「泊まれるモンスターボール」という企画が、9月15日に詳しく発表されました。


『Pokémon Sleep』とNOT A HOTELのコラボで、北海道・苫小牧の湖畔に、実際に泊まれるモンスターボール型のホテルをつくったそうです。

抽選で10組20人に宿泊体験をプレゼントし、応募した人全員にはゲーム内アイテムも配られるとのこと。

モンスターボールの中で眠れるなんて、普通に楽しそうですよね。

ただ、9月のはじめにこのコラボを知ってから、なんだかずっと引っかかっているものもあります。

普通に楽しそうな企画だと思うし、喜ぶ人がいるのもよくわかる。それなのに、この組み合わせを眺めていると、これからの社会について妙に考え込んでしまいます。

今日はそんな違和感について、このブログの中で丁寧に書いてみたいと思います。

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NOT A HOTELは、建築やテクノロジーにこだわった高額な別荘を販売している会社です。

購入するのは、単なる宿泊券ではなく不動産の所有権。売却や相続もできると説明されています。

そういう会社と、庶民にとってずっと身近だったポケモンというIPが今回、突如つながった。

この組み合わせで面白いのは、別荘を買うこととは縁のなかった僕らにも、「こういうことをやってくれる会社なんだ!」と、親しみを感じる理由が生まれることです。

自分がその豊かさを所有できるかどうかは変わらなくても、その豊かさを提供している会社を、好きになることはできてしまう。

しかも、その好きになる理由が、本当に純粋に素敵なものだったりするわけですよね、今回のモンスターボールのように。

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で、この感じに覚えがあるなと思って、思い出したのが、以前このブログにも書いた、福岡の再開発エリアの話でした。

久しぶりに天神や大名を歩いてみたら、街がすっかり変わっていて、外資系の高級ホテルが上層階に入る建物があって、その足元には芝生が広がり、そこでは市民たちがくつろいでいる。

とても、きれいな景色だとは思います。街なかにお金を使わずに過ごせる場所があるのは、純粋にありがたいことだとも思う。

でも、あの景色や大阪のグラングリーンの景色なんかを見ていると、上のほうには高級ホテルが用意されて、地上の僕らには芝生がある、という街のつくられ方を、こんなに素直に喜んでいていいんだっけ、と思ってしまうのです。

芝生に座る人とホテルに泊まる人が、きれいに別の階層に分かれているわけではありません。僕ら自身、便利できれいになった街の恩恵も十分に受けています。

それでも、街が豊かになったときに、自分たちがそこにどう関われるのか。その選択肢の違いが、あの風景には、ずいぶんはっきりと表れている気がしたんですよね。

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そして、もうひとつ引っかかるのが、そこで自然と出てくる「ありがとう」という言葉です。

「こんな一等地に、誰でも使える芝生をつくってくれてありがとう」と。

大名ガーデンシティは、もともと小学校だった場所を活用した施設でもあります。施設の紹介にも、その来歴が書かれてあります。

地域の人たちの暮らしと、ずっと関わりがあった土地のはずなんですよね。もともとは、こちら側にあった場所です。

そんな街の変化を前にして、いつの間にか自分たちが大手デベロッパーから「居場所を用意してもらう側」としてだけ、その場所を眺めるようになっているとしたら。

そして、この街をこれからどうしていきたいのか、という話よりも、用意された場所をどれだけ楽しめるか、という話ばかりになっていく。

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そのうえ、居心地がよければよいほど、何か違和感が引っかかったとしても、「でも、こんなに素敵な場所をつくってくれたんだから」と、自分でその気持ちを引っ込めてしまいやすい。

誰かに「黙れ」と言われたわけでもないのに、です。

ここが、僕はなんだかすごく怖い。

芝生があることへの感謝で、街全体のつくられ方にまで納得したことになってしまうのだとしたら、その間に、ずいぶん大きな話がすっぽり抜け落ちてはいないか、と。

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で、今回のポケモンの企画を見ていて、僕はこの感覚を思い出したのだと思います。

自分とは住む世界が違うと感じていた豊かさとのあいだに、気持ちのよい接点が用意される。その接点を通じて、相手の見え方までが変わっていく。

そして、その接点がポケモンであることは、かなり大きい気がするんです。

その会社についてはよく知らなくても、ポケモンのことなら、ずっと前から知っているわけですから。

ゲームで遊んだ時間があったり、好きだったキャラクターがそれぞれにいたりするわけですよね。

企業がイチから「私たちは素晴らしい会社です」と説明するよりも、以前から自分が大切にしてきたものと一緒に現れてくれたほうが、話はずっと早い。

「ああ、そっちの世界にも、ポケモンがいるんだ」と思えるわけですから。

あれがもし、モンスターボールの形をしていない、同じサイズのただのロッジだったら、どうだったか。

たぶん、ふざけんな、と思っていたはずです。

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では、なぜ、愛されているIPには、そんなことができるのか。

それは、IPの物語が、この資本主義の世界のなかで、ものさしを曖昧にしてくれる数少ないものだからだと思います。

年収や、住んでいる場所、泊まれるホテルのランクなど、普段の僕らは、そういうものさしで、自分と相手との距離を嫌でも測らされています。

でも、子どものころにポケモンが好きだった気持ちには、そういう序列がありません。

その記憶の前では、みんなが横並びになれる。だから、ポケモンと一緒に現れた相手のことは、いつものものさしで測るより先に、好きになってしまう。

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ここまで考えてみたときに、浮かんできたのが、今日のタイトルです。

