「そんなのAIで調べれば一瞬でわかるんだから、AIで調べろよ!」ではなく、気になってしまったその衝動こそを共有してほしいなと、最近よく思います。

逆に、情報の正誤に関しては、こちら側にもうAIがあるわけだから、正直、もうどうでもいい。

もちろん、真偽そのものがどうでもいいわけではありません。正しい答えを知ることは大切です。

ただ、人間同士が交換するものの中心を、正しい情報に置かなくてもよくなった、ということです。

ほんとうに正しい答えが知りたければ、AIに聞きながら一次情報までたどり、手元で何度でも確かめられる。しかも、以前よりもずっとカンタンに、です。

そして間違っていたときに、相手にわざわざ伝えずとも、ダウトって心のなかでいくらでも言えてしまいます。

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むしろ、今は、生身の人間のなかに宿ってしまう、どうしようもない衝動や直感のほうが、圧倒的に希少性が高いなと。

どれだけ半導体を積んでも、どれだけバカでかいデータセンターをつくっても、AIでは生成不可能。

だとしたら、全然間違っているかもしれないのに、自分が「これこそが大切!」と思ってしまう衝動や直感、愚行こそが知りたいし、互いにシェアし合いたいなあと。

極端に言えば、正誤の確認は、もう他人に求めなくていい時代になったのだから。

だとしたら、僕らは人間から何を聞きたいのか、その問いのほうが大切になってきたということです。

今日はそんなことを、ブログに書きながら丁寧に考えてみたいと思います。

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この点、僕が聞きたいのは、「答え」ではないことは明白です。

むしろ、「なぜか自分は、これが気になって仕方がないんだ!」という、その人固有の引っかかりのほうです。

言い換えれば、あなたは何に突き動かされたのか、ということ。

もちろんAIも、衝動っぽい文章なら書けてしまいます。

「直感的にこれは重要だと思う」「なぜかこのニュースが頭から離れない」という文自体は、頼めばすぐに出してくれる。

でもAIそのものが、そのせいで眠れなくなったり、自分の予定を変えたり、知らない街まで行ってしまったりすることはない。

つまり衝動というのは、単なる思いつきではなくて、身体や時間やお金、評判や人間関係まで巻き込んでしまう「偏り」のことなんですよね。

だから乱暴に言えば、AI時代には「正しさ」ではなく、「偏り」こそが人間の本質になる。

僕は割と本気でそう思っています。

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ところが世の中では、まったく逆のことが起きていますよね。

もうAIのほうがはるかに上手に整理してくれる正しい情報なんかを、いまでも人間同士で一生懸命シェアし合っている。

そして、人間固有の貴重な衝動のほうは、胸の内にしまい込まれたままです。

いちばん希少なもののほうが隠されて、いちばんありふれたもののほうが流通している状態です。

だから僕は、Wasei Salonにおいては、「あのサロン、正しい情報は全然シェアし合わないらしいよ。それぞれ手元で黙々とAIで調べていて、そのかわり、魂の叫びばっかりが飛び交っているらしい」

こんな噂が立つようになったら本望だと思っています。怪しげに、そう囁かれるような場所になったら最高だなあと。

正しい情報よりも、魂の叫びこそ優先して欲しい。

今日のブログでいちばん主張したいことは、この一言に尽きます。

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ただし、これは単純に「もっと本音を曝け出そう!」という単純な話ではありません。

もっと大事なのは、誰かの言葉によって、自分のなかでまだ言葉になっていなかったものが引き出される、ということだと思っています。

誰かの書いたものを読んで、「あ、そんなこと書いていいんだ」と思う。

すると、「だったら自分もこれを書いてみようかな」と思える。

さらに別の誰かがそれを読んで、自分のなかにも似たものがあったことに気づく。

良い共同体というのは、意見を交換する場所である以上に、互いのなかに眠っている言葉を「そういえばそれを聞いて思い出したのだけれど」と、引き出し合う場所なのではないか。

このブログでも何度か書いてきた「喫茶去」の精神も、ここにつながっていると思います。

すぐに評価しない。すぐに正誤判定しない。当然、論破なんかは絶対にしない。まず「まあ、ここに置いてみなよ」と互いに認め合う。

ただ、「安全だから何を言ってもいい」という話ではない。

それについては、あとのほうで書きます。

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その前に、なぜ「書くこと」が必要なのか、という話を改めてここでしておきたいなと。

これはWasei Salon内の今週の問いにも見事に通じるお話だと思います。

人間は、頭のなかだけで考えていると、自分で自分を検閲してしまう。

「こんなことは言わないほうがいい」「これは間違っている」「説明がつかないからやめておこう」と、無意識のうちにデリートしてしまいますよね。

魂の叫びというのは、最初から頭のなかに完成形として存在しているわけではない。それは、書きながら初めて出会うものだと僕は思います。

文章は、ときどき自分より先に突っ走るし、書いている途中で、「え、自分はこんなことを考えていたのか」と気付き、そして同時に、「こんなこと、書いちゃっていいんだ」という驚きなんかも同時にやってくる。

