先日Wasei Salonの中で開催された読書会のなかで、「とはいえ、それを実行することがむずかしい」という話で盛り上がりました。
これは読書会を開催していると、かなり高い頻度で出会う話でもあります。
著者の主張はよくわかるし、本当に素晴らしい洞察なんだけれども、じゃあ実生活においてそれを自らが実践しようとすると、それはかなりむずかしいことで、判断が迷う場面も多く、その正解がわからずにモヤモヤしてしまう…というような。
これは、良書の読書会であればあるほど、このような迷路に迷い込むことが多い気がしています。
そしてきっと、このブログを読んでくださっている方々も何かしら日常的に抱いたことがある感情かと思います。
もちろん僕も、似たような感情にいつも苦しめられている。
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自分の頭で考えることによる割り切れなさ、気持ち悪さ、そして引き裂かれる感覚。
人々は、それに耐えられずに、いたたまれないから、どちらかに振り切って「割り切る」という挙動に出るんだろうなとも思います。
「複雑なことを複雑なまま、わからないことをわからないまま」にしておくことが大事だとわかっていつつも、自分のバランスや心の置きどころが定まらないから、どちらかに振り切ってしまうんでしょうね。
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でも、このような場面に追い込まれるたびに僕が考えてしまうのは、そもそも論として、どうして僕らは気持ち悪い、むずかしい、モヤモヤすることを過度に拒否するのか、です。
それはきっと、それらの感情をネガティブなものだと思い込んでいるからなんだろうなあと思います。そして、一方でなにかスッキリすることが、ポジティブなことだと思いこんでいる。
でもそれこそが、正解を一方的に与えられてそれに従属する姿勢そのもとも言えるのではないか。
世の中を見渡して、そのようなスッキリした正解を与えてくれるものほど実は怪しい詐欺案件だったり、陰謀論だったりするわけですよね。
だからこそ、そこで踏みとどまる胆力のようなものが求められている。
更に、なぜ今自分は割り切ろうとしてしまっていたのかにハッとし続けることは、本当に大事なことだなあと思わされる。
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でもそこまでわかってもなお、次にぶち当たる壁は「これだけ自らの胆力を発揮したからには、必ず報われて欲しい…!」と心の何処かで、願ってしまいがちなことなんですよね。
「これだけ我慢したんだから、私は報われるべきだ!努力には正当な対価が支払われて当然だ」と無意識に信じ込んでしまう。
でも、もちろん、現実はそうやって胆力を発揮して耐えみたからといって直接的な因果関係によって、何かいいことがあるわけでは決してない。
むしろ割り切ったほうが、コスパもタイパも圧倒的に良い世の中だったりもする。
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これは逆の視点から言えば、コスパやタイパという概念やものさし自体も、人間が割り切るための「合理的な理由」でもあるかと思います。
つまり、ロジックとしては順序が逆で、スッキリとしたいから、コスパやタイパというわかりやすい尺度を持ち出してきて、そこで得られそうなわかりやすい利益に飛びついている節もあるんじゃないかと僕は思う。
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一方で、モヤモヤしている状態をちゃんと我慢しているのに、報酬がないことによって余計に違和感みたいなものも強く感じ取っていくわけです。
そしてふと、世間を見渡してみれば、割り切っているひとほどなんだか「おいしい」思いをしている様子も目に入ってくる。
特にそのように割り切っているひとたちほど、何かを見せびらかそうとしがちですからね。
そうやって、なんだかうまいことやっている人間に対して嫉妬や羨望、つまり「ズルい」みたいな観点も生まれてきてしまうのだと思います。
一番極端な例だと、アメリカのトランプ現象なんて、その最たるところだと思います。
でも彼らのような存在に、何か一貫したロジックがあるかといえば、べつに大した思想性のようなものがそこにあるわけでもない。
あくまで、その場その場で自分に優位なディールをしているに過ぎない。交換を持ちかけることによって、そのタイミングににおける自己利益の追求する姿でしかない場合も多いですよね。
でも、残念ながら、それが羨ましく見えるんですよね。
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だから、ここまでの話をしっかりと理解したうえで、「割り切らない矜持」が今求められているんだろうなあと。
