最近、けんすうさんの「AI時代には、レビューの星の数はあまり使われなくなっていくのではないか」という投稿を読んで、すごく納得しました。
たしかに、これまでの星評価はあまりにも一方的で短絡的だったような気がします。
人によって基準は全然違うし、熱狂的なファンは高くつけるし、悪意を持った人は下げてつける。便利ではあるけれど、決して信頼性が高いとは言いがたい。
だからこれからは、けんすうさんが書かれていたように、AIがレビュー本文を読み込み、内容を整理し、どこまで信用できるかも見たうえで、「あなたには合いそうです」「これはたぶん刺さらないです」と教えてくれるようになるのだと思う。
その結果、本も映画もマンガも、ハズレを引く確率は今よりずっと下がるはず。
自分の好みに合うもの、自分の今の気分にちょうどいいもの、そういうものが、これまでよりずっと簡単に見つかるようになるはずです。
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でも、そこまで考えてみて、別の問いも同時に浮かんできました。
そうなったときには、そもそも「自分に合うおもしろいものに出会えた」という感覚自体が、だんだん薄れていくのではないか、と。
これまでは、自分に合うものに出会うまでに、多少の遠回りがあったわけです。ハズレを引いたり、最初はピンとこなかったり、誰かに勧められて半信半疑で触れたりする。
その回り道があったからこそ、「これこそ自分に合っていた…!」と思える出会いには感動や希少性があったわけですよね。
でもAIがそこを先回りして、かなり高い精度で「あなたはこれが好きです」と提示してくるようになってくると、その希少性自体が一気に薄れていく。
これは、出会う前から、もう出会ったことにされてしまう感じなんかに近いなと思います。
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SNSもAIも、アルゴリズムは基本的には、僕らを整える方向に働くことは間違いない。
なるべくノイズを減らし、要点をまとめ、自分に合うものだけを差し出してくれる。
それは親切だし便利だし、かなり助かることは必定です。
でも、その親切さの先で、僕らは少しずつ「自分の外から来るもの」に触れにくくなっていくのではないか。
で、ここで思うのは、おもしろさ自体にはきっと二種類あるということなんですよね。
ひとつは、快適にフィットするおもしろさ、です。
好みに合っていて、すぐ楽しめて、失敗が少なくて他者に説明もしやすい。
こちらはAIととても相性がいい。こういうおもしろさは、これから先ますます増えていくのだと思う。
もうひとつは、運命的なズレとしてのおもしろさ、です。
最初はわからないし、今の自分には少し早すぎるとも感じる。あるいは単純に居心地が悪い。でもなぜか引っかかる、忘れられない。
すぐには「好き」と言えないのに、あとからじわじわと効いてきて、自分の輪郭そのものを少し変えてしまう予感があるもの。
本当の意味で、あとあと自分の中に残るもの、自分を支えてくれるものは大抵の場合こちらなのではないかと思うのです。
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過去にも似たような話を何度も書いてきましたが、最初から「これはあなた向けです」と差し出されたものではなく、むしろ自分の想定外のところからやってきて、自分を少し乱してしまうもの。
それが、あとになって自分を支えることがある。
そして、たぶん僕らが無意識に守りたいと感じているもの、本質的に欲しているものはそっち、つまり後者なんですよね。
前者はAIのアシストで、これから無限に増えていく。それは今の僕らからすると喜ばしいと感じるのだけれど、果たしてほんとうにそうなんだっけ…?と。
一方で後者はむしろ相対的にもっと希少で、もっともっと貴重になっていく。
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そう考えていたとき、以前サロン内のタイムラインに書いたことをふと思い出しました。
「今年38歳になる自分が、もし社会人1年目23歳のタイミングから毎月3万円ずつオルカンのインデックス投資をしていたら、いくらになっているのか?」
それをAIに聞いてみて、AIから返ってきた答えは、だいたい1100万円前後という計算でした。元本は540万円。数字としては妥当な数字だと思います。
でも、その答えを見たとき、僕が最初に感じたのは「ああ、たったそれだけなのか」と。
20代から15年分の年間36万円の余暇時間に、1000万円前後という値札が貼られたような気がして、かなりゾッとしたんです。
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もちろん、これはNISAのような仕組みを否定したいという話ではない。
20代からきちんと積み立てて、将来の安心を少しずつ用意していく生き方は、非常に堅実で賢明だと思います。
でも少なくとも、自分の人生に限っていえば、もしあの頃の毎年36万円を将来のために回していたら、自分は何か大事なものを失っていた気がしてしまう。
しかもそれは、よくある意味での「体験」価値ではないんですよね。
旅行とか、留学とか、人脈とかそういう話でもなく、もっともっとしょうもない話です。
たとえば、安い居酒屋で朝まで飲んで、どうしようもないラーメン屋で食べなくてもいいラーメンを食べて、翌日昼頃に目を覚まして、しっかりと後悔してしまう、あの感覚。
いま振り返ってみても、「あれは本当に意味があった」と胸を張って言えるような夜では決してないわけです。
むしろ、何度でもやり直せるなら、もっとマシな夜の過ごし方はいくらでもあったと思う。それぐらいには完全に無価値。