書くこととは、考えたことを文章にすることではなく、自分のなかにまだ存在していなかった自分と出会うことだと思うのです。

だから最初は、必ず「書く」という行為が必要になるはずです。

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では、そうやって出会う「魂の叫び」とは、いったいどんな形をしているのか。

残念ながら、それは決して美しいものではないはずです。

むしろ、大抵の場合はひどく醜い。

僻みっぽくて、矛盾していて、嫉妬深くて、被害妄想的で、他人を傷つけるし、自分でも自分が嫌になるほどです。

それが人間の内側から最初に出てくる剥き出しの感情だと思うのです。

それゆえに、過去に何度もご紹介してきたドストエフスキーの『地下室の手記』こそ、僕は魂の叫びのお手本のような書物だと思う。

あの地下室に閉じこもる主人公の言葉は、とても「正しい」とは言えません。そして、読みながら、実際に死ぬほど不快です。

でも、だからこそ価値がある。

文学というのは、人間の内側から湧いてくる「社会的には提出不可能なもの」を、消さずに置いておくことであって、普段ならノイズとして削除されるものに、居場所を与える行為ということなんでしょうね。

だからこそ、魂の叫びは文学の領域でもあるのだと思います。

なぜなら、それはまったく社会的には正しくないから、です。

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そして、ここは逃げずに書いておかなければいけないところだと思っているのですが、魂の叫びを礼賛すると、「だったら好き勝手に、差別的なことを書けばいいのか」という話に必ずなる。

実際、人間の好き嫌い、偏見や直感は、ほぼヘイトと紙一重です。

というより、しばしばそのままヘイトだったりもします。

自分の眼鏡から見れば真実でも、他人から見れば誤情報や妄想でしかない、ということはいくらでもありえるからです。

だから「魂の叫びだから許される」では決してない。そこは、くれぐれも誤解しないでほしい点です。

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「正しくない」という言葉のなかには、少なくとも三つの意味が混ざっているのだろうなと。

ひとつは、事実として間違っていること。

次に、倫理的に他者を傷つけること。

そして最後に、まだ社会に提出できるほど、整っていないこと。

この三つは、似ているようで同じではないのだろうなあと。

事実は確かめればいい。誰かを傷つけたら、言い直し、謝り、修復する必要がある。でも、まだ整っていないという理由だけで、その言葉の芽まで摘んでしまうのはもったいない。

もし線を引くなら、衝動には、存在する権利が必ずある。でも、衝動のまま他者を傷つける権利まではないということです。

ここに僕は明確な境界線があると思っています。

そして、僕がいまここで声を大にして伝えたいのは「無責任である権利」ではないのです。

そうじゃなくて「まだ未完成である権利」なんです。

この区別がないと、「魂の叫びを大切にしよう!」は、ただの無責任な、そして他者に対して非常に無礼な、本音礼賛になってしまう。

逆に、この区別さえできれば、AI時代、かなり強い人間固有の思想になると思っています。

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で、これまで社会は、危険な衝動を「言うな」「考えるな」「抑えろ」という方向で扱ってきました。

それは実際正しかったと思います。

でもAI時代には、そのやり方だけでは、もうマズいわけですよね。

なぜなら、全部抑制したあとに残る、正しくて、配慮があって、角がなくて、成熟して見える言葉だけだったら、AIがいちばん得意なものだからです。

人間にしか出せないものほど社会的には危うく、社会的に安全なものほどAIでも出せてしまう。

ここに、ものすごく厄介で大きな現代的ジレンマが存在する。

だから必要なのは、抑圧ではなく、手なづけることなのだと思います。

「あ、自分はいまこの人が嫌いなんだ」
「自分はここに偏見を持っているんだ」

「これは事実ではないかもしれないけれど、どうしても私にはこう見えてしまう」

と、まずはその存在を認めてみる。

そのうえで、これは事実なのか、自分だけの感情なのか、どこから来たのか、誰かを傷つける形になっていないか、それでもこの感情のなかに拾うべきものはないか、と扱っていく。

抑え込むのでも、垂れ流すのでもなく、書きながら発見し、それを上手に手なづける。

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この点、たとえば同じ言葉でも、Xにそのまま投稿されればヘイトになり、小説のなかに置かれれば、人間の醜さを見つめるための貴重な材料になる、ということは世の中に山ほどあります。

もちろん、小説に書けば何でも許されるわけではない。文学だって人を傷つけるし、偏見を再生産することもある。

ただし、それでも文学が昔からしてきたのは、叫びを免罪することではなく、叫びと読者のあいだに「距離」や「文脈」を丁寧につくることだったのだと思います。

叫びの生々しさを殺さずに、他者が受け取れる形式にする。

だから文学とは、魂の叫びを「正しくする」技術ではなくて、魂の叫びを「正しくないままに」人間が見つめられる形にする技術なのではないか、僕は真剣に思います。

それは、小説という真っ赤なウソだからこそ、嘘から出たマコトがキレイに抽出できるということでもある。

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そう考えると、これから人間に必要なのは、「正しい言葉をつくる技術」だけではないのだろうなあと。

