先日、AI時代における「夢」について書かれた、とある投稿が話題になっていました。
それが、pajiさんの投稿で、AI時代に起きる最大の悲劇は、仕事を奪われること以上に「20年間追いかけてきた夢が、たった20分で叶ってしまうこと」なのではないか、というお話です。
https://x.com/paji_a/status/2108759364744134880?s=20
いつか自分のゲームを作りたいとか、小説を書きたいとか、音楽や映画を作ってみたいという幼いころから抱いていたような願望。
そんなふうに長年思い描いていたものが、AIとやり取りする中で、あっという間に形になってしまうのがまさに今、です。
もちろん、プロの品質や商業的な成功とは別の話だと断ったうえで、そこで「夢を叶えたのに、別に楽しくない」というひとが現れるかもしれない、と。
このことを「夢の即死問題」と呼んでいて、とても興味深く読みました。
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投稿の中では、人間が欲しかったのは作品そのものなのか、作る行為なのか、それとも「いつかすごい自分になれる」という未来の自分への期待だったのか、という問いも立てられていました。
この問いは、いま本当に大事な観点だと僕も思います。
そして、僕もこの投稿を引用しながら、こんなことをXに書きました。
つまり、AIだけで夢は叶わないし、夢だと思っていたもののそのほとんどは、ほんとうは「夢じゃなかった」と暴露されたということなんだろうな。
じゃあ、人間が「夢」というものにほんとうに求めていたことは一体何かといえば、きっと「いま生きているという経験」。
夢がちゃんと叶ったはずなのに、一向に満たされないのだとすると、そこで叶ったものは一体何だったのだろうか、と。
僕は今回の話を読みながら、以前から大切にしてきた言葉や、過去のブログに書いてきたことが、ひとつにつながっていくように感じたのです。
今日はそのことについて、このブログの中で少し丁寧に考えてみたいと思います。
きっと今のようなAIの爆速進化の状況であれば、以前よりもより多くのひとに理解してもらえると感じるから、です。
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この点、神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、『神話の力』の中で、こんなことを語っています。
人間がほんとうに求めているのは〈いま生きているという経験〉だと私は思います。
僕は2022年前後にも、この言葉をXやブログで繰り返し紹介していました。
そして、この言葉には続きがあります。
純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
この「共鳴」という感覚が、とっても大事なのだろうなと思います。
現実に自分が経験していることが、自分の奥にある何かと響き合うこと。
うまく説明はできないけれど、いま、自分は生きている、自分の人生を生きている。そんなふうに感じられる瞬間が誰にでもあるはずで。
僕らは、夢を叶えた先に、そのような経験が待っていると思っていたのではないでしょうか。
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そして、そんなことを考えると、いま映画『オデュッセイア』が世界的に大きな反響を呼んでいることも、なんだかとても示唆深いなと感じます。
AIによって、思い描いていたものが次々と形になる時代に、一方で、はるか昔から語り継がれてきた神話に、多くのひとが心を動かされている。
その理由のひとつも、きっとこのあたりにあるのではないでしょうか。
僕らが夢に求めていた「いま生きているという経験」に触れる手がかりを、神話はずっと持ち続けてきたのかもしれない。無意識にそう感じ取っているように思います。
だからこそ、世界的なムーブメントにもなっている。
(ちなみに、この話は、次回の後編の記事で「善き物語」について考えるときに、もう一度戻ってきたいと思ってます)
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たとえば、小説を書きたいという夢があるとします。
もちろん、一冊の小説が完成し、紙の本になることは、その夢の大事な一部分なんです。
でも、それを書いているうちに、自分でも気づかなかった感情に出会うことがある。どうしても言葉にならないものを抱えながら、何度も書き直すこともあるわけですよね。
また、誰かに読んでもらったら、まったく予想もしていなかった感想なんかが返ってきて、自分が書いたものの意味を、そこで初めて知ることだってあるはずです。
そんな経験をすべて含めて、僕らは「小説を書きたい」という「結果的な行為」において語っていたのかもしれない。
ところが、完成した小説だけが先に目の前に現れると、自分が求めていたものとのズレが見えてくる。
あれ、自分が欲しかったのは、果たして本当にこれだったんだろうか、と。
「夢じゃなかった」というのは、その夢を抱いてきた時間まで無意味だったということではなく、自分がその夢に託していた願いを、自分でも十分にわかっていなかった、その証しだと思うのです。
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ただ、ここで短絡的に「時間をかけたり、苦労したりすることに価値がある」とだけ考えてしまうと、大事なことを見落としてしまう。
20分の創作で、自分の奥にあるものと深くつながることだってあるでしょう。逆に、20年間必死に取り組んできても、そのような経験を得られないことだってある。
ただ時間が長ければいいわけでもないし、苦労が多ければいいわけでもない。
AIによって形にすることが容易になったからこそ、僕らは、その形の奥に何を求めていたのかを、改めていま問われているのだと思います。
そして、この話を考えていると、もうひとつ、どうしても思い出す話があります。
それが、このブログではもうお馴染みの社会学者・大澤真幸さんの「目的性」と「真の共同性」の関係です。
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以前、「良い人間関係や『共同性』が幸福の本質だが、それだけを目指してはいけない理由とは?」というブログを書きました。
参照:良い人間関係や「共同性」が幸福の本質だが、それだけを目指し...
