先日、友人の中里祐次さんが、こんなポストをしていました。


中里さんは、不登校のお子さんとご家族を支援する「Branch」という会社をやられている方で、もう10年以上交流のある友人です。

僕はこのポストを読んで、この葛藤って、いま本当にめちゃくちゃ大事だなと思ったんですよね。

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そして、これはたぶん、不登校のお子さんを持つ親御さんだけの話ではないはずです。

部下に「転職しようと思っています」と言われて、「応援するよ」と返した日だったり、友人が地元を離れると決めたときに「頑張ってね!」と返した日だったり。

口では「いいよ」と言ったわけです。もちろん、本心でそう思っている。

でも、言い終わったあとに、行かないでほしい、変わらないでほしい、という別の気持ちも、たしかに残っているというような場面。

僕らは、こういう場面を、わりと頻繁に人生の中で経験していると思うんですよね。

で、そのあとにふと、「あのとき、自分は偽善者だったんじゃないか」と思ってしまう。

でも果たしてそれは本当に偽善者なのか?

今日はそんなことを、このブログに書きながら丁寧に考えてみたいと思います。

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まず、中里さんの答えである「受け入れと願いは、同時にあっていい」という言葉には、僕も素直に頷きました。

この言葉に救われる親御さんが、きっとたくさんいるはずです。面談の場で、目の前にいる親御さんに向かってケアする言葉として、これ以上のものはなかなか思いつきません。本当に素晴らしい言葉。

で、だからこそ、僕はその先も合わせて、少し考えてみたくなったのです。

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この葛藤がなぜ大事なのかというと、ここには「相手を受け入れるためには、自分の願いまで消さなければいけないのか」という問いが見え隠れしているからだと思います。

「行かなくていいよ」と伝えることと、「本当に行かなくてもいいと思える自分になる」ことは、別のことです。

前者は、今日からでもできる。でも、後者まで求められた瞬間に、親のほうには二つの道しか残されなくなるんですよね。

自分の感情を偽るか、そんな感情を持ってしまう自分自身を責めるか、です。「学校に行ってほしい」と願ってしまう自分は、まだ受容が足りない、まだ成長が足りない、と思ってしまう。

でも、僕はそうじゃない、むしろ逆だと思うのです。

「行ってほしい」という本音があるのに、それを相手への命令にしない。そこにこそ、受け入れるという行為の「重み」があるのではないかと。

自分の願いがかなわないかもしれない、という可能性を、相手との関係のなかでちゃんとしっかり引き受けている証拠だから、です。

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ただ、この整理だけでは、まだ捉えきれていないものがあるなと思わされた映画がありました。

それが最近映画館で観た、中島哲也監督の最新作『時には懺悔を』です。


『告白』や『渇き。』の中島監督が、8年ぶりに撮った作品で、探偵が殺される事件から物語が始まり、その真相を探るうちに、9年前の誘拐事件で連れ去られた、重い障がいのある少年・新(あらた)にたどり着く、というお話です。

この映画のミステリーの筋には、ここでは一切触れません。

ここで書きたいのは、この映画に出てくる障がい者の子どもを持つ親たちの葛藤です。

そのなかで描かれているのが、障がいのある我が子に対して、「なぜこんな子どもを生んでしまったんだろう…」という否定的な思いを抱えながらも、それでも「我が子はかわいい」と肯定的でありたいと願ってしまう、その親の葛藤なんです。

さっきまで僕が書いていた「願いを命令にしない」という話は、言ってしまえば、相手にどう接するか、という話でした。

でもこの映画で描かれている葛藤は、もっとその手前にあります。

相手にどう接するか以前に、自分のなかにある、相手の存在そのものを否定してしまう思いと共にどう生きるか。

映画を観ながら、これは本当に答えのない問いだなと思いました。

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で、ここで難しいのは、否定的な思いのほうを「隠された本音」、肯定的でありたいという願いのほうを「建前」だと。僕らはついつい見なしてしまいやすいということです。

でも、思わず湧いてしまう感情だけが本音で、「それでも、こうありたい」と願う意志のほうは偽物なのか。

決してそんなことは、ないはず。

しかも厄介なのは、肯定したいと心から願っているからこそ、否定的な思いが湧いてしまう自分を許せなくなる、ということなんですよね。

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子どもとの関係に苦しむだけじゃない。そう感じてしまう自分との関係にも、同時に苦しんでしまっている。だから自分自身の心も同時にドンドンと病んでいってしまう。

