先日、Wasei Salon内で『本なら売るほど』という漫画の読書会が開催されました。
https://wasei.salon/events/399adaebf1ef
「マンガ大賞2026」を受賞した古本屋を舞台にした漫画なので、最初はもっとシンプルに、「古本っていいよね」とか、「リアル書店でも、本を買いたくなるよね」みたいな話になるのかなと思っていました。
もちろん、そういう話もたくさん出てきます。
でも、実際に読んでみて、さらにWasei Salonで読書会を開催してみて、僕がいちばん強く感じたのは、これは古本屋の漫画であると同時に、コミュニティの漫画でもあるのだな、ということでした。
もっと言えば、いいお店とは何か、いい場とは何か。いいコミュニティとは、どのように立ち上がっていくのか。
そんなことを考えさせられる作品だったなあと思うので、今日のブログの中でもそんな観点について改めて丁寧に考えてみたいと思います。
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『本なら売るほど』に出てくる古本屋には、いろいろなお客さんがやってきます。
本が好きな人もいるし、本について詳しい人もいる。逆に、本を読むことが苦手な人もいて、本を大切にする人もいれば、少し乱暴に扱ってしまう人も出てきます。
ただ一貫して、そのお客さんたちが、単なる「お客さん」として描かれていないところが、この漫画のおもしろいところだなあと僕は思ったんですよね。
ここで描かれているお客さんは、ただ本を買う人ではなくて、ただお店に来る人でもないのです。
古本屋というひとつのお店の場の空気をつくる人であり、物語を次へ運んでいく人でもあるように描かれてある。
具体的には、一話限りのモブキャラ登場人物に見えたひとが、二巻、三巻になるとまた現れたりするのが、このマンガの特徴です。
以前買った本や売った本、話したことや交わした言葉が、別の誰かの物語に少しだけ触れていくような感じが、なんだかとてもよかったんですよね。
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また、主人公である古本屋の店主が、物語の出来事や問題をすべてを解決するわけではない。
つまり、店主が正しい言葉を与えて、お客さんの人生を劇的に変えるわけでもないのです。
ときには、古本屋が全く関係ないところで、お客さん同士で、勝手に物語が進んでいく。
ただ、その店に来た人たちが、それぞれに少しずつ何かを置いていくことがきっかけで物語が始まっている。
だからこそ、やっぱりこれは古本屋「十月堂」というお店をめぐる物語だなあと思わされるし、僕はそこに、コミュニティにとっても、すごく大切なことが描かれているように感じました。
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これはずっとこのブログに書き続けてきたことではありますが、いいお店は、いい店主だけでは絶対につくれません。
もちろん、店主のセンスは大事です。でも、それだけでは、決していいお店にはならない。
そこに来るお客さんが、どんなふうに振る舞うのか。それによって、お店の空気はまったく変わってしまいます。
そして、これは、コミュニティにもまったく同じことが言えると思います。
いいコミュニティは、運営者だけでは絶対につくれない。運営者にできることは、せいぜい場を淡々と開き続け、日々丁寧に、神社を掃き清めるようにして耕し続けることだけです。
最低限のルールを整えたら、あとはその空気が壊れないように見守ることぐらい。
そして、その場が、本当に生きもののように活動し始めるかどうかは、そこに集まる人たちの立ち振る舞いにこそかかっている。
そういう小さな何げない呼応の積み重ねによって場は少しずつ、でも着実に育っていくなあと、自らの8年間の実体験を通して、今ほんとうに強く思います。
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あと、くれぐれも誤解しないでほしいことは、ここで言う「いいお客さん」とは、お金をたくさん支払う人のことではありません。
もちろん、店主にとって都合のいい人のことでもないし、店主の言うことを何でも肯定してくれる人のことでもない。
むしろ、そんな人ばかりが集まる場所は、たぶんあまり健やかではないなと思います。逆に水は着実に濁っていく。
僕がここで言いたい「いいお客さん」とは、その場が大切にしているものにちゃんと耳を澄ませて、注意深く振る舞ってくれる人のことです。そこに「正解」の言動が最初からあるわけでもない。
自分も、その場の空気をつくるひとりなのだと、自らに少しだけ引き受けて、一緒に荷物を持つようにして世界観を抱えて共に耕してくれる人。
そういう人が集まることによって、店は店になり、コミュニティはコミュニティになっていくのだと思います。
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『本なら売るほど』を読んでいて、もうひとつおもしろいなと思ったのは、その場限りの登場人物のように見えるキャラが、作者が意図しないところで、動き出しているように見えること。
つまり、作者自身もきっと、以前のエピソードに出てきた登場人物をもう一度登場させようと、最初の構想段階で考えていなかったんじゃないかと思うのです。
もちろん、作者の方がどこまで最初から考えていたのかは、読者である僕らには定かではない。
でも、読んでいる一読者の感覚としては、主要キャラクターが最初からきっちり決まっていて、その設計図通りに物語が進んでいるようには、まったく見えませんでした。
つまり、伏線を意識して物語を進めているわけではないはずです。
一話限りで終わりそうだった人が、またものすごくナチュラルに出てくる。それが、現実世界にとても似ていて、それもまた、とてもコミュニティ的だなと思いました。
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いいコミュニティも、たぶんそうだと思います。伏線があるのは、物語の世界のなかだけの話で。
誰が主役になるかは、最初はまったく決まっていない。誰がどんなふうに場を引き受けてくれるかも、始めてみないとわからない。
