最近、AIとやり取りをしていてとても不思議に思うことがあります。
こちらがうまく言葉にできずにいることを、AIは頭の中で絡まっていた論点をほどいて、「つまり、こういうことですよね」と返してくれて、ほんとうに助かるなあとは思う。
それは本当にすごいことだと思うんです。実際、僕自身は何度もそれに助けられてもいる。
でも、そうやって使えば使うほど、逆にハッキリしてくることもあるなと。
AIは、目の前の問いに返答することにはとても強い。でも「自分は何を大切にして生きるのか」とか、「どんな物語の中を生きたいのか」みたいな問いになると、急に別のレイヤーに飛ばされてしまう感じがあるんですよね。
そこでは、どれだけ整った答えを返されても、最後のところではやっぱり自分で引き受けるしかない。
最近は、そんなことをずっとモヤモヤと考えていました。
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で、そんなときに読んで、ああ、そういうことかもしれないと思ったのが、『中空構造日本の深層 増補新版』に収録されている、河合隼雄さんと吉田敦彦さんの対談「神話と日本人」でした。
その中で、とても印象に残ったのが、「もの」と「こと」という対比です。
ここでいう「もの」は、変わりにくい原理や秩序、背後にある定めのようなものです。
目には見えないけれど、その人や社会の下に流れている土台。
一方の「こと」は、その場その場で起きる出来事や局面です。偶然の出会いも、トラブルも、いま目の前で起きている問題も、すべてこちらに入る。
かなり乱暴に言えば、「もの」は背景で、「こと」は目の前。「もの」は土台で、「こと」は応答だと考えると、誰にでもわかりやすいのかなと。
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対談の中では、日本人はこの両方で世界を受け止めてきたのではないか、という話が出てきます。
ただ原理だけで生きてきたのでもないし、ただ目先の出来事だけで生きてきたのでもない。背後には「もの」がありながら、現場では「こと」に応じてきた。
その二重性の中で日本人は生きてきた、という見方です。
これを読んで、僕はなんだかものすごく腑に落ちました。
なぜなら、いまの時代はどうしても「こと」ばかりが前に出やすいからです。
役に立つ知恵、うまくやる方法、その場を切り抜けるための言葉。そういうものは、昔よりずっと豊かになったと思う。それがSNSでも、広く拡散されるようにもなった。
でも、人はそんな「こと」だけでは生きられないのだと思います。
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対談の中では、「諺(「こと」わざ)」と「物語(「もの」がたり)」の違いにも話が及びます。
「ことわざ」は局面ごとの知恵です。
河合隼雄さんの具体例も非常におもしろかったのですが、ことわざには必ず、真逆の意味合いのことわざがあるはずだと。
たとえば、「君子危うきに近寄らず」もそうだし、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」なんてまさにそう。
どちらも正しい。でも、どちらが正しいかは、そのときの「こと」次第です。SNSで語られる文脈のない話も大体そうですよね。
つまり、ことわざは場面ごとには役に立つけれど、それだけでは人生全体は支えられない。
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人がほんとうに困ったときに必要なのは、「この場面ではどうするべきか」という助言だけではなくて、「この出来事を自分の人生の中でどう受け止めるのか」という、もっと大きな枠組みのほうです。
自分は何を大事にしてきたのか。何を失い、何を信じて、どこへ向かおうとしているのか。その背後にあるものがないと、目の前の出来事はただのノイズになってしまう。
たぶん、対談の中で語られていた「物語」というのは、そういう意味だったのだと思います。
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もちろん、ここでいう物語は、小説の筋書きみたいな話ではありません。
自分の人生を、どんな話として引き受けるのか。自分に起きたことを、どういう文脈の中に置き直すのか。
まさに昨日のブログに書いたような話にもつながります。
そして、河合隼雄さんがこの対談の中で見ていたのは、たぶんそこからさらに深いところだったんですよね。
単に「人には物語が必要だ」というだけではない。もっと根の深いところで「人間には神話的な物語が必要なのだ」という感覚です。
ここでいう神話は、昔話の知識ではなく、人が、自分ではどうにもならない苦しみや死や偶然を、どんな大きな話の中で受け止めるのか、そのための受け皿の話です。
自然科学は、「なぜそれが起きたのか」を説明することができる。病気の原因も、事故の仕組みも、社会の構造も、かなり精密に説明できる。でも、「それをほかでもないこの私の人生として、どう引き受けるのか」までは教えてくれない。
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たとえば、河合隼雄さんがよく引き合いに出す有名なお話、大切な人を失ったとき、医者からの死因の説明だけでその喪失が引き受けられるわけではないですよね。
自分の限界にぶつかったときも、合理的な説明だけで立ち直れるわけではない。人はどうしても、自分の生を何かもっと大きな文脈の中に置き直そうとする。良くも悪くも、それを必要としてしまう。
だから、神話を学ぶことは大事なのだと思います。
河合隼雄さんは『神話の日本人の心』という別の本の中でも以下のように書かれています。
現代においては、各人は自分にふさわしい個人神話を見出す努力をしなくてはならない。と言っても、「神話」を見出してそれに従って生きる、などというのではなく、生きることそのものが神話の探求であり、神話を見出そうとすることが生きることにつながると言うべきであろう。しかし、その間にあって、かつて人類がもった数々の神話について知ることは、われわれに多くのヒントを与えてくれる。そんな意味でも日本の神話を読むことは、われわれ日本人にとっては必要なことと言うべきだろう。
合理性だけでは生きられず、人間は、意味を必要とする存在であること。そして、その意味への欲求は、消そうとして消えるものではないこと。
