今年の6月ごろ、Xにこんなことを書きました。

自動運転が来たら、乗っている最中に広告さえ見てくれれば、移動料金はタダという世界線がやってくるのかもしれない。そう考えると、未来のタクシー会社は、意外とYouTubeやTikTok、Netflixのような映像を提供する会社なのかもしれないなあと。


そして最近、テスラの「サイバーキャブ」のニュースを見ていて、この想像がまた膨らんでいます。

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きっと自動運転の車内に入ってくるのは、たぶん広告だけではないと思います。

無人なのだから、車内はそのまま「動く個室」。

つまり、占いやカウンセリングの場になってもおかしくないし、真逆に振って、キャバクラやホスト、コンカフェのような空間になることも十分にあり得る。もしかしたら、移動中に受信可能な医療現場にもなるかもしれない。

もちろん、その接客をするのは人かもしれないし、AIかもしれないわけです。

マッチングアプリなんかも、そのうち「マッチしたのでカフェで会いましょう」ではなく、「おふたりを自動運転車がお迎えに行きます」になるのかもなと思います。

車内のAIが会話を取り持ち、見守りや緊急通報も担ってくれるわけだから。

カメラがあるだけで安心できるわけではないけれど、初対面でも乗れるような仕組みをつくろうとする事業者は、きっと出てくるはずです。

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こうやって並べてみると、ずいぶん下世話な未来に見えます。

でも僕がおもしろいと思っているのは、サービスの中身ではなくて、これらすべてに「移動」という大義名分がついていることのほうです。

わざわざ占いを予約するほどではない。でも帰り道に少し話すぐらいなら、してみてもいい。誰かに話を聞いてもらうためだけに時間を取るのはためらうけれど、どうせ車に乗っているのなら、聞いてほしいことがあるし、と。

「移動しているだけ」のはずの時間に、あらゆるビジネスが入り込んでくる。人間の欲望がこれだけ重なる場所なのだから、ほんとうに大きなお金が動く場になりえるのだろうなと思っています。

ドラッグのように最初の1回さえ使ってみてもらえれば、という中毒性の高いものほど「ここで試してみてください、しかも無料で」となる可能性も高い。

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ただ、ここまで書いてから気がついたのですが、これはべつに新しい話ではないんですよね。

参道には、昔から門前町がありました。

お参りに向かう道の両側に、茶屋が並び、土産物屋が並び、占い師が座り、場所によっては遊郭まであった。

参拝という大義名分のもとで、道中にありとあらゆる商売(俗世)が入り込んでいたわけです。

そしてそれは、参詣の高揚を損なうものではなく、むしろ高揚の一部だった。伊勢参りなんて、その主客がむしろ逆転していたとも言えそうです。

道中で何かを食べ、何かを買い、誰かと話す機会となる。その積み重ねの先に、神社の本堂があるイメージ。

「移動という大義名分の中で、あらゆるビジネスが行われる場所」は、僕が未来として予想していたものではなく、日本人が何百年も前からやってきたことでした。

そう思うと、ここで気になってくることがもうひとつあって。

車内での過ごし方がそこまで変わってしまったら、僕たちは、行きたい場所そのものも変わってくるのではないでしょうか。

そして、こういう変化は、これまでの歴史の中でも繰り返し起きてきたことなのだと思います。

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たとえば、わかりやすいのは北前船。

北海道と大阪などを結んだ北前船は、各地に物資を運ぶと同時に、文化も運んでいました。北海道の昆布が京都や大阪へ届き、だし文化の発展につながる。

雛人形が各地へ運ばれ、船乗りたちを通じて民謡も伝わっていく。

あとは、出港までの「風待ち」の時間に、料亭や茶屋などで交流が生まれたことも紹介されています。

この「風待ち」という時間も、すごくおもしろいなと思います。

目的地まで一直線にはたどり着けない。だから、その途中で人が滞在し、誰かと出会い、唄を覚えて、別の港へとそれを意図せず持っていく。

港町の料亭や茶屋は、海の時代の門前町だったわけです。

外から届いたものを、その土地の人々が取り入れ、手を加えて、暮らしの中になじませていく。いつしかそれが「この土地らしい味」や「昔から伝わる文化」と呼ばれるようになるわけです。

僕たちが何をおいしいと思い、どんなものに親しみを感じるか。その感覚にも「かつての交通」がものの見事に入り込んでいるのだと思います。

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似たようなことが、鉄道の時代にも起きています。

『ブラタモリ』なんかを観ていると、初詣や参拝の歴史が、そのまま鉄道の普及と重なっていることがとてもよく理解できます。

いま僕らが当たり前のように受け入れている「初詣」という習慣は、明治以降、鉄道会社の集客競争の中で広まったものだそうです。

信仰の場所に、行楽の楽しみが重なっていく。交通は、そこへ人を運ぶと同時に、「そこへ出かける習慣」も同時に育ててきたわけですよね。

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そしてこのとき、参道の茶屋と土産物屋は、みごとに「鉄道の駅前」に移りました。つまり、駅前商店街は、鉄道の時代の門前町です。

自動車の時代になると、それがもう一度引っ越しました。今度はロードサイドの大型店と、イオンモールと、サービスエリア。

駅前商店街のシャッターが降りていったのは、商売が滅びたからではなく、モータリゼーションの時代に、門前町が国道沿いに移ったからです。

門前町は、一度も消えていない。交通の結節点が動くたびに、それらに最適化して引っ越し続けているだけなんですよね。

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こういう変化を、僕自身の実感として考えやすいのが、地元の函館です。