それは繰り返しにはなりますが、AIのほうが圧倒的に得意だから。

必要なのは、自分のなかにある、まだ正しくないものをどう扱うか、という技術のほう。

そしてそれを人類は、ずっと昔から神話や文学のような形でやってきた。

嫉妬や憎悪、欲望や偏見、復讐心や自己欺瞞、自己嫌悪や狂気、それらを社会から消すのではなく、作品のなかに置いて距離を取って、見つめてきた。

だからAI時代になるほど、文学が重要になる、僕は結構本気でそう思っています。

ドストエフスキーの『地下室の手記』が生身の叫びだとすれば、村上春樹はそれをずっと洗練し、距離を取り、形式にまで持っていった文学なんだと思います。

それゆえに美しい。でも逆に、その洗練されすぎた感じが、ときどき鼻にもつく。

あの鼻につく感じは、たぶん叫びと形式のあいだの距離の遠さ、なんでしょうね。

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で、ここで、Wasei Salonの話に戻ります。

Wasei Salonは、すでに正しい人たちが、正しい建前で集まる場所ではないはずです。

もちろん、絶対に失言しない人が集まる場所でもないし、完成された人格を互いに見せ合うような場所でもないと思っています。

むしろ、「未完成な人格」を互いに持ち寄って、禅の「十牛図」のようにその扱い方を練習する場所だと思っています。

だから当然、失敗もする。誰かの足を踏むこともあるし、言いすぎることもある。あとで「なんであんなことを書いたんだろう」と後悔する。僕なんて、毎日です。

だから、ちゃんとブログで言い直すし、時に謝罪もする。必要なら撤回もする。

でも本来、人間の成熟というのは、そういう「運動」や「循環」の形だったはずです。

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「最初から一度も他人の足を踏まないこと」を目標にしてしまうと、人は何も言わなくなる。まさに、今の若い子たちがそうであるように、です。

でもそれでは、人間そのものは、何も学習していないし、成熟もしていかない。正しさを教科書的に知っているだけ、なぞっているだけの状態です。

安全な場所とは、誰も一度も傷つかない場所ではないと思います。

受け取らなくてもいいし、そこから静かに距離を取ってもいい。

そういう修復と退避の回路が、ちゃんと用意されている場所のことなのだと思います。

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そして、これは足を踏む側だけの話ではありません。踏まれる側もそう。

誰かのまだ正しくない言葉を読んだとき、すぐに悪意(ヘイト)だと決めつけず、「この人はいま、自分の衝動を手なづけている途中なのかもしれない」と、少しだけ保留してみることも、大事な親切心です。

受け取らない自由も、返事をしない自由も、距離を取る自由もあるわけだから。

Wasei Salonでずっと大切にしてきた「無視できる自由」「無関心でいられる自由」も、まさにここにつながっています。

受け取る側は、受け取れないなら、無理して受け取らなくていい。

その両方があって初めて、場所は場所として機能するのだと思います。

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最後に、まとめてみると、人間には以下の3つの段階があると思っています。

まずは、衝動を発見する。

次に、安全な場所で、失敗しながらそれを手なづける。

最後に、AIの編集の力なんかも借りながら、その手なづけたものを、社会にしっかりと還元していく。

AI時代に人間が担う役割は、正しい情報を発信することではなく、まだ社会化されていないものを見つけて、それを他者と共に、生きられる形まで丁寧に育てることなのだと思います。

だから冒頭の話に戻れば、「そんなのAIで調べればいい」で、いいんです。

正しい情報は、それぞれが、それぞれの手元、AIに何度でも繰り返し、しつこいくらいに聞き出せば良い。

その代わり人間同士では、「なぜかわからないけれど、これが気になって仕方がない」とか「こんなことを考えてしまった」とか「たぶん間違っている、でもどうしてもこう感じる」を持ち寄ってみること。

AI時代にほんとうに必要なのは、正しい情報を共有する場所ではなく、まだ正しくなっていない言葉を置ける場所なのだ、と。

そして、少しメタな話ですが、今日のこの話なんかもまさに、AIを通してブログにすると、こんなにキレイな話になる。

でも、これも絶対に表では書けないような衝動から生まれたタイプのブログです。

それはWasei Salonのメンバーのみなさんであれば、ご存じの通りのはずです。

でも、AIが整えてくれたのは、あくまで文章のかたちです。

「まだ正しくなっていない言葉」を、他人を傷つけるだけのものにせず、かといって殺してしまうこともなく、社会にちゃんと返せる形まで丁寧に耕していけるようにすること。

そのために、安心して種をまくことができるような、共に育んでいくことができるような場所を僕は淡々とつくっていきたい。

それこそが、これから人間が引き受けるべき仕事だと思うから、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。