私はそれほど多くの本を読んできてはいないと思います。
平野啓一郎さんの作品を読むのも、今回が初めて。

それでも、「文学は何の役に立つのか?」という問いに対する平野啓一郎さんの回答には、深く共感することができます。 

この問いは、答えるのに苦慮する問いでもありますが、最近僕は、苦慮しない一つの理由を見つけました。それは、〝今の世の中で正気を保つため〟です。

文学は何の役に立つのか - この世の中で文学を問うこと

さらにそこから、「リアルな自分」にとっての文学が、実際何の役に立っているのか、あらためて向き合うきっかけとなりました。





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享楽として文学を読んでいる人もいれば、「生きるか死ぬか」という精神的にぎりぎりのところで文学を読んでいるという人も沢山います。

文学は何の役に立つのか - 文学の矛盾をどう考えるか?

私自身、このどちらも当てはまります。
特に後者の状況では、直接の人間関係以外で頼れる存在は色々あるけれど、他者の表現してくれた作品にこそ救われたり、教わったり、気づきや冷静さを与えられてきたと思います。それは音楽だったり、美術、詩や映画、それに本だったりします。

今はかんたんに膨大な量の作品にふれられるけれど、その中でも「文学」を私が選ぶときの理由はどこにあるのか?
ひとつに、「静けさ」があると思っています。
音や映像なんかは、放っておいても、私の準備ができているかに関係なく勝手にあちらのペースで流れていきます。
一方で文学は待っていてくれて、たった一語の咀嚼にも私は好きなだけ時間をかけることができます。

静と動でいうなら、私にとって音楽や映画は「動」、文学は「静」にあたります。
「静」のものなら、たとえ自分が弱っている時でも、点滴やおかゆみたいに、少しずつ浸透させてゆくような取り方もできる気がしています。
それでちょっと元気になってきたら、「動」のものも受け付けられるようになっている。

日々現実を生きて翻弄される中で、自分の意思で「静けさ」の中に身を置ける手段があることは、それ自体が私にはお守りであると、自覚的になることができました。


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小説は、似ていない他人の話だからこそいいんだ、ということもあろうかと思います。自分の問題を他者を経由して考えるということが、本を読むときに非常に重要な意味を持っているのではないでしょうか。

文学は何の役に立つのか - 文学が個人を介する意義

ああいう小説、ああいう登場人物を書いた小説家が、なんでああいう最後に至ったのか。それが無くて最初から拒絶反応だと、俺とは考え方が違う、ということだけになってしまうんですが、むしろ文学というのは作品を通じて、共感できない作者ことを考える、という一つの手立てにもなっている。


おかしいということを、間違っているとか稚拙だと思う前に、彼の人生とその前後の作品の中でずっと考えていくと、もう一段、深いところで、言っていることが見えてきます。
文学はそういうことを僕たちにトレーニングさせてくれます。

文学は何の役に立つのか - 共感できない作者について考える


このあたりの内容については深く共感するとともに、「そう、だから忘れてはいけない」という気持ちが湧き上がります。
拒絶したくなるものと対面したときに使う筋肉のような、トレーニングしなければ衰える、トレーニングしなければできるようにならない、そういう性質のこと。
私は読書家ではないけれど、それでも「文学との接点は絶ってはいけない」と漠然とした危機感、アラートのようなものを感じる理由は、このあたりにある気がします。

もし文学から遠ざかるなら、どうなるか。
これは予感ですが、私の場合、他者への理解や、忍耐、想像力、そういうものをかんたんに著しく失う気がしてなりません。
そんな状態はおそらく、傲慢で偏狭な態度を生み、あっという間に私をさびしい人間にしてしまうだろうと。

そうはなりたくないからこそ、私には文学が必要なのかもしれません。


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本書を読ませていただくまで、こんなに自分にとっての文学という存在を考えたことはありませんでした。
平野啓一郎さんの言葉を咀嚼していく中で、私が文学に対して感じていることや頼りにしている部分などが浮かび上がってきたように思います。

余談ですが、本書は私には難しく、途中で何度も調べ物のために脱線しました。
「鼎談」とは何かとか。(こんな漢字見たことない)
漢字はもちろん、言葉の意味から作家名、登場した作品のあらすじやレビューまで..。
おかげで本編の読書は遅々たるものでしたが、そういった時間も含めて、楽しい時間を過ごさせていただきました。

この本に出会えたことに深く感謝いたします。