函館は、北前船の寄港地であり、幕末に開港した港町でもありました。海運の時代に、あの街は地政学的に「発見」されたわけです。

赤レンガの倉庫も、坂の上の洋館も、あれは海の時代の門前町の産物です。

その後、物流の主役が船から鉄道と道路に移り、青函トンネルが開通して連絡船がなくなると、「本州と北海道をつなぐ玄関」という役割も薄れていきました。

もちろん、街の変化を海運だけで説明することはできないけれど、僕が函館に感じているノスタルジーの中には、確かにその歴史が含まれています。

明治から昭和にかけて見事に栄えて、平成に入って見事に廃れた街です。

完全に昭和のまま時間が止まっていて、平成に乗り遅れた街。

ところが、いまの函館に来る若いひとや海外からの観光客は、あの街のそんなノスタルジーにこそ郷愁を感じているわけです。

「海運で栄えて、その後に廃れた」というノスタルジーそのものが、ひとつの街の物語として楽しまれている。ここも、見逃せないところだと思うんです。

しかも、今その街へ人を連れてくるのは、現在の交通手段です。

飛行機や新幹線で、函館を訪れるひとも多いですし、台湾からは直行便で来ることもできる。港には国内外の大型のクルーズ船が寄港することもできてしまいます。

昔は商いのために人や物が行き交っていた港へ、今度はその街を楽しむために、大きな船で人々がやってきている。この重なりには、なんとも言えないおもしろさを感じてしまいます。

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で、ここで話がガラッと変わりますが、最近、キングコング西野さんが語っている「AI時代は、土地を取れ」という話に、僕もとても共感しています。

そのうえで、ここに自動運転が入ってきたとき、土地の勢力図自体も、またガラッと変わるのではないかと思うんですよね。

そもそも、今の「一等地」というのは、鉄道・飛行機・自動車に最適化された場所です。

駅から近いし、空港からも行きやすい。車で無理なく訪ねることができるような場所。

つまり、土地の価値というのは土地そのものに備わっているというより、その時代の「移動技術」によって発見されてきたわけです。

ただ、自動運転には、これまでの交通の交代とひとつだけ違うところがあると思っています。

自動運転で初めて、門前町が土地を離れる。ここがめちゃくちゃ大事なポイントだなって。

占いも、接客も、広告も、初対面の出会いも、乗り物の中に入る可能性が出てきた。冒頭に書いた下世話な未来予想は、要するに「動く門前町」の話がしたかったのです。

人の営みが、移動の途中に集まってくること自体は、何も変わっていない。変わるのは、それがもう土地を必要としなくなること、です。

これは、土地のほうにとって、かなり大きな変化だと思うんです。

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これまで土地は、駅前に何があるか、国道沿いに何があるかで選ばれてきた。

しかし、商売が車内に吸い取られてしまえば、土地は商売で勝負しなくてよくなる。「その目的地に何があるか」だけで、選ばれるようになる。

だとすれば、今は不便だと思われている場所が、突然ものすごく魅力的に見えてくる可能性だってあるわけです。

今の「便利で有名な観光地」を押さえることと、これから「不便ではなくなる桃源郷」を見つけることの違いは、思っている以上に大きな差があるような気がしています。

しかも、その桃源郷は、まだ誰も知らない場所だけとは限らない。

昔は栄えていた街や、交通の中心から外れた集落、門前町に去られて、もう完全に役割を終えたと思われていた場所。

そこにしかない風景と、そこでしか語れない物語・歴史があれば、次の時代に人が集まる理由は眠っているのかもしれない。

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そして、個人的にいちばん楽しみにしているのは、その土地へ向かう車内に、AIが一緒にいてくれる未来です。

その土地の歴史や文化を、AIと話しながら知っていく。なぜこの港は昔は栄えたのか。なぜ、この坂の上に洋館が残っているのか。昆布はどこへ運ばれていったのかなどなど、気になったことを、窓の外に流れる風景と結びつけながら、その場で学ぶことができる。

そうやって目的地へ向かっていたら、着いたときに見えるものもガラッと変わります。

街の賑わいも、寂しさも、その背景を少し知ったうえで歩けるようになる。

移動中の車内こそが、その土地の専門家やツアーコンダクターと共に歩くような、目的地までの「参道」になる。

今までは「空港からさらに2時間もかかる」と思っていた道のりが、その土地を楽しむために、ちょうどよい時間になることだってあり得る。

物理的な距離は同じでも、その時間をどう受け取るかは、人間の主観的感覚である以上、いくらでもその「2時間」の価値は変わり得るんですよね。

そして、参道の先にある土地には、車内で高められた期待感をそのまま受け止めてくれるものが、そこにありさえすればいい。

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冒頭に書いたように、車内には、広告も接客も占いも出会いも入ってくるのだと思います。

そこに人間の欲望がある以上、いろいろな商売が生まれるだろうし、その生々しさも含めて、自動運転の未来は本当におもしろいなと思う。

門前町は、いつの時代もそういう怪しく艶めかしい場所でもありました。

北前船や鉄道によって育まれたものを、僕たちが今、当たり前の文化として受け取っているように、自動運転のある暮らしからも、次の当たり前が生まれていくはずです。

僕自身、全国を訪ねてきた中で、自動運転が普及したら、あの場所はずいぶん変わるのではないかと思う土地が、実際にいくつもあります。

そういう「不便ではなくなる桃源郷」を、これから見つけていけることが、僕は今からとても楽しみです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。