最近、養老孟司さんの『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』という本を読みました。
15年前に書かれた本であるにも関わらず、まさに「いま起きていること」が、そのまま書かれてある。
この本の中で養老さんは、インターネットには「呪い」が書かれてあると言います。
養老さんが、言葉と「現実」の関係をあらためて考えるきっかけになったのは、メールで「死ね」と書かれて、それを真に受けて自殺した小学生のお話だったそうです。
「死ね」とは呪いの言葉で、いまの世界、とくにインターネットやメールの中身は呪いの言葉に満ちているという趣旨でした。
言葉それだけでは、決して「現実」ではないはずなのに、です。
なのに、ある局面では、現実そのもののように効いてしまうし、言葉が現実を動かしてしまう。
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で、話がおもしろいのはここからで、養老さんはこの話から「政治」の話につなげていきます。
現代社会が「呪術」に覆われている例として、養老さんは選挙の「投票行動」を挙げるんです。
少し本書から引用します。
呪術が現代社会を覆っていることを、私もつとに指摘してきたからである。たとえば投票行動である。新聞は投票に行けというが、エンピツで紙になにか書いて箱に入れ、それで世の中が変わる。そういう考え方って、お呪いと似たようなものじゃないか。そう書いてきた覚えがある。
これはずいぶん乱暴な意見だということはわかっている。でも現在の問題は政治システムを動かせば済むという話ではなかろうと、私はいいたいだけである。
ご本人も乱暴な言い方だと断っているけれど、でも、この感覚って今やっぱりものすごく大事だと思うんですよね。
もちろん、ここでは投票が無意味だと言いたいわけじゃない。
たぶんむしろその逆で、「政治システムさえ言葉で動かせば済む」という発想それ自体が呪術っぽいと語ってくれている。
エンピツで紙に何か書いて箱に入れたら、世界が変わると信じている。
もちろん、変わる部分もあるかもしれない。けれど現実はそんなに、単純じゃないわけですよね。
とくに第一次産業、農業みたいな領域は、どれだけ一般論を語ってみても、現実は変わらない。誰かが現場で具体的に働かなきゃ、そもそも仕事が成り立たない。
この当たり前を、養老さんはここで僕らに伝えてくれているように思います。
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で、さらにここで話は終わらない。
言葉で動くのが人間である以上、言葉が過剰に力を持つのは、ある意味、必然でもあると同時に教えてくれるんですよね。
だから世の中には「クレーム」が生まれるのだ、と養老さんは続けます。
こちらの話も非常におもしろいです。再び本書から引用しておきます。
その意味でいうなら、現代社会は言葉が当為という面で力を持ちすぎている。はっきりいうなら、文句をいえば済むと思っているのである。「こうすべきだ」「ああすべきじゃないか」。だから挙句の果ては、極端なクレーマー、モンスターと呼ばれる親や患者が出現する。べつにかれらは暴力を振るうわけではない。言葉で文句をいうだけである。いわれたほうも、その文句に従う義理はない。でもふつうはアッケにとられて、反論できなくなるらしい。「死ね」といわれていわば素直に死ぬというのは、たとえ子どものことだとしても、奇妙だというしかない。それはいまでは言葉が強く呪術性を帯びたからとしかいいようがない。
こちらも、本当にそうですよね。
そして、まったく同じような論理で、国会は「法律」を作り続けるのだと。
そんな国会の動向を、養老さんは、まさに「開け、ゴマではないか」と皮肉っぽく語ります。
法律(言葉)で規定さえすれば、世界はよくなると思っているとしか思えない。そのどこに一体「現実」があるのか、と。
国会が法律を作り続けることが悪い、と言いたいのではなくて、「言葉で規定するだけで、世界はよくなる」という信仰がすでに呪術になっている、ということなんだと思います。
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実際、いまのXにはそんな応酬が溢れていますよね。みんなが呪術で戦っているような状態です。
言葉で殴って、言葉で戦って、言葉によるクレームだけで世界を変えられると本気で信じている。
でも、それは呪いであり、お呪い(おまじない)に近いもの。
呪いは悪いほうへ、お呪いは良いほうへ、言葉の効き目が逆さになっているだけで、どちらも「言葉の働き」に頼っている点は同じだと。
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で、ここまで語ってきて、一体何が言いたいかというと、人間は確かに言葉で動くし、動いてしまう。そして、それこそが人間であることも間違いない。
だからこそ、言葉には圧倒的な力が宿る。
ただし、問題は「自分、つまり人間がそういう存在だ」と本気で理解している人がどれだけいるのか、なんですよね。
養老さんも、以下のように続けていました。
結論を先にいえば「人間とはそういうもの」、つまり「呪いやお呪いで動くもの」なのだけれども、問題は「人間とはそういうもの」すなわち「自分とはそういうもの」と本当に思っている現代人がどれだけいるのか、ということなのである。ほとんどの現代人は、自分が近代合理主義者だと思っているに違いないからである。
