最近語られる「未来」の話に、なんだか僕は猛烈に違和感があります。
それはがなぜかと言えば、「あのころ見た未来」そのノスタルジーの視点で、「未来」が語られてしまっていることが非常に多いからなんだろうなあと思っています。
現代は結局のところ、保守派も未来志向派も全員で「過去への執着」をしている状態になっているように、僕には見える。
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「新しい未来をつくっていく」とは、あのころ見た「未来」を実現することでは決してないはずなんですよね。
これは、わかりやすく言い換えると、たとえば「ドラえもん」をつくろうとすることは、自分たちが当時待ち望んでいた”未来”という「過去への執着」なのか、それとも本当に今のニーズから生まれてくる真の未来への希望なのか、みたいな話です。
他にも最近、AIの文脈でもよく語られる『攻殻機動隊』の話や、エヴァンゲリオンの「マギシステム」なんかもそう。
あとは大阪万博が描いているようなわかりやすい未来像も、まさにそうだと思います。
大阪万博で、第一回目の70年代の大阪万博とまったく同じ全自動人間洗濯機を現代版にアップデートしたことなんて「当時思い描いていた未来」へのノスタルジー以外の何ものでもないと、僕は思います。
これらはすべて、当時の社会背景、そこにある問題意識、そして何より「これから世界はもっと豊かになる」という右肩上がりの成長神話を前提として描かれていた未来なわけですよね。
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このような、「未来」の皮を被った「過去への執着」そのノスタルジーが、現代にはあまりにも多すぎる気がしています。
しかも、さらに厄介なことは、それを語るひとたちは、自分たちはしっかりと未来の方向を向いているのだと完全に思い込んでしまっていること。
でも、それこそが「過去への執着」であり、過去への憧憬、過去への後悔、それを未来に逆投影しているだけであって、まさにプラトンが語る「洞窟の比喩」みたいな話だなあとも思います。
逆に言えば、当時語られていたようなSFの世界観を提示すれば、いくらでも「過去への執着」をしていられる世界線でもあるということですよね。
でもそうやって自分が若かったころに憧れていた未来像のなかに閉じこもっていることが、未来を見ることじゃないだろう、と思うんですよね。
もう、立派な大人なんだから、はやくそこから出ろよ、と僕なんかは思ってしまう。
その時代背景のタイミングで語られた「未来予想図」に対して決して執着をしてはいけない。
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もちろん、過去にみんなで共有したことがある「未来予想図」のほうが、話が早いのはとてもよくわかる。
それを共通のビジョンとして用いたくなる理由や必要性みたいなものもヒシヒシと感じます。
なぜなら、現代は、マスメディアが衰退してしまって、変わりにSNSが浸透し、これだけ全員が見ている方向がバラバラになってしまったわけだから。
「ドラえもん」のような、既にみんなが知っている旧知のものでコンセンサスをとって「そこに一緒に向かおうよ!」としたほうが、人もお金も、非常に集めやすい理由もよく分かる。
でも、それっていうのは懐メロで一緒に盛り上がろうとすることと、全く一緒なわけですよね。
たしかに懐メロを用いれば、人々のアテンションは集められるし、そこそこのライブを開催して、そこそこの金にもなる。
でも、それは明確に過去へのノスタルジーであり、今の世相や今の時代の問題点や課題点から生まれてくるような真の必要性とは本来まったく関係がないはずです。
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いつも例に出す「指月の喩え」でいうと、先人たちがせっかく月を指さしてくれていたのに、完全にその指を見てしまっている状態。
当時のひとたちが、本当に指さしていた月とは一体なんだったのか。
それを本来、僕らはちゃんと見定めないといけない。
「鉄腕アトム」や「火の鳥」を描いた手塚治虫が観ていた本当の月とは、一体なんだったのか。あれらの作品を通じて、手塚治虫が本当に僕らに伝えたかったことはなんだったのか、その本質を考えて、それに見合った未来をつくっていくということだと思います。
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この点に関連して「最近、自分は保守的なのか…?」と思い悩む30代の姿を本当によく見かけます。