そして、この葛藤を「それも愛情ですよ」ときれいに回収してしまうと、こぼれ落ちてしまうものがあるなあと思うのです。

本人にとっては、愛情という言葉では到底覆いきれないような拒絶や後悔が、実際にあるのかもしれないから。

それでも、肯定したいという願い自体も消えない。

もし、否定が消えた先でしか肯定できないのだとしたら、肯定にたどり着けない人がこの世の中にはたくさんいることになってしまう。

その人が、否定を抱えたまま、それでも目の前の子どもと生きていくことを、僕らはどう受け止めるのか。

ここに大きな大きな「問い」があるなあと思ったんですよね。

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で、ちょうどこのタイミングで、もう何度目になるかわからない松岡正剛さんの『日本文化の核心』を改めてオーディオブックで聴き返していました。

この中で、『代表的日本人』を書いた内村鑑三の「二つのJ」の話が紹介されています。JesusとJapan、つまりキリスト者としての自分と、日本人としての自分です。

この二つは、当時の内村にとって、決して両立しやすいものではなかった。

でも内村は、両脚が引き裂かれるようなことがあっても、この二つを同時に守り抜こうと決意した。

松岡さんはこれを「二項同体」と呼び、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」へとつながる、ひとつの思想の流れとして読んでいました。

デカルト的な二分法、白か黒か、AかBかに切り分けていく西洋的な思考への、対抗として、です。

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僕がここで大事だと思うのは、「二つの気持ちがあってもいい」から、さらに先へ進んでいることです。

「両方あってもいいよ」というのは、葛藤している人を許してあげるための言葉です。繰り返しますが、それはとても優しい言葉だと思います。

でも、内村の姿勢は、さらにもっと切実です。

どちらかを捨てれば、楽になるかもしれない。それでも、どちらかを捨ててしまえば、自分が大切にしている何かを完全に損なってしまう。だから捨てないし、裂かれても、決して捨てない。

「あってもいい」ではなく、「どちらも捨てられない」。

葛藤というのは、未熟さのことではなくて、二つの大切なものを、同時に手放さないでいられる状態のことなのかもしれないなあと。

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もうひとつ、最近読んだ匿名の文章も、なぜかとても強く印象に残っています。

娘さんが美容整形をすると決めた、ある親御さんの文章です。


娘の人生は娘のものだから、と送り出す決断はできている。だから娘が望む整形には賛成。でも、小さい頃から変わっていない横顔が変わってしまうことが、どうしようもなく寂しい、と。

きっと、この親御さんにとっては、娘が自分の人生を選ぶことも、小さい頃から見てきた顔がかけがえのないことも、どちらも本当なんですよね。

「娘の自由を尊重しよう」という結論を出したからといって、後者の大切さがなくなるわけでは決してない。

決断はできても、葛藤が終わるとは限らない。

そして、ここに松岡さんの「面影」という言葉を重ねてみると、もう少し見えてくるものがあります。

この親御さんが寂しがっているのは、たぶん、娘さんの顔の形が変わることだけではない。その横顔に重なって見えていた、幼いころの娘の面影、その一緒に過ごしてきた「時間」のほうなんですよね、きっと。

あの横顔は、今ここにいる娘の顔であると同時に、もうそこにはいない幼い娘が現れる場所でもあった。松岡さんの言う「ない」のに「ある」という面影の本質が、ここに見事にあらわれているわけです。

もちろん、「整形しても面影は残るから大丈夫」と慰めれば済む話ではありません。

でも、面影が立ち現れるきっかけそのものが変わってしまうからこそ、寂しいんだと思います。

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そう考えると、冒頭の不登校の話にも、そのまま戻れる気がしています。

「行ってほしい」と願ってしまう親の願いは、いったい誰に向いているのか。

僕は、元気で学校に通っていた頃の、その子の面影に向いているのだと思います。

一方で、「行かなくていいよ」のほうは、今ここにいる子どもに対して向けている言葉。

つまり、二つの気持ちは矛盾しているというより、二人の子どもに向いている。かつての子どもと、今の子ども。どちらも本当にいた子どもで、どちらも本当に大切な我が子です。

