこの取り組みを始めたわけです。

ただ、せっかくつくるなら、YouTubeにも上げておいたほうがいいだろうし、でも、音声だけでは画面が保たない。だからこそ何か、画面を保たせるものがあったほうがいいだろう、と。

そんな流れで、仕方なく、場面ごとの挿絵をAIに描いてもらうことにしたわけです。

ほんとうに「仕方なく」だったんです。あとから振り返って、文学を映像で表現しようと思っていた、みたいな美しい話にするつもりはありません。

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ところが、実際につくってみたら、なんと、挿絵のほうがおもしろいじゃないか!と発見してしまいました。

そのまま壁に飾ってもいいんじゃないかと思えるような絵が、ポンポンと出てくる。

特に宮沢賢治の作品の挿絵はなんだか、既にそれだけ物語が伝わってくる感じがあります。

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AI音声に衝撃を受けて始めたはずなのに、いまは、AIが文学の表現を挿絵に置き換えてくれる力のほうに、実はいちばん驚いているかもしれません。

そして、冒頭の『檸檬』が腑に落ちた体験も、きっとこことつながっているはずなんです。

文章で読んでいたときには、なんとなく通り過ぎていた場面が、声と挿絵をともなって目の前に現れたことで、本当の意味でちゃんと受け取れるようになった。

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で、こういう出来事は、ほんとうに実際にやってみないとわからないものだよなあと、新しい技術に触れるたびに毎回思います。

昨日書いたのは、20年分の「聴きたい」に、ようやく手段が追いついたという話でした。

あれは、自分でもずっと前から知っていた欲求が、やっと叶った!という話です。

でも、その欲求をかなえようと自分自身で実際に動き出してみたら、自分でも欲しいと思っていなかったものまでが、同時に届いてしまった。

もしオーディオブックをつくり始める前に、「今回の目的は一体何ですか?」と聞かれていたら、挿絵との出会いなんて、絶対に挙げられなかったはずです。

それなのに、いざやってみると、そこにいちばん心を動かされている不思議。

まさに「誤配」みたいなものですよね。

やる前には、自分が何に驚くことになるのかさえ、わからない。でもやってしまうと、出会ってしまう。この出会ってしまう、という感じがほんとうに重要だなと感じます。

僕は、この予想できなさが、毎回すごくおもしろいなと感じています。それっていうのは、常に自分の予想や予測の範疇を超えてくるから、です。

人間の出会いなんかと、まったく一緒。動き出したあとの思いもよらない出会いのほうが、圧倒的におもしろい。

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そして、こうやってつくっていると、気づけば、自分自身がいちばん学んでいるという状態になる。

その魅力を届けたいと思って一生懸命に作っている自分が、その何度も読んだはずの古典作品のなかに、新たな学びを得てしまっているわけです。

同時に、AIには、こんな表現もできるのかとも驚かされる。どこが得意で、どこが意外と苦手なのかも、少しずつわかってくるし、AIという道具との間に、阿吽の呼吸のようなものも、同時に生まれてきます。

公開された作品は、誰かにとっては古典との出会いになるかもしれない。でも、僕自身は、その作品ができあがるまでの過程において、もう一度、現代ならではのおいしいところを味わってしまっているような気がしています。

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古いものと、新しいものを一気に同時に学んでいるような感覚です。

この行ったり来たりが、ほんとうに最高におもしろいなと感じています。

温故知新とか、復古創新とか、「古いものと、新しいものを掛け合わせる」なんて、それこそ聞き飽きるくらい耳にしてきた言葉ですし、このブログの中でも実際に繰り返し書いてきた話でもあります。

でも、いま自分の手元で起きているのは、まさにこういうことなのかもしれないなと、はじめて深く身体感覚を通して実感しています。

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懐かしいものが、新しい形でやってくる。

子どものころに読んだ作品が、新しい声と絵をまとって、自分の前に突如現れて、しかも、それを自分自身がこの世に生成している不思議です。

自分でつくっているのに、何が出てくるのかを毎回楽しみにしていて、まるでガチャガチャを回しているような気分にもなれる。

そして出てくるのは、知っている作品のはずなのに、あらためてその新しさにこうやって驚かされて、だから、次もドンドンつくりたくなる。

前回のブログの中で、誰かの「聴いてみたい」に応えて、贈り物をするように朗読をつくる話を書きましたが、その贈る過程において、僕のほうもすでに、予想していなかった楽しさや学びを、たくさん受け取っているんだろうなあと思います。

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あらためて最後にもう一度、梶井基次郎の『檸檬』の話に戻ります。

「『檸檬』なんて、もうとっくの昔に読んだことあるわ」という方にこそ、今回の挿絵付きの朗読をぜひ聴いてみてほしいです。

一度読んだことのある作品でも、いまこのタイミングで、別の入り口から触れてみると、以前とはまったく違う受け取り方になるかもしれません。

少なくとも今回、僕はそうでした。

あの檸檬は、京都の丸善の本の上に爆弾のように置かれたまま、実際には何も起こさない。

それでも主人公は、十分後に丸善が大爆発するところを想像しながら、愉快な気持ちで街を歩いていく。

この感情は、テロリストが抱いてしまう感情にきっと近いし、特にローンウルフ的な感覚に近い。

つまり、いま起きている「AI×ハッキング」も、まさにこの檸檬そのものだなあと思うんです。実際にAIを使って実行に移すかどうかは別にして。

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いまこのタイミングでAIを使って、こうやって描いてもらえたことで、現代にも通じる話だし、なんならまさに現代の話じゃないか!とさえ思えてくる。

AIという檸檬を手に入れた僕らのなんともいえない感情を、こんなにも見事に表現している作品は他にあるんだろうかとさえ思ってしまいます。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。