「子育ては、現代の推し活の一種だ」
最近、こんな言い方を耳にする機会が増えました。
これはたしかに、言われてみればわからなくもないなと思います。
時間もお金も感情も、我が子に目一杯注ぎ込んで、少し成長しただけでうれしくなる。自分に直接の見返りがなくても、その存在そのものを応援したいと思ってしまう。
そこだけを切り取れば、なるほど、うまいことを言うなと思います。
だから僕は、「子育てを推し活と呼ぶなんてけしからん」と言いたいわけではありません。
いま気になっているのは、その先の話です。
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現代では、「推し活」という言葉があまりにも便利な共通言語になった結果、僕らは世の中のいろいろな営みを、このメガネ越しに見るようになってはいないだろうか。
具体的には、子育ても推し活。学術研究も推し活。地域おこしも推し活、と。
あとは、伝統芸能を守ることもそうだし、地方の小さな書店を続けることなんかもそう。
「好きだからやっているんだ」と言われれば、たしかに全部そう見えてきてしまう。
人間は、ひとつ便利な言葉を覚えると、それを通して世界全体を見るようになる好例だなあと。
で、このブログの中ではこれを「推し活メガネ」と呼んでみたいのですが、ではなぜ僕らは、これほどまでにこの推し活メガネを好んでかけるようになったのか。
ここは一度、この言葉の功罪、その功績のほうから考えてみたいなと思います。
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そもそも推し活以前のインターネットでは、「好き」と言うことが、とてもむずかしくなりました。
具体的には、いまから10年ぐらいまえの話。難しい本が好きだと言えば、教養マウントで、仕事が好きだと言えば、意識高い系。
高級なブランドが好きだと言えば成金だし、子育てが楽しいと言えば、幸せ家族アピールと勝手にみなされる。
「私はこれが好きです」という、ごく単純な一人称の発話が、そのまま一人称として受け取ってもらえないわけです。
「それを好きだと言える自分を見せたいんでしょう?」というメタメッセージを、聞き手の側が勝手に読み込んでしまう。それがSNSが生み出した社会の暗部。
実際そういうマウントが2010年代は横行したからこそ、そういう穿った見方が広がってしまったわけです。
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でも一方で、本人としては、「ただ、高校生のころにこの本に救われた」とか「この大学に通って、生涯つきあえる仲間が見つかった」とか、自分の人生の思い出を語っているだけの場合もあるわけですよね。
そして、好きなものについて語ることは、他人について語っているようでいて、実際には「自分がどう生きてきたか」を語ることでもある。
それなのに、その言葉が公共の場では「マウント」や「アピール」に変換されてしまう。
だから人は、だんだん好きなものについて語らなくなっていったわけです。「SNSをやめた、嫌いになった」というひとの多くはこのメタメッセージのやり取りに嫌気が差したり、疲れた人たちが多かった気がします。
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そんな風にSNS文化が完全にギスギスしはじめたときに、「推し活」という言葉は、本当に大きな役割を果たしたなと思うのです。
「いや、別に偉いと思っているわけでも、正しいと思っているわけでもない。ただただ好きなんです」と。
そう言える場所を、この言葉はSNS上で確保してくれた。パンパンに膨れ上がっていたメタメッセージの読み合いに対して風穴をあけて、ガス抜きをしてくれたわけですよね。
「推し」という言葉には、最初からある種の主観性の宣言が含まれているから、です。
「世界でいちばん優れていると主張しているわけではない。みんなも好きになるべきだと強要しているわけでもない。ただ、私はこれが好き」それだけを言っている(ように見える)。
このブログで何度もご紹介してきた「リベラル・アイロニスト」という小難しい言葉を、推し活という言葉は一言で言い表した。
「世の中にはいろいろあるし、それらを全部尊重する。でも私は勝手にこれがいちばんだと思っている」という態度です。
だから、堂々と偏愛できるし、目一杯、愛を叫べる。
かつてなら「そんなものに夢中になって…」と笑われたり蔑まれたりしていた行為に、ひとつの市民権を与えたわけですよね。
