キリスト教の牧師でもあり、抱樸の代表でもある奥田知志さんのお話を、ときどきYouTubeで聴くのですが、奥田さんが以前「私の傷は私の傷であると同時に、イエスの傷でもある」というお話をされていました。
僕は、それを聞いて「なるほど!それは強い!それは強いぞ…!」と思ったことがあります。
もちろん、これは実際にその通りなんだろうなあと思っていて、聖書を断片的に読むだけでも、イエスがどれだけ苦しんだのかが伝わってくるし、あの苦しみがあるから「あなたの傷は、すべて私の傷だ」と言えてしまうイエスがそこにいることにもなる。
その包摂力はあまりにも強力すぎるし、これはイエスにあってブッダにはないものだなあとも思います。
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で、現代社会は、猫も杓子もケア、ケア、ケア…ケアが大ブームの世の中です。
じゃあ、このブームの根源にあるものは一体何なのか?
それはきっと、「神の子イエス」の存在を求めているということなんだろうなあと思ったんですよね。
これだけでは、一体何の話をしているのか全くわからないと思うので、今日はそんなお話を順を追って丁寧に説明してみたいなと思っています。
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この点、なぜ今の多くのひとがケアを求めるのか。まずはそこから考えてみたい。
きっとそれは私の傷が理解されていないと思うから。あまりにも多様性が一気に進みすぎて、そもそも私の「傷」が他者から見えなくなってしまっているわけですよね。
そうじゃなくても、大衆というものがドンドン解体されていき、「大きな物語」を共有できなくなってしまったわけですから。
そもそも、傷って「絶対的なもの」というよりも、物語の中で相対的に生まれてくるわけですからね。大きな物語がなくなれば、お互いに傷がまったく見えなくなるのも当然のこと。
だから多くのひとが、「私が大事にしたいものを、共に大事にしてくれるひと」を求めていて、これが今のケア論の大ブームの要因だと僕は思います。
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そうなると、そんな世界における救世主は一体どんな存在になるのか、と言えば「私の傷を理解し、かつそれをケアしてくれる(ケアできるだけの能力がある存在)」になるはずです。
たとえば、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの臨床心理士・東畑開人さんの本が、これだけ人気であることも、それが理由だと思っています。
たくさんの臨床経験を経て、多種多様な人々の「傷」を現代においてもちゃんと理解し、そこで得られた知見の言語化も非常に卓越していて、かつ、それをケア(治療)できるだけの力を持っている「臨床心理士」であるということ。
理解し寄り添ってくれるだけでなく、それを正しくケアもしてくれそう。なんなら治療さえしてくれるんじゃないか。そんなノウハウを持っているんじゃないか。この二重性が、東畑開人さんを注目したくなる理由だと思うんですよね。実際、僕もそのひとりです。
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で、この点、以前読んだ社会学者・大澤真幸さんの『資本主義の<その先>へ』というの本の中に、今日の話に関連して、ものすごくハッとさせられる話が書かれてありました。
それが何の話なのかと言えば、キリスト教における「三位一体説」のお話です。
「父なる神、子なるキリスト、聖霊」これら3つは、本質的に一体であり、唯一の神の3つの現れ方とされているというのが一般的に語られるこの説の内容です。
でもそれがどうした?よくわからないぞ…?って多くの日本人は思うはずであって、三位一体説って、いつも本当にわかりにくい話だなあと出てくるたびに僕は思っていました。
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大澤さんは、この教義を難しくしているのは、実は「子なるキリスト」だと語ります。
そして、神と聖霊の二つだけであれば、理論的な困難はほとんどないと言います。聖霊というのは、信者たちの共同体のことだと考えればよいのだから、と。
その共同体の連帯は、信者たちが共通に信じている神において表現されている。そう考えれば、聖霊と神は同じことの二つの側面だということはすぐにわかります、と本書で教えてくれます。
そして重要なのは、ここからの話であって、勘の良い方には以下の部分を読めば、今日の話ともダイレクトに繋がってくることが、すぐにわかるかと思います。
少し本書から引用してみますね。
しかし、そうだとすると、「子なるキリスト」はどうして必要なのでしょうか。私は、ここにはある洞察が込められていると考えています。信者の共同体が真に普遍的なものになるためには、つまり共同体が誰をも迎え入れうるような無限の包摂性をもつようになるためには、子なるキリストが導入されなくてはならない、と。一方で、キリストは、私たちと変わらないひとりの人間です。福音書は、キリストが人間たちの中に入り、ともに苦しんだことの記録です。他方で、キリストは神でもあります。十字架の上で亡くなったのは、ほかならぬ神だった、と見なくてはなりません。
キリストは、まったき人間にいてまったき神である、という不可能な二重性です。
この説明を通じて、本書では、「なぜ医師である中村哲さんは、アフガニスタンに入り、現地の人々に受け入れられて、あれだけの大事業を成し遂げることができたのか?」という理由が、説明されていきます。
そこには、この三位一体説における「子なるキリスト」と同じような構造があったのだと語られる。
このあたりのくだりは、本当に感動的な解説になっているので、この部分を読むだけでもぜひ実際に本書を手にとってみて欲しいなと思うほどです。
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で、ここでは、この話を冒頭の奥田さんの話とつなげてみたい。
そもそも「父なる神」なら、そもそも傷つかない、だって全知全能なんだから。
一方で、精霊は、人間の共同体として表現されて、ある種のメディア(媒介者)としての役割だから、傷を理解し、何か直接の作用を人間に及ぼしてくれるわけではない。
でも、ここで神の子であるイエスは違うんですよね。
自分自身が人間として傷ついたことがある、でも同時に神としてケアをすることもできてしまう。