運営者が「この人はこういう役割。この企画はこういう意味であって、だからこの場はこう育つ」と決めすぎると、場はどんどんフィクションや役割演技に寄っていってしまって、チームや組織的になっていく。
もちろん、だから何も考えなくていいという話ではないのだけれど、でも、設計しすぎると、場の中で生まれるはずだった偶然の呼応みたいなものが、カンタンに死んでしまうような気がします。
場が育つ、健やかに育まれるというのは、設計図が実現されることではなく、予想していなかった思わぬ呼応が起きることなのだと思います。
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そして、この漫画は、そのうえで「時間」の描き方が、ほんとうにとっても上手です。
ある人の言葉や違和感や小さな出来事が、回収されないまま、しばらく宙に浮いたままの状態になる。
でも、物語が進むにつれて、別のエピソードの別の場面でふいにまた意味が舞い戻ってくる。
そうすると読者としても「たしかに、あれは、そういうことだったのかもしれない」と思わされる。
この感じも、コミュニティにとてもよく似ています。
ある人の何気ない投稿や、ある読書会イベントでの何気ない一言など、そのときは流れていったように見えた話題も、数ヶ月後、あるいは数年後に別の誰かの中で、それが意味を持つ瞬間がある。
コミュニティの価値は、その瞬間の盛り上がりだけでは決して測れないわけです。
言い換えると、その場でわかりやすく何かが起きることだけが、場の価値ではないということ。
時間が経ってから、ふいに意味が舞い戻ってくる。
あのとき置かれた言葉が、別の誰かの中でゆっくり発酵していることが伝わってきて、そういう時間差による発酵的変化があるからこそ、場は深く醸されていくというか、味わい深くなっていくのだと思います。
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一方で、この作品を読んでいて、少しだけ引っかかったところもありました。
それは、「お着物警察」のような人に出会って、嫌な思いをしてしまう若い女性に対して、そのあと破天荒なドクロ柄の着物を着たおばあちゃんと出会うというエピソード。
あの話自体が悪いというわけではありません。
むしろ、言いたいことは素晴らしいし、描きたいこともよくわかるんです。
「正解からズレてもいいし、自分なりにお着物を楽しめばそれでいんだよ」って。
そこから展開して、読者にも「もっと人生を、形式に縛られずに、自分の感性を信じて歩んでいいんだよ」という優しいメッセージを与えたいのだろうことは、容易に想像がつきます。
でも同時に、「正解からズレよう」というメッセージ自体が、ひとつの正解として最初から結論ありき、「正解」のように描かれているようようにも感じてしまいました。
最近の漫画やドラマの中には、こういう場面は少なくないなと思います。『異国日記』なんかもそうだった。
そのメッセージ自体はとても大事なのだけれど、それがあまりにも予定調和的に置かれると、逆にその物語自体が「正解」をなぞっているように見えてしまうジレンマがある。
「正解からズレる」という話なのに、話の構造自体が、まったくそんな「正解」からズレていないんです。
他の話は一話ごとに、良い意味で成り行き感があるからこそ、この話は、余計に浮いてしまって見えて、そこだけが少し、なんだかモヤッとしたのです。
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でも、この違和感も含めて、僕はこの作品がすごくおもしろいなとおもった。
なぜなら、コミュニティもまた、同じような危うさを抱えているなあと思ったからです。
コミュニティの「正解」、具体的には「安心安全で、誰もが気軽に話せる空間」みたいなことを謳った瞬間に「自由に話さなければならない」という逆の空気が生まれてしまう。
「多様性を大切にしましょう」と語った瞬間に、多様性を大切にしない人は排除される空気が生まれてしまう。
場をつくるというのは、いつもこの逆説との付き合い方こそが大事なのだと思います。
運営者が正しさを振りかざしすぎないことが大事になる。むしろ、正しさが生まれてきたら、運営者がまっさきにぶっ壊すこと。
場を守ることと、場を決めすぎることはまったく違う。
そこにいる人たちのなにげない小さな振る舞いによって、場が自然と整っていくことが理想的であって、それが、いいお店やコミュニティの強さであり必須条件なのだと思います。
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もちろん、古本屋とオンラインコミュニティはまったく違います。でも、『本なら売るほど』を読みながら、僕はずっとそんな事ばかり考えてしまいました。
そうやって、場を中心にしながら、そこに集まるひとたちのひとつひとつの小さなやり取りが、時間をかけて共同の記憶になっていく過程にこそ価値がある。
運営者にできるのは、たぶん、そのために場を開いておくこと。そして、そこに集まってくれる人たちを心から信じて、少し手放しておくこと。
いい場は、つくるものではなく、呼応によって育つものなのだと思います。
Wasei Salonもまた、そういう場所であれたらいいなと感じています。
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また、この読書会ではもうひとつ、非常に重要な発見にも辿り着きました。
それは、この本の中に出てくる「(古本が)心ない人に買われるくらいなら、心ある人に捨てられたい」というセリフをめぐるお話。
いい場が育つこと。そして、育ったものが、どう終わりを迎えて、どう受け継がれるのが本当の意味で、理想的なのか。
まさに「弔い」に関わる話であって、その話はとても長くなってしまうので、また次回のブログに書いてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/05/22 14:24
『本なら売るほど』読書会を終えて。いいお客さんが、いいお店をつくる。
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