最近、よく語られる話のひとつとして、一年前に比べたら生産性は上がっているはずなのに、AIがそれを凌駕する勢いで日々進化しているから、ずっと遅れている感覚があるという話があるなと思います。
そして、この感覚に対して「赤の女王仮説」とも言及されていて、その視点にもとても納得感がある。
具体的には、自分は全速力で走っているのに、周りも同様に全速力で走っているから、結局ずっと同じ場所にとどまってしまい、足を止めた瞬間に、すべてが終ってしまうように感じてしまう。だからこそ、全速力で走り続けなければならない、というあの感覚です。
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ただ、僕は最近、もっと根っこの部分として「生産性」という概念自体が大きく変わってしまったのではないか、と思っています。
逆に言えば、これまで一体何を「生産性」だと僕らは考えさせられていたのか。
そして、AIが遍く広がった後の人間の生産性とは一体何か。その前提から問い直さないと、AIと一生不毛な争いを続けることになってしまう。
そして、そんな新しい生産性は関係性や共鳴、場づくりの側にあるなと思っています。
今日はそんなお話になります。
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この点に関連して、一昔前は「自分語り(笑)」みたいな風潮が間違いなくあったけれど、もう人間に残っているのって、よくも悪くも、そんな「自分語り」だけになってきているよなあと、最近強く感じるんですよね。
具体的には、自分の身体が存在することによって、沈殿している記憶や思い出のようなものを他者と共有すること。これは絶対にAIにはできない。
自分は、先日書いたブログの中で初めて、高校時代に付き合っていた彼女の話を書いてしまったけれど、(ずっと書いてこなかった)まさにそのようなイメージです。
それぞれの人間の中にある、そういう記憶の古層に眠っているもの、でもなぜか繰り返し思い出してしまうもの。
それを丁寧に掘り返してきて、「なぜ繰り返し、私はこれを思い出してしまうのか?」
そんな「もののあはれ」の正体を自らに明らかにして、その正体によってお互いに共鳴し合うこと以外、人間にはもはややることは残っていないとさえ思います。(そして、それはどこか精神病なんかにも近い)
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そもそも、なぜ人間がコンテンツを必死でつくっていたのかと言えば、この「もののあはれ」を共有するためだったのだ、とも言えるはずですから。
だとすれば、大量生産の速度でAIに勝つことじゃなくて、共鳴できる相手と、共鳴できる場を、これからはどれだけ育めるか。
そこに「生産性」の軸足が移っていくのは至極自然な流れだと思います。
一方で、従来の生産性は、どれだけ多くのことを、どれだけ早く「正解」に辿り着くかが重要だったわけです。
でも、これからの人間に求められる生産性は、 どれだけ深く、どれだけ固有の「問い」を分かち合えるかに移り変わってきているんだということです。
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とはいえ、僕らは、唐突に始まる「自分語り」には耐えられないわけですよね。
「なぜ、今そんな話を聞かされているの?」となってしまう。だから鼻で笑われる。
つまり、唐突な自分語りが敬遠されるのは、そこに「共通の補助線」や「共通の依り代」がないからだと思うのです。
端的に言えば、あまりにも個人的すぎるわけです。
で、だからこそここで「読書会」がひとつの有益な手段なんだと思います。
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この点、先日オシロの代表であるスギヤマさんが、ご自身の連載の中でWasei Salonの読書会について紹介してくれていました。
ここで紹介してくださったのが、Wasei Salon内で開催されていたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の読書会のお話です。
「カラマーゾフの兄弟」は非常に長い長編小説であり、光文社古典新訳文庫で全5巻あります。Wasei Salonの中でも、5回に分けて読書会が開催されました。
で、これだけの長編作品をずっと一緒に読んでいると、小説の舞台に共に旅をした感覚、そんな旅の同志になる感覚があったなあと思うのです。
フィクションではあるけれど、実在する過去の空間、そんな「あちら側」に行って、一緒に「こちら側」に帰ってくる、まさに旅や留学をともにした感覚に近い感覚が得られるなあと。
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そして、みなさんもきっと人生の中で何度か経験したことがあると思うけれど、そんな旅のあいだ、移動中や寝る前など、そこで語られる「自分語り」はなぜかすんなりと聴けてしまう。あの不思議です。
それは時間的・空間的に強制的にともにしていることも大きいと言えば大きいのだけれど、それ以上に、同じものを見て、同じ「もののあはれ」を感じ取っているからだと思うのです。