ここは本当にグサグサ刺さる話だなと思います。
現代人の大半が、自分は理性的で合理的だと思っている。だから、選挙にもちゃんと行く。それが近代合理主義的な正しい態度として。
でもその実態は、言葉という呪いだけで世の中を動かそうとしているに変わりない。
このギャップに無自覚なままだと、言葉の呪術性に見事に飲み込まれてしまうということです。
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で、ここから話はガラッと変わるのですが、最近、全然別の文脈で、言葉の受け取り方について考える機会がありました。
そのとき、ふと思ったのは、ポジティブワードのふりをした悪口って、世の中にいっぱいあるよなあということです。
褒めているふりをしながら、でも実際には、実は相手のことを貶しているというような。
なんなら、ポジティブワードの9割が、基本的にそういうニュアンスを含むのかもしれない。
自分も言われたことがあるし、相手に対して言ったこともある。もちろん悪意はない。ただの事実の認定のつもりだったりもする。
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で、だとすれば、ハッキリ悪口を言ったほうがいい、みたいな話にもなるわけです。
それこそが優しさだ、という方向性もあり得る。
つまり露悪的になっていく。それもひとつの正解で何も間違ってない。
でも一方で、オブラートに包むことが、人間関係を円滑に育ててきたのも事実です。
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で、そのうえで、僕が京都のいわゆる「いけず文化」が好きなのは、ここなんですよね。
京都のいけず文化のすごいところは、相手が何を言おうと、
「そもそも全部悪口だよ、もともと」
そんなふうに価値観を一挙に反転させるわけです。
そうすることで、すべては受け手側の解釈に委ねられる。言われた側は、どっちに受け取ってもいいわけです。
またコミュニケーションを取っている京都人同士も、お互いにそう思い合っているから、自然と相手の言葉ではなく、自らの脚下照顧が促される。
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つまり「いまの言葉を、どう受け取りたいのだろう、私は」と、判断軸が自分になる。
これって本当に生きる知恵だなと思うのです。
全然伝わらないかもだけれど、というか伝わらないからこそ、「いけず文化」って呼ばれちゃうんだろうけれど、本当は、こっち、なんだと思うんですよね。
「ポジティブな言葉を、ポジティブなまま受け取って、流そうと思えば流せたのに、にも関わらず、流せなかった自分がいる」
この気付きや発見、その驚きは、徹頭徹尾、自分の主観側の問題なんですよね。
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ここまで来ると、先ほどの養老さんの話と見事につながってくることも理解してもらえるはずです。
言葉は「呪い」であり、「お呪い」でもある。
つまり、言葉の呪術的効果に対して自覚的になることが大事なんだと思います。
その呪術的効果をどう扱っていくのかは、自分次第。
つまり、京都のいけず文化は、言葉は呪いであることをちゃんと理解している人たちの、ある種の防御反応みたいなものだと思うんです。
さすが、本当の意味で言葉が「呪い」として共通認識されていた時代から、連綿と続いている文化が今も存在している町です。
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現代人の多くは、言葉を「プレゼント(善意)」か「ナイフ(悪意)」のどちらかに固定して受け取ろうとしてしまう。
だから、ポジティブなふりをした悪口に対して、深く傷ついてしまう。
でも、京都のいけず文化のOSみたいなものを自らに導入をすると、その受け取り方がガラッと変わる。
「どうせ全部、裏がある。(つまり、言葉はすべて呪いである)」
こう開き直ることで、「さて、この呪いを私はどう料理してやろうか」という脚下照顧の余白が生まれてくるわけです。
相手の言葉に直接触れずに、一度フィルターにかけて解体してから自分の中に受け入れる。
これはまさに、言葉の暴力に溢れた現代における「生存戦略」とも言えるかと思います。
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最後に、言葉が「呪い」として機能しすぎてしまうのは、僕ら人間側が「言葉=世界そのもの」だと思い込んで、物理的な手触り感を、完全に忘れてしまっているからなのかもしれない。
でも本来の現実というのは、「言葉の届かない領域」のほうであり、自分の中にその領域をちゃんと持っているかどうかが、呪術に飲み込まれないための防波堤になるのだと思います。養老さんがよく語る、参勤交代や自然との触れ合いみたいな話です。
今日の話は、言葉こそが世界だと思っている人には、何の話かまったく理解されないかもしれない。
それでも、いま、とても大事なことだと感じたので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