松岡さんの文章には、「すべてを進捗させないで」という一節もありました。

受け入れたんだから、気持ちのほうも前に進めなさい、とは求めない。送り出したあとにも、立ち止まったり、以前の姿を思い出したりしていい。

あの整形の親御さんが匿名で文章を書いたのも、きっと、そういう「思いの場」を求めていたからなんじゃないかなと。

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ここまでの話をまとめると、中里さんの不登校の話も、映画『時には懺悔を』も、娘さんの整形が寂しいという話も、三つの話をつなぐ問いは、少しずつ形を変えてくる気がします。

それは、「どうすれば矛盾を解消できるか」ではなく、「矛盾を解消したら、失われてしまう大切なものとは何か」。

葛藤そのものを美化する必要はまったくないと思います。葛藤は、単純に苦しいから。

でも、葛藤を「未熟さ」や「偽善」として取り除こうとした瞬間に、その人が守ろうとしているものまで、一緒に取り除いてしまうことがある。

ここが今日僕がいちばん声を大にして伝えたいポイントです。

そもそも「偽善」というのは、善いふりをして、中身がないことを言うわけですからね。

でも、「行かなくていいよ」と言いながら「行ってほしい」と願っている親には、中身がないどころか、願いがちゃんと二つある。

これは偽善ではない。二つの甲乙つけがたい善が、ぶつかりあっているだけです。

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で、現代であればこの問いを、もしAIにぶつければ間違いなく、矛盾を整理して、切り分けて、一刀両断してくれるはず。それはAIがいちばん得意なことです。

そしてこれからは、誰もが手元になんでもキレイに腑分けしてくれるパートナーを持つことになる。

「私は偽善者でしょうか」と打ち込めば、たった数秒で「あなたは偽善者ではありません。その理由は三つあります」と返ってくるような時代です。

でも、葛藤の深さには、その整理が一拍遅れる。整理されたあとにも、こぼれるものがある。

そのこぼれたものを一緒に見つめて、「まだ捉えきれないよね」と言い合える生身の人間と過ごしたその時間のほうがきっと大切であるはずで。

矛盾を解消してくれるAIのようなパートナーが誰の手にも渡った今、矛盾を解消しないまま共に持って居られる時間や空間のほうこそが、逆説的にこれからのいちばんの価値になる。

僕は割と本気で強くそう思っています。

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これが先日の「まだ正しくなっていない言葉を、置ける場所をつくりたい。」のブログの話にもダイレクトにつながります。

参照:まだ正しくなっていない言葉を、置ける場所をつくりたい。

今日の話を経由すると、このブログに書いた「未完成である権利」が、もう少し深くできる気がしています。

このときの僕は、どちらかというと、「いつか矛盾のない、正しい人間になるまで待ってもらう権利」のようなものを考えていました。

でも、それだけではないんですよね。

それを、まだ受容が足りない、まだ成長が足りない、と判定され続けるのは、やっぱり苦しい。

だから「未完成」という言葉のなかには、いつか完成することを約束しなくても、ここにいていい、という意味まで含まれているのだと思います。

ものすごく変な言い方ですが、未完成が100%完成している状態。

宮沢賢治風に言えば「永遠の未完成、これ完成なり」です。

同時に、あの記事で書いた「丁寧に耕す」という言葉も、ここで効いてくる。

否定的な感情があることを認めるのと、その感情をそのまま相手にぶつけるのとでは、まったく意味が違います。

寂しさを消し去れなくても、その寂しさをどう語り、誰に聞いてもらい、目の前の相手とどう接するかは、僕らは自らの意志で変えていける。

葛藤を抱えたまま、その面影を大切にしたまま、相手を傷つけずに関われるようになること。それもまた、成熟するということなんだと思います。

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「私は偽善者でしょうか」と自分を裁くしかなかったひとが、「どちらも、自分の気持ちなんです」と話し始められる場所。そして、その先を一緒に考えられる場所。考えるというか、黙って共に抱えて居られる場所。

僕がWasei Salonでつくりたいのは、そういう場所なんだなと、今回改めて思いました。

非常にややこしい話を書いてしまった自覚はあるのですが、なんとか今日のお話がみなさんに伝わっていれば幸いです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。