具体的には、旅先の「景色や「風景」、「食べ物」や「ひと」との出会いなどです。
それらが引き金となって、自然と自分の中の記憶が立ちあがる。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の中に出てくる有名なマドレーヌの場面みたいに、です。
紅茶に浸したマドレーヌの味と香りが、幼少期の記憶を、自らの意志とはまったく別に、一気に立ち上げてしまう。
それと同様で、旅の仲間と一緒に旅先でそんな「お茶の時間」みたいなものを囲むと、確かにそんなこともあるかもね、ってなるわけじゃないですか。
日本の和歌や俳句なんかもきっと、同じような効果や効能があったのだと思います。
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言い換えると、長大な物語を共に読み進める過程というのは、参加者の間に「共通の原風景」を強制的に作り出してくれる効用があるのだと思います。
だからこそ、そこから派生する「実は自分も…」という「自分語り」的な告白も、単なる露出狂的な自分語りなんかではなく、物語の続きを補完するような、お互いに意味ある価値ある「対話」へと昇華されていく。
このような感覚は、AIとの対話では起こり得ない。身体性を伴う人間だからこそ起きることだと思います。
旅も共通の読書体験も、同じ時間や空間をくぐった感覚、その身体性の変化のほうだから。
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ということで、今日語ってきたように、これから生産性の概念が大きく変わっていくとすれば、今すでに共にいる人たちといっしょに、いかに豊かな関係性を築くことができたのかが大事になる。
お互いがそれぞれの記憶の古層の中に宿している「なぜかわからないけれど、ふと思い出してしまう」という「もののあはれ」を互いに提示しあって、共鳴する感覚。
また、同時にそのような味わいを好む人たちにとって、ひらかれた豊かな場を提供できること。
そんな人と人との確かなつながりこそが、本当の生産性に変わると僕は思います。
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お金と時間だけがあって、対話相手がAIしかいない、もしくはSNS上のフォロワーしか存在しないということは、ほんとうに不幸なことだと僕は思う。
「人間関係は面倒くさいから、それで良いんだ」と割り切りたくなる気持ちもわからなくもないけれど、それは対人関係に期待しすぎた結果の裏返しでしかない。
どこまでいっても、ルサンチマン。引きこもっている人ほど、本当は人が大好きだったりするのと同じことだと思うのです。
逆に言えば、今このタイミングでAIの恩恵を受けて、切りたい人間関係のほうが多いひとは、ものすごく危機感を持ったほうがいいんだろうなと同時に思います。
むしろ、このAIという手段の登場によるボーナスタイムを用いて、どうやっていま一緒にいるひとたちと、これからも変わらずに、共にいることができるのかを必死に考える。そのためにこそAIを活用していきたい。
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一般的によく語られるような「お互いに走り続けているから、共にいられる」というビジネス業界で好んで用いられる言葉なんかも、僕は半分は賛同するけれど、半分は間違っているなと最近は感じる機会も増えてきました。
確かに、これまでの「生産性」を求められる世の中においては、そうだったのかもしれない。金銭的、時間的制約があるからこそ、お互いが全力で走り続けなければ、共にいることができない。
でも今は、もうそれだけじゃない。そして、AIはここを解決してくれるはずです。
AIで効率化できるところは効率化することにより、より長く、共にいたいと思える人たちと共にいられるようにしていく。
極端な話、どうやって全力で走れなくなったひとの、病床に足をはこぶことができるのか、そこで、相手の手を握ることができるのかのほうが価値にある。
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なにはともあれ、これまで仕事仲間や同僚、プライベートでつながっていた友人たち、そんな人間関係を「コストだから。厄介だから」とバツバツ切って、それで人生の生産性が上がったと思うようなことは、ほんとうに愚の骨頂だなと思います。
それは、AIの進化に興奮しすぎて、何かとっても大切なものを見誤ってしまっている状態に過ぎない。
このWasei Salonも、どうすれば今のメンバーのみなさんといっしょに、引き続きこの空間をよりよく耕していくことができるのか、そして、この場に立ちあらわれてくる文化や価値観に共感して、新しく入ってきてくれるひとたちのことを歓迎することができるのか、それを考えていきたい。
そのためにこそ、AIをドンドン積極的に活用していきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/02/15 20:21
