前回のブログで、マンガ『本なら売るほど』を読みながら、いいお客さんがいいお店をつくる、という話を書きました。

古本「十月堂」というお店は、店主だけがつくっているのではない。そこに集まる人たちが、少しずつその場を引き受けることで、場が育っていく。それは、コミュニティにも通じる話である、と。



ただ、先日の読書会を通して、僕はもうひとつ別の問いにも辿りつきました。

育ったものは、どう終わるのか。
大切にされてきたものは、どう手放されるのか。
そして、何かを受け継ぐとは、どういうことなのか。

今日はその問いに対しての、自分なりの暫定解について書いてみたいと思います。

ーーー

読書会の中で、1巻に出てくる以下のようなセリフが話題にあがりました。

「心ない人に買われるくらいなら、心ある人に捨てられたい」


このセリフ、読書会の終盤でメンバーのにしじーさんが取り上げてくれるまで、正直僕は完全に忘れていたようなセリフです。

でも、言われてみるとなんだかすごい言葉だな、と思う。

そして思い返してみると、この一行こそが、この漫画全体の中心メッセージなんじゃないかなと感じるようになったんですよね。

ーーー

では、なぜそう感じたのか。

この漫画に限らず、そもそもの話として、僕らは「継承」という言葉を、ちょっと素朴に捉えすぎているところがあるんじゃないかなと思います。

言い換えると、何かを次の世代に手渡すというときに、「同じ形のまま残し続けること」が、すなわち継承だと無意識のうちに前提してしまっているような気がします。

たとえば、伝統文化の場合、味噌は味噌のまま、日本酒は日本酒のまま、能は能のまま、歌舞伎は歌舞伎のまま。それが形式的に続いていれば、伝統はちゃんと守られている、とみなしがちですよね。

最近、小倉ヒラクさんの新刊『僕たちは伝統とどう生きるか』を読みました。

https://wasei.salon/books/9784065433485

この本もまた、このままだと伝統が中断されてしまう、受け継がれなくなってしまうという危機感から書かれたものだと思う。

引き継がれる伝統があることは、もちろん尊いし、ヒラクさんがやっていらっしゃることは本当に貴重な仕事だなあと感じます。

この本に書かれていることも、何ひとつ間違っていない。まさに現代人必読の書です。

ーーー

ただ、ここで僕は少しだけ異なる角度から考えてみたいなと思うのです。

たとえ、味噌が味噌のまま残らなかったとしても、引き継がれなかったなりの納得感も一方できっとありうるんじゃないか、と。

未来の日本で、味噌そのものはなくなったとしても、「味噌らしい面影が宿っているもの」が未来に別の形で残っていれば、僕らは案外、それで満足できるんじゃないかと思うんですよね。

同様に日本酒も醤油も、プロダクトとしてそのままの形では残らなくても、そのらしさが次の時代の何かに乗り移っていれば、それは継承と呼んでいいんじゃないか、というだいぶラディカルな意見です。

ーーー

でもこうやって考えてみると、「心ある人にちゃんと捨ててもらえることのほうが、むしろ本当の意味で、バトンが繋がるんじゃないか」という感覚が、素直に湧いてくるなと思えてきませんか。

すごく逆説的に聞こえるけれど、言葉にしてみると、そうとしか言えない感じが確かにあるなあと。

心をこめて捨ててくれる人がいるからこそ、その「らしさ」みたいなものは、別のところで生き残ってくれるはずだと素直に期待することができる。

逆に言えば、味噌や醤油や日本酒がちゃんと、製法通りに残っていたとしても、それが心ない人間の手によるものであれば、形がまったく同じであっても、それはやっぱりまったくの別物だと僕は思います。

ーーー

で、このあたりの話を、松岡正剛さんはずっと語ってきたはずです。

つまり、日本の「伝統」の本質は、物質的なものとか形式的なものに引き継がれるのではなくて、その奥にある「面影」や「なりふり」のほうにあるのだと。

僕らはつい、能だったら能の型、歌舞伎だったら歌舞伎の様式、味噌だったら味噌のレシピ、というふうに、形が引き継がれていれば、伝統はちゃんと残り続けていると考えてしまう。

でも、本当に大事なのは、そこにある面影や、なりふりみたいなものを抽出(蒸留)して、それを次の時代の主要なものへと移植していくことのほうが大事なんだと、松岡さんは繰り返し言っているように、僕には聞こえるんですよね。