30代という絶妙な自分の年齢に加えて、余計にそう思うのでしょうね。
でも僕は、ソレに対しては明確に「NO」と言ってあげたい。
むしろ、「今、ここにある現実」と真剣に向き合っているからこそ、生まれてくる健全な「懐疑心」でもあると思うのです。
言い換えると、今の問題と本質的に向き合って自分の頭で真剣に考えているひとたちほど、今は保守的になっていくのだと思います。
それこそが「地に足の着いた誠実さ」だと僕は思う。
今の問題と本質的に向き合っているひとほど、安易なノスタルジー的な未来像には「待った」をかけたくなるのは至極当然のことです。
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逆にリベラルだったり、テック信者だったり、自分たちは未来志向なんだと思い込んでいる人たちほど、今この瞬間のニーズをおろそかにして、完全に今を見失ってしまっているなあと思います。
あなた達ほど、保守的になってしまっていますよ、と伝えてあげたい。
でも、彼らほど自信満々に、自分たちは未来志向、リベラル志向だと信じてやまない。
この逆転現象が、なかなかにうまく伝えられなくて、本当にいつももどかしいなと思います。
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だから、ある意味では、極右政党のひとたちのほうが時代の問題点を、うまくついているのも当然なんだと思います。
ポピュリズムを目指す彼らは、過去の未来像には一切執着しない。
それよりも、本当に上手に自分たちの影響力拡大のためだけに、現代人の不安や恐れを丁寧に使っているなあと思います。
具体的には、グローバル経済やAI・ロボット化によって、自分たちの生活や暮らしが脅かされて不安であるという現代特有の目の前の課題に対し、その不安に丁寧に寄り添い、彼らの生き方や人生に対して何が何でも「誇り」を提供しようとしているわけだから。
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さて、このように最近は「時間軸のズレ」みたいなものはよく考えています。
近ごろ再び思い出したのは以前、編集者・古賀史健さんがツイートしていた「ちょっと前が、いちばん古い」という言葉。
7年ぐらい前に、ブログにも書いたことがああります。
そのときの古賀史健さんのツイートがこちら。
先日ブログに書いた函館の「ラッキーピエロ」の話なんかも、まさにここにつながるなあと思っています。
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これだけトレンドが移り変わる時代においては、トレンドが変わっても、とどまっていられること、その持続可能性や継続性のほうが大事。
過ぎ去った過去のトレンド(未来像)を追わないこと。
これからは、その時計のスピードは一気にあがる。ドンドンちょっと前が一番古い状態になるし、数年単位で自らもそこに必ず陥ってしまう。
トレンドに合わせて、自分を変え続けることは、一見すると柔軟にも見えるし、自分自身が変化しているようにも思えるのだけれど、しかしそれは「トレンドを追い続ける」という一点において、全く変わっていない(=思考停止している)状態とも言えるわけですから。
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だとしたら、結果的に、止まっていたほうが何度も時計としては合うことになる。
そのために、時代の時計の針が1周してくるまでに、死なないことのほうが大事。
具体的には、小さな経済圏やコミュニティをつくりだしながら、あとは淡々と待つ。粘ればいいだけ。
そのうち何十年も続けているというだけで、勝手に評価される時代だってやってくる。京都という街が実際にそうであるように、です。
自分の時間軸をしっかりと持ち、周囲の喧騒に惑わされないという能動的で主体的な選択を持つことが本当に大事だと思います。
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今のような時代だからこそ、本当に大事なものは何かを自ら考えて、先人たちが指さしてくれていた「月」のほうを見ながら、その本質を追求していく勇気を持つこと。
そして、正しく今の課題に向き合って「新しい未来像」をゼロから提示していくこと。本当に大事なことだと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/07/22 23:08