先日、F太さんとVoicyのプレミアム配信で話していて、妙に腑に落ちる瞬間がありました。

最近、Xでまた、自分の投稿が炎上したりバズったりすることを繰り返したのがきっかけです。

当然、たくさんの批判的なリプライが飛んできたのですが、それを眺めながら僕が感じていたのは、怒りでも反論したい気持ちでもなく、「めちゃくちゃ人間だなあ」ということでした。

なぜそう思ったのか。

みんな、驚くほど同じことを書いてくるからなんですよね。

もちろん書いている本人たちは、それぞれ自分の言葉で、自分の違和感を表明しているつもりのはず。

でもこちらから眺めていると、似たような感情、似たような論点、似たような言い回しが、ほんとうに繰り返し繰り返し、何度も何度もやってくる。

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それを読みながら、ふと思ったんですよね。

もし僕の投稿をAIに読ませて「この意見を徹底的に批判してください」と頼んだら、僕がぐうの音も出ないほどの圧倒的な正論をAIは書いてくれるはずだと。

もちろん、ロジックもキレイに整えてくれるだろうし、僕が思いつきもしなかった角度から反論してくるだろうと思います。

それなのに、生身の人間から返ってくるのは、そんなに器用なものでは決してない。

ただただ「私はこれが嫌だった」「なんか違うと思った」という不躾であけすけな感情が、そのままこちらに剥き出しの言葉で飛んでくる。褒めてくれるときや賛同してくれる時もまったく同様です。

人間のそんな素直さと不器用さを見て、逆にものすごく「ああ、向こう側に生身の人間がいるなあ」と改めて感じてしまったんですよね。

ともすれば、AIの丁寧な寄り添いや論理展開、そのある種の冷たさに対して、なんだか不躾ゆえに、あたたかくもあった。

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これって、いま現在社会のなかで起きている、ほんとうにおもしろい逆転というか、反転だなと思うのです。

僕らはこれまで、「同じことしかできないもの」を機械的だと考えてきました。単純作業を繰り返す機械や、決められたパターンしか返さないコンピューターやロボットのように。

一方で人間とは、予測不能で、多様で、創造的な存在だと思っていたわけですよね。

でも生成AIが出てきて、このバイアスや思い込みが、いま少しずつ逆転し始めています。

そんなのは、文字通り、人間側の思い込みに過ぎなかったんだと。

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F太さんとも盛り上がったのですが、AIは、とにかくバリエーションを出すのがうまい。驚くほどうまいんです。

同じテーマについて文章を書かせても、「別の角度から」「もっと柔らかく」「もっと尖らせて」と頼めば、いくらでもまったく違うバリエーションのものを出してきます。

むしろAIのほうが、同じ手札を絶対に二度と切らないようにしているとすら言えるかもしれません。

対して人間は、驚くほど同じ手札ばかりを延々と切り続けます。

F太さんも配信の中で、「昔の自分の文章を読み返すと、本当に同じことばかり言っている」と話していましたが、それは僕もまったく同じです。

毎日ブログを書き続けていますが、振り返ってみれば、日々違う出来事について書いているようでいて、実のところは、結局いつも似たような問いや仮説に舞い戻ってきてしまっている。

長年の読者のみなさんであればあるほど、それをよくご存知のはずです。

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そうすると、ここで、ひとつの意外な仮説が浮かび上がってくるなあと。

もしかすると、僕らが「個性」と呼んできたものは、新しいアイデアを次々に生み出せることではなかったのかもしれない、と。

むしろその真逆であって、その人が、どうしても同じところに戻ってきてしまうこと。

そこにこそ、ほんとうのその人の「個性」があったのではないかと。

何を見ても、なぜか同じ問題を考えてしまう。毎回似たような本を手に取り、同じところで怒って、同じところで笑って、同じような人を好きになってしまうというような。

そして何年経っても、どうしても捨てきれない問いがずっとある。

その反復こそが、個性でもあり、なおかつ恐怖そのものでもある。

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この「恐怖」という感覚を書きながらふと思い出したのが、内田樹さんが『新版    映画の構造分析』の中で紹介していた、フロイトの「不気味なもの」の話です。