しかも、それを知らないままでいると、人がなぜ強い物語に惹かれるのかも理解できなくなってしまう。
神話を学ぶというのは、昔の迷信を知ることではなく、人間がどこで無防備になるのかを知ることでもあるのだと思います。
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ただ、ここで厄介なのは、それが人間にとってなくてはならないものだからこそ、そこを巧みに狙う、危うい物語も現れるということなんです。
河合隼雄さんが対談の中で当時の「オウム真理教」の話に触れていたのも、まさにその文脈だったのだと思います。
危ないのは、神話そのものではない。人が神話的な物語を必要とする、その深い欲求に対して、閉じた絶対的な答えを与えてしまうことのほうなのだと思います。
これは過去の特殊な事件として片づけられる話ではない気がしています。むしろ現代でも、今まさに似たようなことが起きそうなことでもある。
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というのも最近、AIが出てきたことで、世の中では急速に「身体性」の話が盛り上がっています。
それ自体は、よくわかるんです。
AIがどれだけ言葉を扱えても、最後に残るのは身体だ、感覚だ、現場だという話には、確かに納得感がある。
僕自身も、身体を通してしかわからないことは多々あると思っていますし、これからますます重要になる視点だと思う。
でも、だからこそ少し怖いとも感じています。
「身体性」という言葉は、一歩間違えるとそのまま強い神話の入口になってしまうからです。
しかも、豊かな神話というより、「こちら側に来れば本物だ」「ここにだけ真実がある」と言いたくなるタイプの、閉じた偽りの神話の入口になりがち。
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たとえば、「頭でわかっても意味がない」「現場に来た人にしかわからない」「体験した人だけが本物だ」といった言い方は、あるところまでは真実であっても、そこから先は簡単に選民意識や排他性に接続してしまう。
そこに、「だからこちらが本物だ」「ここに目覚めがある」「外の言葉はまだ浅い」という強い物語が入り込んできたとき、人は思っている以上に簡単に惹かれてしまう。
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養老孟司さんもよく語っていますが、オウム真理教の問題も、何か極端に異常な人たちだけの話だったのではなくて、人間が意味を求め、全体性を求め、合理性だけでは生きられないという事実につけ込んだところに、あの危うさがあったのだと思います。
だから僕は、いま身体性が語られること自体はとっても大事だと思いながらも、それをただ素朴に持ち上げることについては、かなり慎重でいたい立場です。
身体もまた、「もの」の一部であると同時に、強い神話に回収されうる入口でもあるから。
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で、この対比は、いまのビジネス書と人文書の違いにも少し似ている気がします。
ビジネス書が局面への知恵を与えるのに対して、人文書は、もっと背後にある問いに触れようとする。
もちろん単純に二つを分けられるわけではありません。良いビジネス書は「こと」の顔をしながら奥に「もの」を含んでいることもあるし、逆に人文書のような顔をしながら、抽象語だけを並べているものもある。
でも、それでもやっぱり、いまの時代は圧倒的に「こと」に強い知恵のほうが流通しやすいのだと思います。それがきっと令和人文主義的な流れなんかにもつながる。
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人間は、「こと」だけでは生きられない。だからこそ、人は自分の物語を自分でつくっていかなければならない。
ただ、その営みは、完全に一人でやるものでもないと思います。
自分の物語は、自分で引き受けるしかない。
でも、自分だけでは見えないことも多い。誰かと対話してはじめて、自分でも気づいていなかった大切なものが、見えてくることがある。
昔の人が神話や、「家の系譜」のような物語を必要としてきたのも、ただ孤独に正解を出すためではなく、自分の生をどこかに位置づけるためだったのだと思います。
逆に言えば、そういう「こと」ばかりが前に出る場所では、その人の中にある「もの」は日陰になってしまい、ますます育ちにくくなる。
それが現代人の苦しみの根本原因でもあるんだと思います。
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そして、世の中には、「こと」を交換するためのコミュニティはたくさんあります。
役に立つ情報をシェアし合う場所。それはそれで、とても大切です。
でも、それぞれの人の中にある、まだ言葉になりきっていない「もの」や、その人を支える物語の芽を、急いで答えに変えずに、大事に扱おうとする場は、案外少ない気がしています。
役立つことは共有しやすいけれど、まだ言葉になりきっていないものを一緒に抱えるには、時間も忍耐もいる。いまはそのための余白が、どんどん失われてしまっている。
だから僕は、Wasei Salonが少しでも、そういう場であってほしいなと思っています。
何か正しい答えをすばやく出すための場所というよりも、それぞれが自分の物語を生きながら、同時に他者の中にある大切な物語も、自己と同じぐらいに尊重できるような場所。
「こと」だけでは支えきれないものを、対話の中で少しずつ育てていけるような場所。
AIがますます「こと」に強くなっていく時代だからこそ、なおさらそう思います。
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役に立つ知恵は、これからもっとAIによって無限に提供されていくはずです。
でも「人がどんな物語の中を生きるのか」までは、代わりに決めてもらえない。それをAIに聞いてみても、わかりやすく梯子を外される。
だからこそ、「もの」と「こと」の両方の視点から世界を見て、自らに物語を紡ぐように問い続けることができること。
そのうえで、単純で強い物語にも回収されないように、互いの物語を尊重しながら、自分の物語を育てていくこと。
『中空構造日本の深層』の中のこの対談を読みながら、そんなことを考えていました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

