何の役に立つのかはわからないけれど、これはいつか何かの役に立つのではないか。
そんな発想のもと集めた材料を用いて、日曜大工的に、いま自分たちに必要なものを作り出してしまうこと、それが「ブリコラージュ」です。
このブリコラージュは、本来は一人で行うものだと思われていると思います。
でも、僕がよく思うのは、ブリコラージュってみんなでやるものなんだろうなってことなんです。
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「これはもしかしたら、自分も含めて誰かの何かに役に立つかもしれない」
そんなものを見つけてきては、働きアリのように、せっせとみんなでひとつの場に、特に意味もなく置いていく。
そして、それがときに誰かに見出されて、ブリコラージュされていく。正しいあり方は、きっとこっちなんだろうなって。
そこには、まず「自分にはわからない」というある意味での謙虚さがあります。でも同時に、私以外の誰かが見出してくれるかもしれないという祈りや、淡い期待でもあるんです。
そんな何に役立つのかもわからないようなものをぼんやりと共に眺めながら、お互いに何気ない対話をすることによって、本当の意味で価値が見出されていく瞬間に出会えるんじゃないか、それもジワジワと。
今日はそんなお話です。
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この点、インターネットの集合知に対する初期のころの期待って、そんな共同創作敵なブリコラージュにあったように思います。
みんなが少しずつ何かを持ち寄って、そこから予想もしなかった新しい価値が生まれるかもしれないという、そんな淡い期待が間違いなくあったはず。
しかし、今のTwitterをはじめとするSNSを見ていると、そういった期待とは裏腹に全く別の現実が広がっています。
具体的には、「こんなものを、ここに置いたのは誰だ!」という話にすぐになる。
とにかく、他人が置いたものが、気に食わない。
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「これを見て傷つく人がいる」とか「気分を害する人がいるかもしれない」とか、すぐにそうやってマイノリティ憑依をして、自分が気に入らないものを徹底的に排除したがる。
そのロジックを用いたら、本当になんでもそうやって、カンタンに排除できてしまう。文句をつけたもの勝ちになっている。
その場に見に来た人間の「視聴者責任」や「フォロワー責任」みたいなものは、一切そこには存在しません。
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これは最近、常々言及していることではあるのですが、今は本当に「受け取り方のマナー」のほうが大事な時代だなと思うのです。
そのマナーを他人に強要するのではなく、そのマナーの価値観が近い人たち同士で一つの場に集まること。逆に言えば、その受け取り方のマナーこそが集まる場の旗印になっている。
たとえちょっと攻めたものや、きわどいものであっても「これは決して悪意があるものではない」そのことをその場にいる全員が、しっかりと認識していること。
そういうルールで回っているという認識や前提を、その場にいる全員が共有していることが大事なんだろうなあと。
そうすれば、きっと「こんなところに、こんなものをおいたのは誰!だ」って怒るんじゃなくて、「これは私に贈られたものだ」と発見する事ができるようになってきて、大事なのはその姿勢なんだろうなと思うんですよね。
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ここで、唐突なんですが、「沈黙交易」という概念について考えてみたい。
この沈黙交易は、内田樹さんがご自身の著書の中で、何度も言及しているような概念です。
具体的に 「沈黙交易」というのは、交易の起源的形態であって、ある部族と別の部族の境界線上にぽんと物を置いておくと、いつのまにかそれがなくなって、代わりに別のものが置いてある、という、交易相手の姿も見えずに、言葉も交わさない交換のことである、と。
そして、内田さんの考えでは、この沈黙交易こそが交換の本質的・絶対的形態であると語るんですよね。
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で、この沈黙交易の考え方は、今日語ってきたような現代のオンラインのやり取りにも適用できると思っていて。
いまは、公の場に何かを置くと、たとえそれが自分のタイムライン上であっても、怒られたり注意されたりするどころか、いともカンタンに炎上させられる。
一度誰かの逆鱗に触れると、自分の家族や職場など、ありとあらゆる自分の接続性のあるところに通報が行く。そして全員の後味を悪くしてでも相手を抹殺しようとするわけじゃないですか。
そして、その流れはきっともう避けられない。実際にそうしないと、これだけ荒れ果てたインターネット上ではことが収まらないわけですから。
でも、そうじゃなくて、僕は、沈黙交易をしているようなイメージで情報を共有をすることができないのかなって思うのです。
「これは確かに危ういし、怪しいし、ともすればヤバいものかもしれないけれど、なぜか私はこれに『真・善・美』の片鱗みたいなものを見出してしまって、持って帰ってきてしまった。こっそり置いておくので、見たい人だけみてください」と。
それがネット上における沈黙交易だと思うんです。
