昨夜、Wasei Salonで『ファンタジーに秘められた宗教』の読書会を開催しました。

https://wasei.salon/events/d96198d5c399

『星の王子さま』や『銀河鉄道の夜』、『火の鳥』など、よく知られた物語にどんな宗教性があるのかを考える一冊です。

これまでサロンの読書会で扱ってきた作品も多く、きっといろんな話がつながるだろうなと思っていたのですが、実際に話してみると、まあ、うまく言葉にならず、参加者全員でもがき苦しみました。

みんなもわからない、わからないと言っているし、僕もわからない。知っている言葉のはずなのに、自分の実感として語ろうとすると、途端にむずかしくなるんですよね。

でも、その時間の最後に、自分の中で、ひとつ大きく腑に落ちたことがありました。

そうか、罪であり、苦しみなんだ、と。人間の根源にあるのは、こちら側なのか!と。

今日は、そのとき何が少しわかった気がしたのかを、できる限り丁寧に言葉にしてみたいと思います。

ーーー

まず、宗教や文学に触れていると、罪や苦しみの話が、本当によく出てきます。

キリスト教には原罪という考え方があるし、仏教では苦について語られる。ドストエフスキーの小説なんかにも、人間の罪や葛藤が、繰り返し、繰り返し、これでもか、というほど描かれている。

それぞれ同じことを語っているわけではないのでしょうけれど、僕は、どうしてこんなにも、人間ができれば避けたいものに意図的に目を向けるのだろうと、ずっと不思議だったんですよね。

宗教性を通じて、人間が生きることについて考えるなら、もっと幸福や喜び、何かを成し遂げたときの充実感を、中心に置いてもよさそうなのに、と。

でも昨日、皆さんと話していて、その避けたいものの中にこそ、実は、自分自身を根本から変えてしまう力があるのかもしれないなと思いました。

罪や後悔を抱えて生きているうちに、それまでの自分では、受け取れなかったものを受け取るようになる。

そこにこそ、生身の人間だけが担える重みがあるのかもしれない。

ーーー

この点、罪と言うと、何か大きな犯罪を犯したひとの話に聞こえるかもしれません。

でも、あのとき、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。助けを求めていたのに、どうして気づけなかったんだろう。そういう思いが、ずっと自分の中に残っていることは、誰にでもあると思うんです。

たとえば、相手のためを思って伝えたつもりの言葉が、そのひとを深く傷つけてしまった。その事実が、自分の中に、罪の意識として残り続ける。ときには「罪悪感」として。

あとから事情を知って、自分がどれだけ何もわかっていなかったのかに気づく。あのときは、あれほど自分が正しいと思っていたのに、と。

こういう後悔って、正解を知ったからといって、終わらないんですよね。むしろ、何が正しかったのかがわかったからこそ、いっそう苦しくなってしまう。

もちろん、謝ることはできるかもしれません。

でも、その言葉を言ってしまう前には戻れない。その言葉を相手に言ってしまった自分として、その後も生きていかなければいけない。

相手はもう忘れているかもしれないのに、自分だけは覚えている一言だって、あると思います。

誰かに与えた被害や、引き受けるべき責任には、当然、違いがある。ただ、自分の人生を変えてしまうほどの悔いは、外から測れる出来事の大きさに比例するわけではない。

ほかのひとからすれば些細なことであっても、自分にとっては、何度も立ち返ってしまう場所になる。

そういう意味で、この話は、きっと僕ら人間であれば誰にとっても無関係ではないのだと思います。

ーーー

そんなことを考えると、ドストエフスキーが描いた人物たちのことも、少し違って見えてきます。

たとえば、『罪と罰』に登場するソーニャは、家族の困窮の中で、売春をせざるをえなくなった女性です。その彼女が、人を殺したラスコーリニコフに、献身的に寄り添う。

社会的には蔑まれる立場にいるひとが、別のひとの再生に関わるところに立っているわけですよね。

家族を見捨てられない。その一方で、社会の中では、清く正しく生きていないとみなされる。

そういう場所に置かれたひとを、そのひとが何を背負っているのかも知らないまま、簡単に裁けるのだろうかと、いつも思います。

そして、そんな彼女が、別のひとの苦しみに手を伸ばす。その描き方に、僕は、ドストエフスキーが人間を見る目を感じるのです。

人間は、自分だけが清廉であろうとすれば、それで済む関係ばかりを生きているわけではない。誰かを大事にしたくて選んだことが、別の何かを傷つけてしまうことだってあるわけですから。

