そうか、Substackって記事の単品販売がないんだ!と、先日いまさらながら気づいて、けっこう驚きました。

noteみたいに「この記事だけを300円で買う」ということができないんですね。

でも、よくよく考えてみると、この仕様もものすごくSubstackらしいなあと。

コンテンツ単体を買うんじゃなくて、あくまでその人を購読することに徹する構造。

課金の設計からして「コンテンツ」じゃなく「人」にひもづかせている。ホント徹底しているし、なんだかとても思想がつよいなあと思いました。

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基本的に、Substackのおすすめって、従来のTikTok型じゃないんですよね。

具体的には、好みの「コンテンツ」を分析してコンテンツをぶつけてくるんじゃなくて、好みの「人」を分析して、似たような「人」をぶつけてくる。初期のTwitterに、ものすごく近い仕様です。

だから、好きな人の文章を定期的にシェアしたり、いいねしたりしていると、どんどん自分の好きなタイプの人がおすすめされやすくなってくる。

そして同時に、自分自身もそのソーシャルグラフに乗っかって、似た感覚を持つ人たちのおすすめに出ていくようになります。

単品販売がないこと。そして、人が人を推薦する仕組みであること。

この二つが揃っているのを見ると、Substackというのは「コンテンツじゃなくて、人にひもづくSNS」なんだと言い切ってしまっていいような気がしています。

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だとしたら、ここで考えるべき問いも、少しずつ変わってくるはずなんですよね。

それは、「どんな記事が読まれるのか」とか、「どんな内容に課金されるのか」ではなくて、

「継続して読みたくなる人、課金してでも読みたくなる人って、一体どんな人なんだろう」

そんなことのほうを、徹底して考えないといけないんじゃないか。

今日は、そんな問いを起点にしながら、これからのSubstackの使い方について自分なりに考えてみたいと思っています。

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ただ、その前にひとつだけ引っかかっていることがあって。

最近Substackにいるひとたちのプロフィールを眺めていると、匿名+謎アイコンの人がとても多いんです。

XやDiscordで見慣れた、あの「身元を明かさない」の構えのまま、Substackにも入ってきている。

もちろん、それが間違っていると責めたいわけではないんです。実名でやれと言いたいわけでもないし、匿名だから話せることは確実にある。勤務先や家族の事情で名前を出せない人がいることもわかっています。

ただ、Xでは明確に武器になるその匿名性というものが、Substackではむしろ逆効果になるんじゃないか。

たぶんあの場で炎上することも、Xほどは多くないでしょうし、匿名性そのものが少しずつ負債になっていく場所なんじゃないかと思ってしまうんですよね。

一体、いつからSNSは匿名が当たり前になってしまったんだろう……?と、なんだかとても悲しくなりました。

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で、似たような話をWasei Salon内にも書いたら、20代前半の若手メンバーから、こんなコメントをもらいました。

「インターネット黎明期の2ちゃんねるもそうですが、元々インターネットのSNSは匿名が当たり前じゃないですか?」と。

これは本当に素晴らしい指摘だなあと唸ってしまいました。

というのも、インターネットの歴史の話と見事につながるからです。

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そもそも「掲示板文化」と「SNS文化」というのは、本来かなり違うものだったんですよね。

少なくとも、僕が2010年前後に触れ始めたSNSは、2ちゃん的な匿名掲示板とは、まるで逆方向に進んでいるように見えました。映画『ソーシャル・ネットワーク』などを観てもらえると、その時代の空気感はなんとなく伝わるんじゃないかと思います。

掲示板というのは、話題のもとに人が集まる場所でした。

スレッドが主役で、誰が書いたかはほとんど問われない。書き手は「名無し」でいいし、むしろ、名無しがいい。

一方で、当時のSNSは、その逆でした。

話題ではなく、人をフォローするし、リアルに存在する個人にひもづいた信頼や人間関係を、インターネット上に移設していくような仕組みだった。

そこが画期的だったわけですよね。

少なくとも僕が学生時代に触り始めたころのTwitterやFacebookには、本名で、顔写真で、仕事がわかって、どんな人間と日々つるんでいるのか、それが断片的にではあれ、一本の線としてぼんやりつながっている感じがありました。