たとえば、今だったらスマホでもAIでも、その次に来るフィジカルAIでも何でもいいのですが、そこに「日本の面影」を移植することのほうが大事なんだと。

そう考えると、「心ある人に捨てられたい」というあのセリフは、ものすごく深いところで、この「面影の継承」みたいな話と深く通じているように思えてくるから不思議です。

ーーー

そして、結局これは僕がずっとテーマにし続けている「弔い」の話なんだろうなと感じてしまいます。

このセリフは、弔いというテーマに見事に直結している。

「心ある人に捨てられたい」というのは、つまり「心ある人にちゃんと弔われたい」ということと同義なんじゃないかと思えます。

たとえば、わかりやすいところだと、形だけを保つために延命される伝統芸能、というものが世の中にはたくさんありますよね。

行政から多額の補助金がおりて、天下り先にもなり、それを頼みの綱にして生きている人たちがいる。その権威性と補助金だけが目的化しているというような。

これって、植物人間状態のおじいちゃんを、年金が振り込まれ続けるからという理由で一日でも長く生かそうとする、あの感覚と構造としては地続きなんじゃないかと思う。

形は保たれている。でも、そこに本当の魂が宿っているかと問われると、案外心許ないというような。

ーーー

それよりも、心ある誰かにちゃんと弔われて、ちゃんと供養されて、この世から消し去ってもらったほうが、その面影やなりふりが次の文化にただしく乗り移っていくし、そのほうがよほど健やかな継承なんじゃないかと、僕は思うのです。

もっと言い切ってしまうと、心ある人に捨ててもらえるからこそ、そのバトンはちゃんと繋がっていくということです。

また、読書会のなかで、メンバーのまいとさんが僕のこの話を受けて返してくれた言葉が、頭の中にずっと残っています。

それは「外側から終わらせてくれる」体験の大切さ、という話です。

自分で何かを強引に終わらせようとすると、僕らはミスを犯したり、傷ついたりする。

でも「もうそこまでやったんだから、もういいんだよ」と外側から終わらせてもらえることで、その思い出はむしろ、健やかに保たれて成仏できる、ということです。

自分の意志だけで完結させない。誰かが引き受けてくれることを信じて、途中で手を放してみる。そのほうが「私の魂」はつながっていく、と。

映画『銀河鉄道の父』の中で、森七菜さん演じる宮沢賢治の妹・トシの「綺麗に死ね」とビンタしてから、優しく抱きしめたように、です。


ーーー

ただ、ここでただの美談にせずに、正直に書いておきたいこともあります。

それは、「心ある人に弔ってもらいたい」「心ある人に終わらせてもらいたい」という感覚は、よくよく考えてみると、結構危うい話でもあるわけです。

日本人の切腹の美学とか、戦時中の自決の強制とかは、まさにここにダイレクトにつながる話だから。

あとは、少年漫画にありがちな展開、最強のライバル同士の間柄で「最後は、おまえの手によって殺されたい」と願う、あの構造なんかもそう。

これらは紛れもなく、いま自分が書いている「心ある人に終わらせてもらいたい」という感覚と地続きにあるはずで、ものすごく日本人的な美学であり、ともすればものすごく危うい話です。

これはちゃんと認めなければいけないなあと思います。

ーーー

だから「心ある人に捨てられたい」というメッセージを無批判に礼賛するのは、たぶん違うはず。

でも、それを認めた上でもなお、そのときのほうが「何か」が継がれていく、という感覚は確かに自分の中に確固たるものとして存在するのは事実です。

むしろそうすることで、初めて自分の魂は、自分の死後も真の意味で受け継がれていく。それこそが人間の死への孤独感や恐怖を和らげてくれる、唯一の方法であるだろうとさえ思える、不思議な感覚。

これが一体何なのかは正直、今の自分にはまだ語り切れないし、それを書くだけの筆力も持ち合わせていない。

けれども、それでもこの話を否定しきれない自分がいる、ということだけは、ちゃんとここに書き残しておきたいと思います。

ーーー

たぶん大事なのは、誰に弔ってもらえるか、誰に終わらせてもらえるか、ということで。

そして、その「誰」というのが、自分が本当に尊敬している人間とか、本当に信頼して血がつながっている家族とかでなければ意味がない、という非対称性があるからこそ、この美学は美学として立ち上がるんだろうな、と思う。

逆に言えば、「血筋」というのは、そのためにあるような気もします。不条理さや不合理さ、不確かさを、それでも信頼するための担保としての「血(チ)」。

形にはなっていないけれど、何かがきちんと継承されていく。そして、その継承を引き受けてくれる「心ある、あの人」がいるということ。

たぶん僕らが本当の意味で人生に「生きた証」として求めているのは、そういうことなのだと思うんですよね。

ーーー

そして、これが前回のブログの内容にもつながるけれど、『本なら売るほど』という漫画が、十月堂という古本屋と「古本」という形あるモノを通じて、描き続けているメッセージそのものなのかもしれない。

そして、その運動を引き受けてくれている主人公の店主のような人がいるからこそ、本は本として、ちゃんと弔われていく。

きっとこの感覚は、本に限った話ではありません。コミュニティもまったく同じなんです。

僕が「弔い」というキーワードにやたらと固執してしまうのも、たぶんそこに理由がある。

Wasei Salonもまた、同じ形では残らないかもしれない。でも、その「面影」や「なりふり」が、心ある人たちによって、別の未来の場所へと移植されていくなら、それはとても幸せなことだなあと本気で思います。

そして、そんな人たちがすでにWasei Salonの中にはたくさんいると感じられることに、僕はもう既にほんとうに心から感謝しています。

形式や物質ではなく、魂が受け継がれていくこと。

そのためには、終わることの悲しさや、弔うことの痛みから目を背けないことがきっと、とても大事なことなのでしょうね。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。