宗教や文学が、そういう矛盾の中を生きるひとたちを描き続けてきたことの意味を、今はもう少し深く、丁寧に考えてみたくなってしまいます。

ーーー

で、昨日の読書会では、物語をこれだけ読んでいるのに、どうして人間は同じ過ちを繰り返すのだろう、という問いなんかも出てきました。

これはほんとうに、そうなんですよね。

「人を傷つけてはいけない。相手には相手の事情がある。」そんなこと、僕らはずっと前から知っている。

でも、知っていても、同じことをしてしまう。しかも何度も何度も繰り返して、そのたびに後悔して、また考える。

そうやって生きているうちに、あるとき、以前なら責めていたひとを、責めきれなくなることがあると思うんです。

「どうしてそんなことをしたんだろう」と思っていたのに、自分だって、似たようなことをしていたかもしれないと気づく。すぐに何かを言う前に、もう少し話を聴いてみたくなったりもしますよね。

そして、あのとき自分の話を黙って聴いてくれたひとも、もしかしたら、こういう気持ちだったのかもしれないと思い至るわけです。

ーーー

当時は、ただ話を聴いてもらっただけだと思っていた。でも、自分が同じような場面に立ってみて、すぐに裁かずにいてくれたことが、どれだけありがたかったのかが、あとから、時間を遡るようにわかる瞬間がやってくる。

その瞬間にハッとするわけですよね。自分は、もうすでに受け取って(しまって)いたんだな、と。

昨日、皆さんの話を聞きながら、この感覚がすごく大事なのだと思いました。

受け取った瞬間には、その意味がわからないこともある。その後にいろんな失敗をして、後悔して、誰かと関わってきたからこそ、ようやく受け取れるものがある。

言葉自体は、昔から知っていたけれど、その言葉を受け取る自分のほうが、ガラッと変わってしまっている。

僕がここで「回心」と呼びたくなるのは、まさにこういう変化です。

自分は正しい側に立っていると思っていた。誰かに教えることができるし、何かを与えられると思っていた。でも、すでに自分のほうが、誰かに受け止められ、許されていたことに気づいてしまう。

そうなったら、以前とまったく同じようには、他人のことを見られなくなるはずなんですよね。他人に限らず、世間や世界全体に対しても、そう。

もちろん、苦しんでいれば、自然とそうなれるという話でもない。苦しさの中で、誰の言葉も聞きたくなくなることだってある。

でも、そんなときにも、誰かがいてくれた。その場では意味もわからず受け取っていた言葉が、実は自分を支えてくれていた。

あとになって、そのことに気づいてしまう。そうしたら、もう、それに気づく前と同じようには生きられなくなるのだと思います。

ーーー

そして、僕は最近、AIが人間のように言葉を返してくれるようになったことで、かえって、この違いが明確になるような気がしています。

僕らが何かに悩んでいるとき、AIは、驚くほど丁寧に話を整理してくれます。自分では気づけなかった見方を、すぐに教えてくれる。

その便利さは、僕自身も毎日のように感じています。

ただ、間違いを指摘されて答えを修正することと、その間違いを「犯した自分」として、明日も誰かと顔を合わせて生きていくことのあいだには、やっぱり大きな隔たりがある気がするんですよね。

先日、「葛藤するから、僕らはつながれる。」ということを書きました。その中で、葛藤を経た言葉には、自分の行動を拘束する力があるのではないかと考えました。

昨日の読書会は、その重みが一体どこから来るのかを、もう一度考える時間にもなりました。

同じような言葉を言いそうになったときに、過去の後悔が自分を止める。相手の沈黙を待てずにいた自分が、今度は少しだけ待とうとする。

僕が感じている人間の重みって、たぶんそういうことなのだと思います。

その言葉を語っているひと自身が、その言葉によって変えられてしまっているからこそ、自分の人生の中で、その言葉から逃れられなくなっている。

そういうところに、僕らは魂のようなものを感じ取るのかもしれないなあと。

ーーー

だからといって、あのとき誰かを傷つけてよかった、とは、やっぱり言えません。

そこから何かを学んだのだとしても、傷つけた相手が、自分の成長のために存在したわけでは決してないのだから。

できれば、あんなことはしなければよかった。その気持ちが、消えないこともあると思います。

というか、僕の中では、消えてくれないほうがいいと思う後悔もあります。「いい経験になった」と片づけて、忘れてしまいたくはない。

その消えない思いを抱えたまま、つまり、罪の意識を抱えたまま、別の誰かの話を聴くことはできる。以前の自分なら、通り過ぎてしまったかもしれないひとの前で、立ち止まることもできるわけです。

消してしまいたいと思っていた過去が、誰かの苦しみを受け取れる場所になることがあるということなんですよね。

ーーー

罪や苦しみを抱えた、その先でも、人は誰かと関わり直せるし、そのときにこそ、人間の人間らしさが生まれてくる。

そのとき、他者との関わり方も、世界の見え方も、それまでとはガラッと変わってしまうことがある。

自分が何を受け取ってきたのかに気づき、生き方そのものが変わってしまう瞬間。

宗教や文学は、その可能性を、ずっと語り続けてきたのかもしれないなあと。そしてこれはAI時代こそ、大事な観点だと思います。

昨日、皆さんと話していて、そこが、まごうことなく自分事として腑に落ちた気がしました。

これから同じ物語を読んだとき、以前とは違う言葉の前で、足が止まりそうな気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。