単純化してしまえば、掲示板がコンテンツ軸で、SNSが人軸だった。

ところが今は、SNSこそが掲示板になってしまっている。

だから今の若い世代が、「SNSって元々匿名が当たり前でしょ」と感じるのは当然だし、逆に言えば、それこそが今のSNSの大きな変化なんだと思うのです。

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じゃあ、なんでSNSは、掲示板になっちゃったのか。

SNSが巨大化し、投稿がフォロワーのもとだけではなく、文脈をまったく共有していない誰かのところへ、アルゴリズムによって運ばれるようになったからだと思います。

そして、そのほうがビジネスとしても圧倒的に強いということを、TikTokが見事に証明してしまったからです。

フォローしている人ではなく、見たくなるコンテンツを次々に表示する。その仕組みによって、SNSは人間関係のネットワークというよりも、巨大なコンテンツ配信装置へと変わっていった。

そうなると、自分の投稿が一体いつ誰に届くかわからない。

自分を昔から知っている人だけではなく、文脈から切り離された一文だけが突然知らない誰かのもとへと届けられる。

それは、広く拡散される可能性があるかわりに、炎上するリスクも最大限までパンパンに膨れ上がるわけです。

そんな環境での合理的な防御策は、名前も顔も出さずに、リアルの人格とネットの人格をきれいに切り離すことです。

だから僕は、匿名化した人たちを「おかしくなった」とは思わないんです。

むしろ逆で、彼らは過去10年ぐらいで変化していった環境に対して、もっとも正しく、合理的に適応した側のひとたちだと思います。

おかしくなったのはユーザーではなくて、プラットフォーム。つまり、場のほうです。

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そして、今そこに突如AIが鳴り物入りで登場してきた。

少し前までなら、謎のアイコンでも、文章がおもしろければそれで十分でした。

誰が書いているかなんて、本当にどうでもよく、おもしろいコンテンツそのものが、「おもしろい人がそこにいる」ということの証明になっていたからです。

でも今、その等式が完全に崩れかけているわけですよね。

謎のアイコンに、謎の名前に、きれいに整った文章に、大量の投稿。

この四つが揃えば揃うほど、誰しもが「そもそもこれ、人間が書いてるの……?」という疑いのほうを先に持つようになってきた。

言い換えると、文章の質やクオリティが、もう人間であることの証明にはならないんですよね。

むしろAI時代には、そういう発信こそ真っ先に「生成されたものではないか」と疑われても仕方がない。少なくとも、そう見えてしまう時代の変化を、もう誰にも止められないと思います。

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だとすると、AI時代の信頼は、コンテンツそのものではなく、「誰が言っているのか」という人の軸のほうへ急旋回し、また戻っていくしかない。

Substackがこのタイミングで日本に入ってきたのは、そういう意味でも必然だったのかもしれません。

とはいえ、ここで「だから実名にしよう!」と着地させると、たぶん短絡的な答えになってしまいます。

別に本名だから信用できるわけじゃない。

実名で平気で嘘をつく人たちなんて世の中にいくらでもいるし、ハンドルネームのまま10年間、同じ調子で書き続けている人の言葉のほうが、よっぽど信頼性が高かったりもします。

大事なのは「実名か、匿名か」じゃなくて、「生身の時間的な履歴がある存在なのかどうか」なんだと思います。

過去と現在の発言がちゃんとつながっていて、人間関係も見えて、実際に何かを経験していて、自分の言葉の責任を、最終的には自分で引き受ける人なのかどうか。

実名性ではなく、そんな存在証明こそが大事。

だから音声配信なんかも、テキストと同時に発信することがとても大事になってくるんですよね。

AIがいくらでも文章を生成できるようになればなるほど、「文章の向こう側に、ちゃんとひとりの人間がいる」と感じられること自体が、一番重要になっていくんだと思います。

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ただ、ここで全部ひっくり返すようなことを言いますが、どこまでいっても、生身の人間だって怪しいわけです。

