ブログやSNSに何かを書こうとして、まだ自分の中で答えが出ていないからと、手が止まってしまうことがあるかと思います。
迷っていることはあるし、考えていることもある。でも、結局自分はどうしたいのか、自分でもまだわかりきっていない。そんな途中の考えを、人様に読んでもらっていいのだろうか、と。
こういうためらいを抱えるひとは、結構多い気がします。Wasei Salonでも、似たような話はよく聞きます。
悩んだ末に何を選んで、実際にどうなったのか。そこまで書けたほうが、読む側にも何かを持ち帰ってもらえそうだし、自分としても納得することができる感じがする。
その気持ち自体は、ほんとうにとてもよくわかるんですよね。
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でも最近、僕はあえてそれを裏返して「問いでつながる、葛藤でつながる」ということがあるのではないかと考えています。
同じ答えに賛同するから、一緒にいるという状態も確かにあります。企業や宗教団体も、同じ目標に向かう仲間や、共通の理念のもとに集まるひとたちが一般的ですから。
でも一方で、まだ答えが出ていない、その人が何かを簡単には割り切れずにいることに触れて、そこから始まる関係性もある気がしているんですよね。
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この点、葛藤を経て紡いだ言葉は、自分を拘束する力を持っているなと、いつも思います。
うまい文章をひとつ書けたからといって、それだけで自分の生き方が変わるわけではない。
でも、失敗や後悔、その葛藤の末に獲得した信念は、次に似た状況に直面したとき、自分の行動を縛るものになる。
「あのとき、あれほど後悔したじゃないか」という強い自分の中の実感が、手触りのある記憶として(なんならトラウマとして)自らの中に残っているからです。
たとえば、相手から返事が来ないとき。「相手にも事情がある」と頭ではわかっていても、不安になって、つい返事を急かしてしまう。あとから事情を知って、あんな言い方をしなければよかったと後悔したりもする。
次に似た場面が訪れたとき、その後悔が、すぐに連絡しようとする自分を止めることがありますよね。
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そんなとき「相手にも事情がある」という言葉自体は、何も変わっていないはずです。誰でも知っているぐらいに、当たり前すぎるほどの当たり前の言葉です。
でも、その言葉の、自分に対する効き方は、以前とはまったく異なっている。
じゃあ、なぜそれが効くようになったのかと言えば、過去の体験があるからですよね。
だから葛藤とは、言葉に重力を与える工程なのかもしれないなと。
その言葉を知っているだけでは、平気で通り過ぎられたはずのところで、自分の足が止まってしまう。
言葉が自分のものになるって、案外そういうことなのだと思っています。
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で、僕はよく思うのですが、「車輪の再発明」という考え方を、そのまま人生の問いに当てはめてはいけないのだと思うんです。
「すでに誰かが答えを出しているなら、それを使えばいい。わざわざ同じことを考え直す必要はない」というよくある言説は、仕事の生産性を高めるうえでは、たしかにその通りだと思います。
でも、先人が散々悩んできたからといって、たとえば僕らはもう「恋愛」に悩まなくていいのか。
人を信じることや、誰かと一緒に生きることについて、教訓を読んで理解したら、それだけで済むことになるのか。
当然そうじゃないですよね。以前もこのブログの中で紹介したことがありますが、『堕落論』で有名な坂口安吾は『恋愛論』という文章の中で、こんなことを書いています。
教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。
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「それをしなければ人生自体がなくなる」というところが、すごく大事だと思うんですよね。
結末がわかっているから、その過程は省略していい。そうやって何でもかんでもドンドン効率化したときに、一緒になくなってしまうものが、たしかにあるなと思います。
言い換えると、AIがどれだけ正しそうな答えを返してくれても、受け取ったばかりの僕らにとっては、まだ重力のない正解であることは、多いのだと思います。
それを自分のものにするには、結局、こちら側が生身の人生をちゃんと生きなければいけない。そこでもがき苦しまなければいけない。
AI時代だからこそ、そうやって自分の人生の問いに向き合うこと。その時間まで、答えを受け取ったことで安易に済ませないことは、かなり大事になってくる気がしています。
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ただ、ここまでの話だと、結局「葛藤の末に、何を得たのか」が大事なのだという話になってしまう。
それでは、やっぱり答えが出てから書けばいい、という話になってしまいます。
僕が最近考えているのは、そうじゃなくて、その途中で起きていることに対しても、もっともっと目を向けたいよね、ということです。
葛藤は、人という器の中で、時間をかけて起きている作用そのものでもあるのだから。
葛藤しているあいだ、人はずっと同じ場所にいるようで、少しずつ変わっていることがあると思います。
たとえば、どちらを選ぶかで悩んでいたら、そもそも、なぜその二択になっているのだろうと気づいたり、誰かと話して、どうしても手放せないと思っていたものを、もう少し違う形で大切にできそうだと思い始めたり。
答えを出せていないこと自体に変わりはなくても、その問いに向き合っている自分は、すでに「最初の自分」とは異なっている。
この、発酵しているような状態の中にこそ、実は、本当の価値があるのではないか。
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あとから振り返れば、あの時間があったから、今の自分がいると思うこともあるはずなんですよね。