長年親しまれてきたIPは、格差社会のデオドラントになる。

現実の格差をそのままにしておいても、そこから感じていた鼻につく匂いを、薄くすることはできてしまう。

しかも、豊かさの違い、格差そのものを、もう隠す必要すらないんですよね。

高級な別荘も、高層階のホテルも、むしろ堂々と見えている。そのうえで、こちらにも楽しめるものがあり、相手を好きになる理由がちゃんと同時に用意される。

格差を知っていることと、その格差のある風景を心地よく感じることが、両立してしまう。

誰かが悪巧みをしていると考えなくても、この話は成り立つ気がしています。

むしろ、つくった人たち、その現場レベルで活動していた人たちも、本気でいいものをつくり、受け取った人たちも、そのものづくりのレベルの高さに本気で喜んでいる。

そうやって、現場のつくり手と受け手の間に、お互いに嘘がないからこそ、余計に何が引っかかっているのか、説明しづらくなっていくはずです。

「みんな喜んでいるのに、何がいけないの?」と言われると、たしかにそうなんだよなあと、これを書いている自分でも思ってしまいますからね。

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で、こういうことを考えていると、やっぱり「ちいかわ」のことを思い出してしまいます。

優しい誰かが、いいものを用意してくれて、僕らはそこで喜んでいる。自分も含めて、みんなちいかわみたいだなあ、と。

あの世界には労働があり、資格試験があり、危険な討伐なんかもある。暮らしている場所も、それぞれに違います。

そんな世界のなかで、現場レベルを担当する鎧さんたちがちいかわたちに優しくしてくれる。困っているときには助けてくれるし、嬉しいことがあれば、一緒に喜んでくれる。

ちいかわたちが、そこで嬉しそうにしていると、あの物語を読んだり観たりしている、こちら側も嬉しくなるんですよね。純粋に「鎧さん、ありがとう」と思う。

ただ、その優しさに触れたからといって、明日からあの世界が安全になるわけでもない。暮らしの不安が、全部なくなるわけでもない。

それでも、今日、誰かが優しくしてくれたことは素直に嬉しいことです。

あんなに怖い思いをしたのに、友だちと一緒に美味しいものを食べれば、またそれを忘れて、今この瞬間に共に笑うことができてしまう。

あの感じっていうのは、現代の僕らの生活そのものだなと思います。

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ここで、その嬉しさまでを偽物だと言って、「厳しい世界に適応させられているだけだ」と言ってしまうのは、あまりにも短絡的すぎし、雑すぎるなと思っています。

また、世界の問題が解決するまで、今日もらった優しさを喜ぶな、なんて言えるわけがないです。

そもそも僕自身も、そういう小さなやり取りにどれだけ助けられてきたかわからないし、すぐに相手の問題を解決できなくても、共にいられることの価値を、このブログでもずっと書いてきました。

だから、ちいかわという作品が描く優しさが偽物だとは、まったく思いません。

むしろ、圧倒的に本物だからこそ、リアルだからこそ、現代の人々はあの物語にこんなにも惹かれるのだと思います。

でも、その本物の優しさが、この世界でもなんとか生きていけると思わせてくれるとき、この世界をできる限り平等に変えたいという気持ちは、一体どこへ行ってしまうのだろうか、と。

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きっと、これから日本の有名なIPをつかって、似たような出来事が各所で起きるはずです。

経済的には遠く離れた人たちにも、同じ世界を好きでいてもらえるように、そのあいだを、子どものころから知っているキャラクターたちが見事につないでくれる。

格差が見えすぎて、反感を買いやすい企業ほど、IPの優しい物語に助けを求めることになる。誰かがそう仕組まなくても、結果としてそうなっていく。

そして、そのIPが好きな人たちが、「こんなに素敵な企画をありがとう!」と、自分たちの言葉で広めてくれる。

富裕層向けのビジネスにとって、これほど心強いデオドラントはないはずです。

だから、これからIPの価値を考えるときに、コンテンツが面白いとか、グッズが売れるとか、それだけでは捉えきれないものがあるような気がしています。

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これがいい喩えかどうかはわからないですが、夏休みの飛行機のなかで、子どもたちにおもちゃが無料で配られることがあるかと思います。

あのとき、配る側の客室乗務員さんさんに悪意なんてないし、子どもは純粋に喜ぶし、親御さんも本当に助かっている。そしてもちろん、それで子どもが騒がず、機内が静かになれば、航空会社も、ほかの乗客たちも助かる。

無料の優しさには、ちゃんとそれが成り立つ理由がある。

僕が考え込んでしまうのは、その先です。

自分たちにできることが、用意された楽しさをただ受け取って、感謝することばかりになっていくのだとしたら。

格差があることに腹を立てるよりも、格差があるなかでも、こんなにも優しく楽しくしてくれてありがとう、好きなIPたちと過ごせる空間を提供してくれてありがとう、と思うほうが自然で当たり前になっていくのだとしたら。

それは、本当に「めでたい」ことなんだろうか、と。

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「ありがとう」と言わせる格差社会、という言葉が、どうしても頭に浮かんでしまう。

しかも、誰かに言わされているという自覚もなく、本心からそう思っている。

その本心まで疑わなければいけないのだとしたら、それはそれでずいぶん苦しい世界線だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。