この二重性に、人々はものすごく強く惹かれるということなんだろうなあと。
まさに、最強の存在です。
一方で、ブッダは、「わかるよ」とは言ってくれないわけですよね。ものすごく冷徹で、どこまでもクールなんです。
これはブッダではなく、達磨大師の話ではありますが、弟子の慧可が「私の心は寧らかではありません。どうか安んじてください」と頼むと、達磨大師は「では、心を持ってきなさい。安んじてあげよう」と答えたと言います。
慧可大師は「心を求めましたが、得ることができません」と答え、達磨大師は「私はお前の為に心を安んじ終わった」とそっけなく言うわけですよね。
仏教はいつだって、こういうロジックを用いてその仏法を説く。「つまりそれはお前の幻想だろう
」ということをひたすら言い続けるのが、仏教のスタンスです。
全然、ケアなんかしてくれない。
いや、実際にはちゃんとケアしているだけど、そのアプローチが全然違う。まさに「包摂の中の否定」状態なんですよね。
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一方で、親鸞はそうじゃなかった。
その弟子の唯円との間の有名な会話にあるように「念仏を唱えていますが、心から喜ぶ気持ちが湧いてきません。また、早く浄土に行きたいという気持ちも起こりません。これはどうしてでしょうか。」という唯円の嘆きに対して「自分も全く同じで、煩悩に悩まされている」と語り返すわけですよね。
そこから、煩悩に満ちた凡夫であるからこそ、仏の救いが必要なのだと語ってくれる。
そして、阿弥陀の本願のような一神教的な解釈を、仏教の中につくりだしてしまった。
つまり、阿弥陀だけでもダメで、親鸞がいないといけない。しかもその親鸞も格式高い僧侶ではなく、非僧非俗の凡夫であることが重要なんです。
そんな親鸞が居ないと、民衆の「傷」を理解してもらえないから。ケアしてくれる親鸞がいるから、人々は阿弥陀の本願、つまり他力本願を、本当の意味で頼ることができるようになるわけです。
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これは、イエスが処刑される瞬間に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」)」と言った、というあの話と構造としては非常によく似ているなと僕は思います。
一見するとおかしな話に聞こえるのですが、この言葉もまさに「イエスがまったき人間だった」証のような言葉です。人間の「神を信じたくても、信じきれない気持ち」を見事に代弁してくれている。
イエスは死ぬ直前に、この言葉を口にすることによって、親鸞が唯円の「傷」に寄り添うように自らの迷いを告白したように、イエスも人間に対して「信じれない気持ち、俺もわかるよ」というような形で結果的に寄り添ってくれているわけです。
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そして、神の子イエスの場合は、ケアどころか、治療もしてくれる(かもしれない、なぜなら神の子だから、神は全知全能だから)。
つまり、親鸞と阿弥陀を合体させたような存在になり得る。それがすごいことだと思うんです。
たとえ何も語らないイエスであっても、例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれている大審問官のシーンのように、キスひとつで相手にわからせてしまえる力なんかを持っているし、遠藤周作の『沈黙』のように、本当に何も返答せずに沈黙し続けるということも、可能となるわけです。
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そもそも「沈黙」しているイエスに対して、戸惑う人間側が一体なぜ戸惑うのか、を考えると、
その心のうちは「あなたは、あれだけ傷ついたじゃないか、だとしたら私の今この置かれている状況だってきっと理解できるはずじゃないか、この傷があなたに見えていないわけがない」となるわけですよね。
そして「あなたには、この私を救う力もあるはずなのに、なぜ沈黙するんだ!」ということになる。
つまり「この傷を理解し、ケアできる存在なのに、なぜ沈黙するのか、ひどい!」となる、でも途中から「いや、違う…?そこにさえも意図があるのでは」という思考過程を辿ることができるということでもあるんですよね。
「そこにもきっと意味があるはずだ」それが何かを自らに問う、その問う力や勇気さえも与えてくれてしまう。それがきっとイエスの沈黙のすごさ、なんですよね。
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繰り返しますが、神の子イエスには傷を理解し、傷をケアできるだけの能力があると思われている。
そしていま、人々は多様性という正しさの象徴のもとに、ドンドンと無理解と分断が進み、それぞれの隠された固有の「傷」で苦しみ、それが他者にまったく理解されないことに更に苦しむ。
だからこそ、それをケアされたいと願うひとが、こんなにも増えているのではないかと。
この多様性という正義の旗印が「傷」さえも十人十色にしてしまって、他の人からは見えないもの、まったく共感されないものにしてしまった。
そんな中、ことキリストにおいては、まったき人間にいてまったき神である、という不可能な二重性をはらむからこそ、すべての傷を「私の傷である」と共感し、それをケアしてくれちゃうわけです。それがきっと、冒頭の奥田さんの話にも通じる部分。
ここに、ケア論の秘密が隠されているんじゃないのかなあと思ったわけです。
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とはいえ、最後に全部をひっくり返すような話を書いてしまいますが、僕はやっぱりそれでも原始仏教みたいに、どこまで冷徹でクールだと言われていても「一切皆苦、諸行無常、涅槃寂静」みたいな価値観のほうが、個人的には好みです。
それがなぜなのかは、いまいちまだよくわかっていません。
逆に言えば、なぜこのような「傷」と「ケア」の話に対して、なんだかネチネチしているなあと、ついつい忌避感のようなものを感じてしまうのか。
そのあたりは、今後も丁寧に考えていきたいなあと。
たぶん、ここにこそ、自分でもまだ気づかぬ「弱さ」や「傷」みたいなものが隠れているのだろうなあとも一方で冷静に思うから、です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。