SNSのような公共空間で「マウント」に変換されてしまう言葉であっても、推し活という文脈の中でなら「そんなに好きなんだね」と受け取ってもらえる。
好きを、好きのまま受け取ってもらえる。
「好き」を、他人の評価軸から解放したこと、これこそが「推し活」という言葉の、間違いなく大きな功績です。
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ところが、この「ただ好きなだけなんだから、放っておいてくれ」という論理には、続きがあります。
放っておいてくれ、と言えるようになったのと同じ論理で、社会の側からも、以下のようにも言えてしまうからです。
「ただ好きなだけなんですよね。じゃあ、あなたが勝手にやればいいですよね」
好きだから、口は出さない。ここまでは、とても寛容な態度に見えます。
他人の情熱を邪魔しないし、自分の価値観を押しつけない。非常に現代らしい自由な態度です。
でもその寛容さは、それゆえに、自然な流れで、以下のようにも続いてしまう。
「口を出さない。だから手も出さないし、お金も出さない。あなたが好きでやっているんだから、あとは勝手にどうぞ」
つまり、「好きに推していいよ」という言葉は、自由を与える言葉であると同時に、相手を見捨てるための言葉にもなりえる。
これが、僕が「推し活」という言葉の功罪における、明確な罪の部分だと思っているところです。
「好き」を他人の評価から解放してくれた同じ論理が、「好き」を共同体の責任からも切り離してしまう。
世間的しがらみからの解放と孤立が、表裏一体になっている。
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そして、ここで冒頭の子育ての話に戻ります。
子どもを愛しているのは、基本的にはその親です。だから親が、時間もお金も注ぎ込む。そこだけ見れば、たしかに推し活によく似ている。
でも、「あなたがその子を好きなんでしょう?」が、「だったらあなたが勝手に育てればいいじゃない?」に変わった瞬間、意味がまったく変わってしまう。
次の世代を育てることは、本来、社会全体の営みでもあるはずです。
にもかかわらず、これを「究極の推し活」とだけ呼んでしまうと、「そんなに子どもが好きなら、自分たちで勝手に育てればいいじゃない」という話に、いつの間にか近づいていってしまう。
子育てを肯定するためにつくられた比喩が、逆に子育てを家庭の内側へ閉じ込めてしまう。ここに、言葉のおもしろさと、怖さが同時にあるなと思います。
つまり、愛情の主体が個人であることと、責任の主体まで個人であることは、まったく別の話なんです。
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そして、これはもちろん子育てに限った話ではありません。
古代の文献について一生をかけて研究している人がいる。傍から見れば、たしかにそれは「推し活」に見えるかもしれない。
でも「本人が好きで研究しているんだから、自分のお金で好きにやればいい」となった瞬間、学問というものは成立しなくなります。
本人には何の役にも立たないように見える研究が、50年後、100年後の社会にとって重要な意味を持つことだって普通にあるわけですから。
地域だってそうです。祭りを守りたい人や商店街を残したい人。たいてい、その中心にいるのは「好きな人」です。その地域を推しているひと。
でも、その「好き」がなくなった瞬間に一緒に失われるものは、その人個人の趣味だけではない。僕らが共有していた風景だったり、記憶だったり、文化だったりするわけですよね。
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社会の大切なものの多くは、誰かの強烈な「好き」によって維持されている。でも、それを「好きな人だけのもの」にしてしまったら、社会は維持できない。
むしろ昔は、そこをあまり分けて考えていなかったのだと思います。
誰かが好きでやっている。だからその人に任せる。でも、それは当たり前のようにみんなにとっても大切なものという前提だから、周りも少しずつ手も口も出すし、お金も出す。
そして、なにより、本人の情熱と共同体の責任が、もっと曖昧に混ざり合っていた。
ところが「推し活メガネ」は、そこをきれいに切り分けてしまったわけです。
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このメガネをかけると、僕らは世界のすべてに対して、消費者の位置に立つことになります。
