ひとが求めているのは、良好な人間関係です。
つまり、それは自らが所属するコミュニティや共同体の安寧。そこにこそ、人間の幸福の原型であるはずです。
これは、みんな大好きハーバード大学の80年以上続く研究の話なんかを、いちいち持ち出さなくても、ある程度まともな大人であれば、30年も生きてくれば、そんなことは誰もが当たり前のようにたどり着く結論だと思います。
たとえば、若い頃に抱いていた夢や野望、仕事や勝負事の側面において果敢に挑戦をし、それが叶うことなく、夢破れてしまったとする。
でも、それでも良き人間関係を構築し、自らの居場所だと思える共同体がちゃんと存在していれば人は間違いなく幸福に生きられる。
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しかし、その逆に、血が滲むような努力を繰り返し、夢や野望がなんとか実現することができたとしても、良好な人間関係の方を失ってしまえば、人は不幸になってしまうわけですよね。
たとえどれだけ出世して、お金も有り余るほど手に入れても、周囲の人間を誰一人として信用できない状態や、孤立してしまっている場合においては、まったくもって幸福な状態とは言い難い。
つまり、明らかに良好な人間関係としての「共同性」のほうが、夢や野望が実現するという「目的性」に勝るわけです。
「じゃあ、コミュニティを耕せばいいよね、それでもう幸福に至るための結論は出ているよね」という話になれば、人生というものはものすごくカンタンで、実際にソレだけであれば誰も悩まないのだけれども、そうは問屋が卸さないのが実情です。
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じゃあ、それは一体どういうことなのか?
この点について、社会学者の大澤真幸さんが『<問い>の読書術』という本の中で、とても示唆に富む話を展開されていました。
今日、ここまで語ってきた「共同性(コミュニティ)」と「目的性(仕事や野望)」の対比についても大澤さんの例から多くを借りています。
大澤さんは、この共同性(C)と目的性(P)を二軸であらわして、非常にわかりやすい説明をしてくれています。
以下、早速本書から少し引用してみたいと思います。
最初から、共同性の方だけを追求すればよいのではないか。ところが、そうはいかないのだ。そこがふしぎなところである。共同性(Cと表記しよう)Cを直接目指すと、それは得られないのだ。あるいは直接に目指されたとき、Cは薄っぺらいものになってしまうのだ。Cを深めるためには、Cを直接に目指してはならない。
どうすればよいのか。Cは、目的性(Pと表記しよう)を媒介にしたときにのみ、ほんとうに深められるのである。つまり、P(集合的目的とか大義)を目指すとき、その結果としてC(友情・愛情・連帯など)が濃密なものになるのだ。Cは、直接に目指したときには逸してしまうか、仮に得られても底の浅いものになる。Cは、Pを追求したことの副産物として得られたときに限って非常に深いものになる。
これは言語化してもらうと、本当にそのとおりだなと思う内容ですよね。
さらにこのときの、具体例も非常にわかりやすいのです。
以下は、キャプテン翼を例にして、語られている部分からの引用です。
たとえば、サッカーコミック『キャプテン翼』の翼と若林くんが、「ワールドカップ優勝」という目的なしでも深い友情を築けたかを考えてみればよい。二人がときどき会っておしゃべりしたり、お茶を飲んだりしても仲良しになったかもしれないが、その関係は一定以上には深まるまい。彼らが親友になるためには、「ワールドカップ優勝」というPが不可分だ。
最近までパリオリンピックが開催されていたので、これはとても想像しやすい話だと思います。
多くのアスリートたちがチームを組んで、共通の目標に向かって切磋琢磨する中で、深い絆を形成していく、そんな様子を多くのひとが画面越しで目撃したかと思います。
彼らの共同性(チームワークや仲間意識)が真の意味で高まっていくのは、金メダルを獲得したいという圧倒的な「目的性」があったからですよね。
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で、大澤真幸さんの結論としては、「人がほんとうに求めているものは、実は共同性のCの方である」と語りつつ、
でも、さらに重要なことは「たとえ、その目的性であるPがただのネタだとしても、そんなネタとしてのPを経由しなくては、ほんもののCに到達できない。」ということ。
「逆に言えば、真の欲望の対象はCだが、それはネタであるPの副産物なのだ」と語るんですよね。
これは、本当にとても納得感のある話だと思います。
それゆえに、ものすごく絶望的な気分にも陥ってしまう。
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ここでもし、多少の思考実験が許されるのならば、極端な話、たとえば「戦争」なんてものは、きっとその最たるP(目的性)だったはずなのです。(今は8月で戦争関連の本ばかり読んでいるので、すぐにそれらと結びつけてしまいがちで、ごめんなさい)
実際、戦後すでに80年ほど経過していても、未だに、そのときに一緒に戦った仲間たちとの「共同性」を忘れられずに集い、弔う理由にもなるわけだから。