ひとは無意識のうちに、もはや違和感さえも感じなくなるように自らを仕向けるようにできてる。
「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」や「ええじゃないか!」のロジックになっていく。
でも、そうやって振り切らない矜持を持ち合わせておくことが、いま僕らに強く求められていることだと思います。
何か一点におさまろうとするのではなく、複数の視点を同時に行き来することがどれだけ面倒くさくて、コスパやタイパが悪くても大切なんだろうなと感じます。
あまちゃんの言葉を借りると「気持ち悪いぐらいなんだよ、我慢しろよ!」ってことなだろうなあと。そして、それをぐっと踏みとどまらせてくれるのが哲学や思想、文学などの、教養的な部分でもあると思っています。
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とはいえ、このような話というのは、決して他者に強制することができることでもないものであることは間違いない。
あくまで、自らの意思によって、それぞれがそれぞれの判断で行うこと。
また、塞翁が馬のように、割り切ったことが自らの「傷」となって、何周かまわって自己成長にもつながったりもするわけですから。何が正しいスタンスかなんて、本当に未来から現在を振り返らない限り、誰にもわからないわけです。
そして、未来がどこまでも続いていく以上、その答えはたとえ自分が死んだあとであっても、いつまで経っても絶対に定まらない。
それは僕らがいま『オッペンハイマー』のような映画を観て、まるで自分ごとのように深く考えてしまうのと同様です。
未だにアメリカという国のなかでは、あのとき原爆を落とすべきだったのか否か?には正解がないということが、とても良く伝わってくる話です。死者というのはいつだって、そのような問いを僕らに投げかけてくる。
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少し余談ですが、最近、苫野一徳さんがVoicyの中でアーレントの思想の話や、全体主義の話をしてくれていて、そのメカニズムについて、僕らにも非常にわかりやすく伝えてくれています。
僕らのような普通の人間が割り切っちゃいたいと思っているから、それを見透かしたように割り切ることを大声で語る人たちが現れて、そのような政党に支持が集まる構造をアーレントは指摘してくれている。
そして、それが全体主義や独裁政治を生み出すことにつながっていくわけです。
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また、村上春樹さんの短編小説『七番目の男』の中には、以下のようなセリフが出てきて、今日の話にも関連しているなと思うので、少しご紹介しておきたいと思います。
以下は『レキシントンの幽霊』という短編集からの引用となります。
私は考えるのですが、この私たちの人生で真実恐いのは、恐怖そのものではありません」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。……それは様々なかたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には――それは波でした」
この小説における波とは、まさに本物の海の波を指していて、荒波に飲まれそうになった記憶の話なんだけれども、僕らの生活の中にはこんな「波」のようなものがたくさんある。
どれだけコスパやタイパが良かったところで、それを受け渡してしまったときに終わってしまうものがある。
そして僕らは、それが何なのか、案外すでにはっきりと理解していたりもする。
ただ、モヤモヤや気持ち悪さの苦痛から逃れたい一心で、そこから目を逸らしてしうわけですよね。
目をそらすような弱さが人間にあると知っているから、そこに漬け込んで、ディールを持ちかけてくるのがまさに『モモ』に出てくる「灰色の男たち」のような存在。
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今日の話をまとめると、簡単に結論を出さず、難しい問題と向き合い続ける勇気を持ち続けることが、何よりも重要なのだと思います。
社会全体で、そうした「わからなさ」を受け止める寛容さを、小さくとも育んでいきたいものです。
これっていうのは、ひとりで実行をするのは本当にむずかしいことだから。少なくとも、コミュニティにおいて、それぞれがそれぞれの意志によって実行すること。
そして、そのひとりひとりの小さな一歩を、お互いに視界の片隅で捉え合うことによって、結果的に自らの行動も少しずつ変化していき、今日も割り切らずに済んだ、自分の大事なものを明け渡さずに済んだと思えるような毎日を送ること。
わたしたちの「はたらく」を問い続けるとは、そういうことなんだろうなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。