詐欺師こそ、いちばん信頼できそうな、生身の誠実な人間を装う。それは、いつの世も変わらないことです。

じゃあ、その怪しさを、それでも一体どうやって担保するのか。

最終的には、既に自分が信頼している誰かが、自分の名前と責任において、その人を推薦するしかないんですよね。

そして、ここもSubstackは先回りして準備しているように見えます。

Substackの推薦機能というのは、そういう意味で、単なるおすすめ表示ではないのだと思います。

少なくとも僕には、あの推薦欄が、「この人を、僕は継続して読みたいと思っています」と、自分の名前を添えて紹介する場所に見えます。

つまり、推薦するということは、相手に信用を渡すだけではなく、自分自身の信用も少しだけそこに賭けることになる。

推薦した相手が怪しければ、自分の信用も一緒に目減りしてしまいますからね。

だから絶対に軽々しくあの欄でオススメすることはできないし、逆に言えば、だからこそあの推薦欄にはAI時代、ものすごく大きな価値があるんだと思います。

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以前、AI時代には地縁・血縁が戻ってくる、という話を書きました。

参照:AI時代に「地縁・血縁」は若者に仕事を残すために戻ってくる。

あのときは仕事の話として書いたのですが、書き手の話でも構造はまったく同じなんですよね。

文脈を何も持たない新しい書き手が、AI時代に最初に持てる信用って、結局のところ、「誰かに名前で推薦してもらった」ということくらいしかないのかもしれない。

次の世代の書き手に光を当てる方法は、なんだかんだで結局、このいちばん古典的な方法しか残っていないんじゃないかとさえ思ってしまいます。

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さて、ここで最初の問いに戻ります。

継続して読みたくなる人、継続して課金したくなる人って、一体どんな人なのか。

それは、一本の記事がバズる人ではないんですよね。

発言がちゃんと線でつながっている人。自分の生活と経験の中から、定期的に書き続けている人であり、過去に言ったことと、今言っていることのあいだに、ちゃんとその人なりの時間が流れている人。

そのうえで、ちゃんと会いに行くこともできて、自分の言葉の責任を、自分自身で引き受けている人です。

そんな履歴のあり方こそが、少しずつ信頼につながっていくのだと思います。

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だから、冒頭でも書いたように、Substackで考えるべきは「何を投稿すれば伸びるか」ではないんだと思います。

2020年代後半の今のX・今のnoteとは、まるっきり戦い方が異なるはずです。

むしろ、2010年代の過去のTwitter・過去のnoteでうまく立ち回っていた人たち。

コンテンツ単体ではなく、人としてフォローされ、人として読み続けてもらうことが上手だった人たちが、きっとSubstackでも頭角をあらわしていくんじゃないかと思います。

そして大切なのは、自分自身も、そのソーシャルグラフのなかにしっかりと参加していくこと。

具体的には、「この人の発想や思想が好きだ」と思う人の文章を淡々とシェアしながら、自分の名前で推薦していく。

それは、自分の信用を少しだけ差し出す行為であると同時に、自分自身をそのソーシャルグラフに乗せていくことでもあります。

そうやって「群れずに、群れたい」の本質を実践し続けることで、少しずつ道が拓けていく。

参照:Substackでも、群れずに、群れたい。 

考えてみれば、これはずいぶん不思議な話なんです。

AIによって、誰でも質の高い文章を書けるようになった結果、僕たちは以前よりもずっと、「文章そのもの」ではなく、その向こう側にいる人間を見ようとするようになっているわけですから。

何を書いたのか以上に、誰が、どんな時間を生きてきて、なぜそれを書いたのか。

そして、その人を誰が読んでいて、誰が推薦しているのか。

コンテンツが無限に生成される時代になったからこそ、有限な人生を生きているひとりの人間の履歴が、逆説的にとても大きな価値を持ちはじめる。

だからSubstackで考えるべき問いは、やっぱり「どうすれば読まれるか」ではない。

「自がは、どんな人間であれば読み続けてもらえるのか。」そして同時に、「自分は、どんな人を読み続け、誰を自分の名前で推薦したいのか。」

たぶん、その二つを考え続ける場所なのだと思います。

読まれるコンテンツより、読み続けたくなる人になること。

Substackは、そんなインターネットをもう一度つくろうとしている場所なんだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。