ただ、それでもなお、あの時間を1000万円前後で売り渡したかったかと聞かれると、やっぱり答えはノーなんです。
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ここで言いたいのは、「若いうちは投資なんかせず、体験にお金を使おう」「自己投資をしよう」といった、そんなキレイな話ではない。
そういう言い方は一見もっともらしいのだけれど、そういう言葉にこそ、強い違和感を感じます。
そうやって整理した瞬間に、また全部が「正しいお金の使い方」の話になってしまうから。
そして、それもまた、いまこの瞬間に意味や価値を求めすぎている感じがしてしまう。
若いころの時間は、そんなふうにうまくは生きられない。
当時は意味なんてわからないし、その場では何を得たのかもわからない。むしろ、何も得ていない感じのほうが、圧倒的に強い。
でも、あとから振り返ると、そういう時間の積み重ねこそが、深いところから自分を支えてくれていると気づく。
ここが本当に大事なのだと思います。
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無駄だった時間が、自動的に宝物になるわけでもない。本当にクソみたいなしょうもない記憶だって同じぐらいたくさんあります。
そうではなくて、そういう取り返しのつかない時間を、あとからどう抱え直し、どう自分を支えるものへと変容させていけるのか、そこに差が出るのだと思う。
つまり、回収不能な時間が、そのまま人を支えるのではない。
回収不能な時間を、ただの損失として処理せず、自分を支えるものへと変えていく感受性のほうが、人を支えている。
そして、運命的なズレとしてのおもしろさというのも、たぶんまったくコレと同じなんです。
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本でも、映画でも、音楽でも、人との対話でも、本当に深く残るものは大抵の場合、その場では回収できないもの。
「これはこういう学びになった」とか、「これで人生に役立つものが得られた」とか、そんなふうにはすぐには言えない。
むしろ、その場では少し居心地が悪くてモヤモヤしたり、何を受け取ったのか言葉にできなかったりもする。
でも、そういうもののほうが、あとからじわじわと効いてきて、自分をガラッと変えてしまう。
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で、こういう話をすると、ルサンチマンや負け惜しみの話に聞こえることがあるかと思います。
失ったものを、あとから「いや、あれにも意味があったんだ」と言い換えて、自分を慰めているだけではないか、と。
でも、僕はそんなふうにはまったく思っていなくて。
むしろ逆で、そちらのほうが現実に近い気がしているからこそ、今この文章を書いています。
若さも、人間関係も、自己の身体も、一瞬の安定も、全部そのうち崩れていく。
取り返しがつかないこと、回収不能であることのほうが人生の例外ではなく、それこそが本体なのだと思います。
だから無常観というのは、敗者の慰めでは決してない。
むしろ、人生が最初から回収不能なものでできていることを、なるべく誠実に見ようとしたときに立ち上がってくる切実な感受性なのではないか。
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日本古来の文学、たとえば『方丈記』や『平家物語』も、たぶんそういうことを伝えてきたのだと思います。
そこに書かれているのは、「失ったけれど、まあ意味があったと思おう」という話ではない。
そもそも、この世界は移ろっていく。その移ろいこそが、本来の姿である。
その現実から目を逸らさず、そのうえでなお、そこにただの絶望ではない何かを感じ取ろうとする態度。
その態度そのものが、僕にはとてもリアルに思えるのです。
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以前、松岡正剛が日本の中世の精神を「数寄」が「すさび」になり、やがて「さび」へ向かっていく流れについて語っていました。
https://wasei.salon/timeline?filter=all&selector=messages?filter=all&message_id=11743893
最初は偏愛や意味もわからない一目惚れから始まったものが、やがて無用や余白や衰えや空白の側にまで開かれていく。
そこで「無常」をただ悲しむのではなく、そこに美や深さを見いだす心が育っていった、というお話でした。
そういう時間を、あとからただの失敗として片づけずに、自分を支える素材として抱え直していく。
そこにこそ、もののあはれとか、さびとか、無常とか、そういう言葉で昔の人たちが何とか掴まえようとしてきた感覚の一端が、たしかにあるのではないか。
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取り戻せないからこそ、そこにしかない濃さや美しさがある。
僕はそこに今、かなり強い魅力を感じています。
守りたいのは、回収不能なものを抱え続けられる、その感受性のほう。
そして日本の思想や文学はそのための言葉を、長い時間をかけてその感受性を手渡してきたはず。
もしそうであれば、それを絶やさず、AI時代にあった言葉や感覚に翻訳し直して、次の世代へとバトンとして手渡し、そこに橋をかけていきたいなあと素直に思います。
もちろん、Wasei Salonもそんな感覚こそを深く味わえる場にしていきたい。得られたとき以上に、失われたときにこそ、おめでとう、って言いたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