フロイトによれば、不気味なのは「何が」回帰するかではなく、「回帰することそれ自体」が不気味なのだと。

自分の反復も、まったく同じです。

誰に頼まれたわけでもないのに、気づけば同じ問いの前に立っている。自分で選んだ覚えがないからこそ、そこに自分を超えた何かを直感してしまう。

何に不気味さを感じているか、ではなく、その現象それ自体が、我々には不気味なのだと。

だからおもしろいのは、僕らがAIに感じている不気味さは、ちょうどこの正反対だということですよね。

人間は、わけもなく回帰してしまうからこそ不気味であって、AIは、決して回帰をしないからこそ、また不気味でもある。非常に非・人間的でもあるわけですよね。

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で、効率だけで考えれば、人間の態度は、これはかなり不合理なことなんですよね。

もっと違うことを考えたほうがいいし、新しい角度をどんどん取り入れたほうがいい。

でも、人間にはそれがなかなかできないわけです。

なぜなら人間には「好き嫌い」があるから。つまり、偏見があり、思い込みがあり、そこに強い執着があるからです。

F太さんと話しながら、僕はそれを「非常に人間らしいバイアス」と呼びました。

そして、今思うのは、誤解を恐れずに言うと、そんなバイアス(偏見)こそが至高なんだ、ということです。

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また、AIはバリエーションを無限に出してくれますが、でも不思議なことに、そのバリエーションは、どこかすべて「典型通り」でもあるんですよね。

右にも行けるし、左にも行けるし、昨日とは正反対の立場から、今日も同じ精度でバリエーション豊かな文章を書けるし、何度でも書けてしまうのがAIです。

でもそこには、「俺は、私はどうしてもこっちが好きなんだ!」とか「どっちにいけばいいんだろう?」という迷いや執着のような、偏りが一切ありません。

だから、妙に左右対称に見えてしまうし、変に歪まない。いつだってとてもキレイに均一なんです。

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そう考えると、これからの時代は、「多様であること」「美しいほどの創作的であること」のほうが、実は人工的になっていくのかもしれないと思います。

無限のアイデアも、無限の表現も、これからはAIがいくらでも提供してくれるようになるわけですから。

そんな時代に、逆説的に、人間にしか残らないものとは一体何か。

その答えは、最近それこそ、何度もこのブログでも繰り返し語っていることですが「反復」であり「またこの人、この話をしてるよ」と半ば呆れられることなのかもしれないなあと。

あの人は何を見ても、結局この話に戻ってくる。

どれだけ時代が変わっても、ずっと同じことを気にしている。

そんな「ワンパターンさ」のなかにある手を変え品を変え感こそが、むしろその人のほんとうの署名みたいになっていく。

そしてその署名自体が記憶されること。みんなの思い出や人生とも接続されること。

宮﨑駿や村上春樹の作品群なんかがまさにそうであるように、です。

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これまでは、明確に人間の欠点だと思われていたものが、そのまま人間であることの証明になってしまう。そんな未来は、意外とありそうだなと思うのです。

以前このブログで、AIの気の利いたリプライよりも、トンチンカンな人間のリプライのほうが逆にありがたい、という話を書いたことがあります。

参照:AI時代、トンチンカンなリプライが逆にありがたい理由。

今回の話は、まさにその続きでもあるのだと思います。

フロイトが語るように、それこそが人間の不気味さであり、なおかつ不気味さを感じているまったく同じものが、人間だけに与えられたギフトであり、祝福でもある。

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ただ、F太さんとのプレミアム配信内のお話は、ここで終わりませんでした。

むしろここから先が本題であり、同時に一気にわけのわからない方向へとドンドンと「脱線」していってしまった理由でもある。

それは、なぜ僕らは「偏っているもの」には、こんなにも人間らしさを感じるのか。

なぜ、きれいに整っていて、バリエーション豊かなAIの文章や画像をずっと見ていると、妙に疲れてしまうのか。

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そしてこのあとの僕らの対話は、プラトンとアリストテレスの「イデア」や「本質」をめぐる話に入り、「創作とは何かを自分に降ろしてくる行為なのではないか」という非常に抽象的な話になり、最後には「AIには時間がない」というところまで進んでいきました。

最初は「AIの文章ってなんで疲れるんだろうね」という話をしていただけだったので、まったく予期していなかった流れです。

でも、今回話していた内容のことを踏まえると、たぶんそれでよかったし、それこそが良かったのだと思います。

きっとこれからの時代において、とても大事になるような、でもいまは完全に見落とされているような観点について、そのまわりをグルグルとまわりながら歩いているような話であると思うので、ぜひ直接聴いてみてもらえると嬉しいです。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。