でも、それが将来の何に役立つかを、その都度説明できなくてもいいはずで。
迷いながら誰かと関わっているときにも、僕らはすでに、自分の人生の真っ只中にいる。
決断しないと人生は何も始まらない、というわけじゃなくて、その時点ですでに猛烈に始まっているんだよって、僕は強く思うのです。
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そして、この変化は、僕が最近考えている「奥の思想」にもつながる気がしています。
先日、お酒は本音を引き出してくれるけれど、その本音のさらに奥にあるものに触れるには、何が必要なのだろう、ということを書きました。
ただ、この「奥」という言葉は、少し説明が必要で。
「ほんとうにそれが実現できたら、さらにその先で何がしたいの?」と問い続けて、最終的に「火星に行きたい」という願望が出てきたとしても、個人的にはあまり興味がありません。
それだったら、「火星に行きたいと願う私とは何か。その奥にあるものとは?」という問いのほうに、俄然興味があるんですよね。
自分が望んでいることはわかった。でも、そう望んでいる自分を、そのまま前提にしていいのか。
葛藤するときには、自分の願いだけではどうにもならない他者や、自分にとって同じくらい大切なものに既に出会っていることがある。
そして、どちらも大事だから、簡単には片方を捨てられないわけですよね。そこで必死に考えているうちに、最初の願いの意味合いまでが変わってくる。
それは、「上」を探求するというより、「奥」を探求している感覚に近い。
そして、その奥に「これが本当のあなたです」という答えがあって、それを見つけたら、「はい、終わり」というものでもないのだと思います。
探している自分自身のほうも、ガラッと変わってしまうわけだから。
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そんなことを考えていたら、先日書いた「3→5」の話にもつながってきました。
ビジネスの文脈では、「0→1」が得意か、「1→10」が得意か、という話をよくします。
でも、世の中には「3→5」が得意なひとも、たくさんいるはずで。そういうひとたちが力を発揮できる場を、どうやってつくれるのだろうと。
ただ、今考えていることを、もう少し正確に言うなら、「3〜5を行ったり来たりする」ということなのかもしれません。
その往復の中で考えを深めたり、誰かの問いに付き合ったりすることに力を発揮するひともいると思うんですよね。
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5まで行ったと思ったら、また3に戻ってくる。
人を信じることについて、自分なりにわかったつもりだったのに、また信じられなくなる。あれだけ考えたはずなのに、また同じことで悩んでいる。
でも、それは本当に、最初と同じ3なのだろうか、と。
何が言いたいかと言えば、問いそのものは、何度も繰り返しているかもしれないけれど、でも、その問いへの向き合い方まで、まったく同じとは限らないんですよね。
一度得た信念が、自分を拘束する。その信念を持って生きてみると、また別の葛藤に出会う。そこで、その言葉の意味をもう一度考えることにつながっていく。
結果として、以前よりも、簡単には答えられなくなった。そういう問いの深まり方もあると思います。
そのときは、0から1を「生み」出したわけでも、1を10まで「成長」させたわけでもない。
それでも、この往復や反復の中で、確かに「奥」に深まっているものがある。
僕はそこにも、人が人生を生きていることのおもしろさを強く感じるんです。
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そして、このような奥を探求する、深めていくその姿勢でつながることもできる気がしていて。それが今日の僕のいちばんの主張です。
相手が何に立ち止まり、何を簡単には手放せずにいるのかを知ると、こちらの聞き方もまったく変わってくる。
結論だけを聞けば、「もっとこうすればいいのに」と思っていたことでも、その人がそこまでに何を考えてきたのかに触れると、すぐにはそう言えなくなってしまいますからね。
同じ選択には賛成できなくても、その人が選べずにいる理由には、ちゃんと耳を傾けられるはずです。
そして、その話を聞いたこちらも、自分ならどうなのだろうと考え始めて、「自分も似たことで迷ったことがある」と伝えたら、そこからまた、話が転がっていくかもしれない。
その人の話を聞くことで、自分自身の身体の記憶が呼び起こされて、返す言葉や、その後の互いの関わり方までがガラッと変わってしまう。
僕がAIの共感とは違うと感じるのは、まさにこの部分です。
聞いている側にも、生きてきた時間、その人生がある。その経験から得た言葉が、今度は相手に向き合う自分を拘束する。そういう共感には、ちゃんと「重力」が発生しているのだと思います。
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だから、答えの出ていないことを書いてもいいのだろうかと迷っているひとがいたら、僕は、その考えている途中の話も、素直に聞いてみたいなと思います。
むしろ、それこそ人間が書くべきことでもあると思うのです。
外からは何も変わっていないように見える、3〜5の行ったり来たり。その深まり、その奥を探求することにも、明確に価値があると思うし、それを大切にする場でありたい。
そして、その先の長期的な人間同士のつながりによって、思いもよらない道が拓けることもあると思います。
Wasei Salonという場も、そうやって、同じ問いを何度でも持ち帰ってこられるような場所であってほしいなと思っています。
AIが進化すればするほど、逆説的に、この3〜5の行ったり来たり、その深まりや「奥」を目指すことこそが人間だけにできることであって、人間のお仕事そのものになっていくと思うからです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