2024年8月の記事で、社会学者の大澤真幸さんの『<問い>の読書術』を紹介したものです。
たとえば、若いころに抱いていた夢や野望が、結局、叶わなかったとする。
でも、その夢に向かうなかで出会ったひとたちとの関係が残り、自分の居場所だと思える共同体があれば、ひとは幸福に生きられる。
反対に、大きな成功を手に入れたとしても、周囲の人間を誰ひとり信用できなくなり、孤立してしまったら、幸福とは言いがたい状態ですよね。
つまり、夢や目標を達成することを「目的性」、友情や愛情、連帯などを「共同性」と呼ぶとすれば、僕らがほんとうに求めていたものは、共同性のほうだったのではないか。
何度も繰り返しこのブログに書いてきた話は、今回の「AIで夢が叶ったのに、満たされない」という話とも、深くつながっているように思います。
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ただし、ここからが厄介なんですよね。
それなら、最初から共同性だけを求めればいい。夢や目標の達成に執着せず、みんなで仲良く過ごせばいい。そう考えたくなるし、だからこそ、コロナ禍ぐらいからコミュニティブームもやってきたわけなのだけれども、そうは問屋が卸さない。
大澤さんは、こんなふうに語っています。
共同性を深めるためには、「共同性」を直接に目指してはならない。
そして、続けてこう説明されています。
共同性は、目的性を媒介にしたときにのみ、ほんとうに深められるのである。
そして、それをただの「共同性」と切り離して「真の共同性」という言葉で言い表していたわけです。
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本書では『キャプテン翼』を例に、翼と若林くんが「ワールドカップ優勝」という目的を共有することと、二人の深い友情との関係が語られています。
たまに会って、お茶を飲みながら楽しくおしゃべりをする。それでも仲良くはなれるでしょう。
でも、本気で同じ目標を目指すなかで生まれる関係には、それとはまったく違うものがある。
これは、このように言語化してもらうことで、誰でも非常によくわかる話だと思います。
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本気でよいものを作ろうと思っているからこそ、相手の意見を安易には受け入れられないことがある。
自分が大切にしていた案を否定されて、真剣に腹が立つこともあるはずです。
それでも、一緒に取り組んでいると、相手の考えのほうが正しかったと気づいたり、思いがけないところで、ふと助けられたりする場面なんかもやってくる。
そうやって、自分の思いどおりにはならない他者と、ひとつの目的に向かっていく、そこでこそ初めて生まれる信頼や関係があるのでしょうね。
これは、お互いにつくりたい「家族像」が明確にある夫婦なんかでもまったく一緒。
ところが「仲良くなるために、何かを一緒にやりましょう」となると、関係を悪くしそうな意見は控えたほうがいい。目的の達成よりも、その場の雰囲気を守るほうが優先されてしまう。
それもひとつの関わり方ではあるけれど、本気の目的を追うなかで生まれる共同性とは、やはり何かが圧倒的に違うわけです。
欲しいのは共同性なのに、その共同性のために目的を用意すると、途端に、どこか擬似的なものになってしまう。
コミュニティを運営していて、僕が以前から悩まされてきたのも、まさにこの矛盾でした。
限りなく近くまで歩み寄ることができるのに、本当に僕たちが到達したかった「真の共同性」には一生たどり着くことができず、常に壁一枚に阻まれるというジレンマ。
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で、ここにAIが登場するわけです。
もし、みんなで何年もかけて実現しようと思っていた目的が、AIを使えば短時間で達成できるとしたら?
それは、「目的」だけを見れば、とてもありがたいことです。
でも、その目的を一緒に追うことで生まれていたはずのものは、どこへ行くのだろうかと。
「じゃあ、共同性のために、あえてAIを使わずにやってみよう」と決めることはできます。
ただ、そのときにはもう、自分たちで用意した「遠回り」だと知っている。
仲良くなるために、わざと手間を残している。そのことを、自分たち自身が見抜いてしまうわけです。
この擬似性をどう乗り越えるのか。
以前のブログに書いた問いが、AIの進化によって、いよいよ身近な問題として立ち上がってきたように感じています。
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だから僕は、今回の話を「夢が簡単に叶うようになって、人生がつまらなくなった」というところだけでは受け止められないと思うのです。
夢として掲げていた目的のなかに、自分でも気づいていなかった願いがあったということ。
自分の奥にあるものと現実が共鳴する経験、誰かと本気で関わり、そのひとと一緒に生きていると感じられる経験、その「物語」のほうにこそ価値があった。
僕らは、それらをまとめて「夢」と呼んでいたのかもしれないし、「真の共同性」の正体そのものでもあるかと思います。
キャンベルの「いま生きているという経験」という言葉が、いま、多くのひとにとって、ちゃんと実感を伴う言葉になり始めているのではないかと思います。
「怪我の功名」とは、まさにこのことです。
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では、本気になれるほど好きなことを見つけて、それを一緒に追いかける仲間がいれば、それだけでいいのか。
元の投稿も、AIによって能力の差が縮まった先には、誰に頼まれなくても作り続けてしまうような情熱や執着が大事になる、という方向に話を進めていました。
その論理展開も、とてもよくわかります。
ただ、今はもう「好きなことに夢中になれている」「同じ目標を持った仲間がいる」ということだけでは、安心できないなとも思っています。
なぜなら、その「好き」や共同性そのものが「誰かにとって都合のよい物語」のなかで育てられている可能性があるからです。
つまり、それは足元を見られた推し活やドパガキ現象など「悪しき物語」に回収されてしまう可能性を秘めている。
でも本当に大事なことは、「善き物語」。だからこその神話なんだ、と。
ここから先は、もう少し話が長くなるので、明日の後編で考えてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