興味があれば支援するし、興味がなければ離脱する。そしてそれ以降は「私には一切関係がない事柄である」と言えてしまう。
現代社会と相性がいい言葉なのも、当然です。
でも、このメガネで世の中すべてを見てしまうと、「自分は好きではないけれど、『みんなの課題』にしておいたほうがいい」という領域が、まるごと社会や世間から消えてしまう。
たとえば僕は、自分が利用しない図書館にも税金が使われていていいと思います。自分に子どもがいなくても、保育や教育にお金が使われていてほしいとも思う。
自分にはまったく理解できない研究であっても、誰かがそれを公金の一部で続けられる社会であってほしい。当然、行ったことのない地方の祭りが、これからも続いてほしいと思う。
これはそれらを「推している」からではありません。自分の好き嫌いとは別のところに、社会や共同体に残しておくべきものがあると思っているからです。
しかもそのときに経済合理性の論理、コスパやタイパの論理は持ち込んではいけない。そして、推していないことと、支えなくていいことは、決して同じではない。
ここには「推し活」という言葉では、どうしても取りこぼしてしまう感覚があるよなあと思うのです。
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そう考えていくと、共同体というものの役割も、少し違って見えてくるはずです。
共同体の役割は、「全員で同じものを好きになること」ではなく、「それは素晴らしい!」と社会全体でコンセンサスをとることでもないはずで。
むしろ、誰かの「好き」を、その人だけの責任にしないこと。
ある人が何かを心から愛していて、自分はそこまで好きじゃない場合、それでも「そんなに好きなんだね」「その話、もっと聞かせてよ」と言うことはできる。
それが祭りや研究や子育てであれば、「僕自身はそこまで興味はないけれど、それがなくならないようにはしたい」と思うこともできる。
同じものを、ともに持っているという感覚、一緒に抱えている感覚です。
「好き」と「無関心」のあいだには、本当はものすごく広い領域があって、推すor推さないの二択では、どうしても捉えられない関係が、そこにはあるなと思うのです。
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誤解のないように繰り返しますが、推し活という言葉自体は、基本的にはとてもいい言葉です。
他人から見れば理解できない情熱に対して「それもいいじゃない」と言ってくれるわけですから。
人の好きなものにまでイチャモンをつけていた、平成までのおせっかい文化とは完全に対極にあるもの。だからこれだけ多くのひとが飛びついた。
そして、その推しへの情熱を語ることそれ自体が「自分がどう生きてきたか」を積極的に語ることでもある。まさに村上春樹のカキフライ理論そのものです。
みんな推しを語っているようで、その推している対象をくぐらせた「私自身」のことを語っている。
それは本当に素晴らしいことです。「自分を語らず、推しを語れ!」と本気で思います。
ただ、そのメガネがあまりに便利だからこそ、いま静かに生まれている罪のほうにも、そろそろ目を向けていきたいなと。
世の中には「その人が好きだから続けていること」と「その人だけに背負わせてはいけないこと」が、同時に存在しているはずだからです。
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そして、きっといまのコミュニティ文化の復興の理由もここにある。
メタメッセージを読み取られない形において「目一杯、愛を叫べる場をつくる」こと。
そのうえで、それを一人の自己責任にしないこと。
なるべく、共同体で共有できる問いにする。一緒に重たい荷物を持ち合う。
苦労のたらい回しのように、お互いがお互いの「好き」に対して、敬意と配慮と親切心を持ち合えるような関係性。
つまり共同体とは、「好き」を安心して叫べる場所であると同時に、その「好き」を叫んだ人間を、決してひとりにしない場所でもあるんだろうなあと。
「推し活メガネ」が当たり前になった現代だからこそ、その功罪について考えながら、本当に人間にとって必要な共同体やコミュニティとは何かを引き続き考えていきたいなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/08/29 15:41
「好きにしていいよ」は自由の言葉であり、見捨てる言葉でもある。推し活メガネの功罪。
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