でも、その目的性というものは、本来は自分たちの「共同性」を守るためにこそ戦ったわけですよね。
つまり戦争としての他国侵略という最大の目的性は、「他者の共同性」を侵略するという目的性の中にこそ存在しているわけです。
他人の共同性を奪うこと、そうやって仲間と共に戦ったときにこそ、自分たちの共同性が強化されるという、この矛盾。
これは別に戦争に限らずとも、何かしらの本気の競争には、必ずそのような要素が内在してるはずですよね。
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そして、この事実がわかっているからという理由で、自ら抑制的になり、共同性のほうだけを追求しようとしてみても、そこで立ち現れてくるのは「ほどほど」の、ともすれば「偽りの共同性」でしかない。
目的性というのは「やってる感」ではダメであって、本当の意味で「死にものぐるいでやっている」状態でなければならない。
目的が文字通りちゃんと「目的化」していなければいけない。それが一瞬たりとも、共同性のための「手段化」していてはいけないわけです。
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言い換えるのならば、目的のためなら、ときには仲間を無惨にも見捨てる、切り捨てるという覚悟のもとに「目的性」を追求しなければいけない。
大澤さんも「葛藤や裏切りの可能性を秘めていても、Pに執着することが、Cを深化させるのである」だと語っています。
これって、ものすごく変な話だと思いませんか。
僕ら人間が真に求めているのはどう考えたって「共同性」であるはずなのに、ありとあらゆる共同性を劣後においた「目的性」をトコトン追求した結果としてしか、立ち現れてきてくれないものが「真の共同性」だというのだから。
でも、実際問題として、そうとしか言いようがない。
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この擬似性をどのように乗り越えてつくりだすのか。本当にむずかしい問題だなあと思います。
コミュニティを運営していて、いつも悩ましいなと思わされる点というのも、まさにここにある。
ここに真剣に向き合わなければ「真の共同性」には到達できない。
「共同性が大事、それが人間の幸福をもたらすものである」そんなことは世界一の大学において、優秀な頭脳をいくつも用いて何十年もかけて研究なんかしなくても、まともな人間であれば直感的にわかっていることで、問題の本質はむしろこっちにある。
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さらに、大澤さんは最後に、もっと絶望的になってしまうようなコメントを添えていて、この話を終えているんですよね。
「現代社会の困難、現代の不幸の源泉は、どんなPがCと接続するのかまったくわからない、それどころか、そのようなPはどこにも存在しないようにすら見える、という点にあるのではないか」と。
これも本当にそのとおりなんですよね。
ある種、戦争という(その後に訪れた「経済戦争」も含めて)Pの一番の最大化が、すでに通り過ぎてしまった時代が現代でもあるわけですから。
あとは、どこまでいっても目的性というのは、擬似的な目的に成り下がる。
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というか、もっと具体的に言うと「自己や他者の共同性を犠牲にするんだから、目的性を追求するな」と無意識に自己抑制させられてしまうのが、現代人が置かれていしまっている状態であり、本当の意味での辛いところ。
何かの目的を追求しても、必ずそれは誰かの足を踏むことにつながるわけだから。
たとえば、オリンピックだって今では「平和の祭典」というのは名ばかりのものになってしまっている。
日本が誇る企業、たとえばユニクロやトヨタだって、世界中の労働者や環境問題を散々に搾取をし、他国の人々の「共同性」を破壊した結果の目的性の達成だったりもするわけですよね。
現代の目的性を追求する行為は、必ず誰かの自由や共同性を侵害してしまう。それがわかりきっているのが現代の特殊性です。
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じゃあ一体どうすればいいのか。
僕にも、その答えは全くわからない。
もちろん、このWasei Salonも圧倒的に「共同性」を重視している空間です。
でも、それだけを追求していても、本当に到達したいと思っている「真の共同性」にはいつまで経っても到達できない。
で、これは、少しメタ的な視点にはなってしまうけれど「この矛盾をどうやって乗り越えるのか?」を考え続ける、問い続けるということが、僕らの世代に残された唯一の「目的性」そのものなんじゃないかとさえ僕は思ってしまいます。
でも、そんなメタ的な目的性を理解してくれるひとも、なかなかに珍しい存在ですし、そもそも今日書いてきたような話だって、一体どれだけのひとにちゃんと伝わっているのかさえ怪しいところ。
ものすごくわかりにくい話をしてしまって、本当に申し訳ないなとも思いつつも、そんなことに深く悩まされる今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。