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で、内田さんが沈黙交易を語るとき、往々にして「贈与」の話に発展させていきます。
それは過去に何度もご紹介してきた「贈与は、贈ったときではなく、受け取ったときにその受益者が認識して、初めて贈与となる」というあの話です。
だから、沈黙交易においては、たまたまその場に置かれていたものに対して「これは私への贈り物かもしれない」と思える人間が、最初の贈与の受益者になるというわけです。
そしてそこに、返礼義務を感じた人間が、再び色を付けてそこにまた別のものを返すのだと。また、それを別の人間が拾うことにつながっていく。つまりは、ペイ・フォワードですよね。
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そして、こちらも変な話ですが、そういうものをそこに置いていく人も「できれば見ないでね」ぐらいに思っているはずなんです。
だって、もし自信満々で見つけて誰もが欲しがるものであれば、より多くの人の目に届きそうなところに、堂々と自分の手柄として置けばいいんだから。
でも自分でも、玉なのか石なのか、いまのところはまだ自信がない。そして仮に玉であったとしても、その活用の仕方がまだ自分のなかではっきりしない。だからこそ、誰かが通りそうなところにそれをこっそりと置くわけです。ある種の祈りを込めて。
またここでおもしろいのは、そうやって「できることなら、見ないでね」って言われたもののほうが見たくなるんですよね、人間は。
で、まんまと見つけて拾ってしまう人間がいるわけですが、そこで期待が裏切られたり、不快な気持ちになったりしても、それは「見るな」と言われているにも関わらず、自ら能動的に見ているから、「けしからん!」という話にはならない。
置いた側も「だって、私は見ないでねって言いましたよね」というある種のエクスキューズをすることができる。
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そもそもブリコラージュって、その時点では一体何の役に立つのか回目検討もつかないから、その時点ではそれは「ガラクタ」なんです。
でもガラクタだけど、何か感じ入るものがあったということ自体が大事なはずで。
つまり物自体よりも、そのそれぞれの直感のほうが僕は大事だと思うし、共有するべきもその直感の片鱗だと僕は思います。
それをまた発見者以外の第三者が、意味を見出して付与してくれるかもしれない。
そのある種の錯覚を、アリが自分の体よりも、大きいのに、どう考えても価値のなさそうなものを引っ張るようにしながら、巣(コミュニティ内)に持ち帰るみたいにして。
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それが、まさに沈黙交易からの贈与の話につながると思うんです。
そこに置かれたものは、別に私のために置かれたものではない。でもそれがみんなで大事にしている場だと互いに認識しているから、ちょっとだけ目を凝らして「私はここから何かを学べるかもしれない」と思いながら、その場を意識して通り過ぎようとするはずです。
その「意識」というか「アンテナ」みたいなものが、きっと大事なのだろうなあと。
そうやって、私宛ではないかもしれないものに対しての、贈与を受け取る「主体」に私自身がなれること。それがブリコラージュの本質のような気がする、ということを強く伝えたくて今この文章を書いています。
そのためには、置いた人間にも「決して悪意はない」という前提が共有されていること、その前提を全員が共有していて「受け取り方のマナー」がめちゃくちゃ大事になる。もちろんゾーニングなどの敬意と配慮も、大事になると思います。その両者が存在して、初めて実際に立ちあらわれて来てくれる「場」だと思います。
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繰り返しますが、ブリコラージュって、決して自分一人でできるものではないと思っています。
これにはもしかして「真・善・美」が含まれているかもしれない。本物かガラクタか、それは今の自分にはわからないけれど、これがなぜか私の目についた、心を打った。
そんなふうにして次に贈ること。それは「未来の私」に対しても同様です。
だからここに、ひっそりと置いておきますという節度を求められる。
本当にそれはただただスルーされるかもしれないし、誰かが目をつけて「あー、これにはこんな見方やあんな見方ができるのでは!?」という新たな視点を与えてくれるかもしれない。
「その素材をこうやって活用すればいいんだ!」みたいな発見をお互いに得られるわけです。
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そして、またその後は、またしばらくテキトーに放置されて、一定の時間が経過し、また数年後に新しい人がその沈黙交易の場を通りかかって、また掘り返してくれて、それがきっかけに話題が広がっていく。
先日、Wasei Salonの中で開催されていた、仏教の唯識の思想のイベントなんて、まさにそんなイベントだったなあと思いながら、僕はアーカイブを眺めていました。
今日語ってきたようなスタンスが、いまの時代に僕らが目指すべきインターネットを起点としたやり取りだと思ったので今日のブログにも書いておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2024/09/01 21:10