昨夜、Wasei Salonで『ハリー・ポッターと賢者の石』の読書会を開催しました。

https://wasei.salon/events/8aabdbb05d4c

きっかけは、先月、福岡に訪れたこと。そのときに開催された飲み会イベントに参加されていたメンバーのしげさんとゆっこさんが、あまりにも楽しそうにハリー・ポッターの話をしていたんですよね。

僕自身、これまで原作を読んだことがなかったのですが、そんなにもおもしろいと言われたら、そりゃ読まなかったら嘘でしょ!と。

帰りの飛行機の中で、早速Audibleで「賢者の石」を聴き始めて、帰ってきてからすぐに読書会を企画しました。

今は、あれよあれよという間に四巻目に突入していて、映画も四作目まで観てしまっている状態で、完全にハマっています。今さらすぎて、ちょっと恥ずかしいぐらい。

せっかくだからシリーズを全部をWasei Salonの読書会で開催してしまおうということで、昨夜はその第一回目でした。

で、昨夜ふと感じたのは、いつもよりも、場の体温が少し高かったような気がするということです。

じゃあ、それは一体なぜだったのか。

今日は、その理由についてこのブログの中で少し考えてみたいなと思います。

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まず、最初のチェックインでは、みなさんに「私とハリー・ポッターとの思い出」について聞いてみました。

そうすると、子どもの頃、長期休みが来るたびに一巻から全部読み直していたというエピソードや、同級生と映画館へ行き誰がいちばん上手に呪文を発音できるか、真似し合っていたというエピソードなとが語られていました。

あと、自分の意志で初めて読み切った本が、この『賢者の石』だったというお話なども。

こういう話を聞けるのが、まずもって、すごくいいんですよね。

普段のコミュニティ活動において接しているだけでは、なかなかお互いに知ることのないそんな子ども時代の話が、ひとつの作品から自然と出てくるのがいいなって。

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一方、僕は当時、この作品には入っていけなかった側の人間です。

映画が公開された頃は、僕自身も主人公たちに近い年齢でした。周囲の大人たちから勧められた記憶もあるのですが、当時はバスケや漫画のほうに関心があって、大人に勧められるほど、逆に読みたくなくなるようなところも正直あった。

だから、みんなが夢中になっているあいだ、僕はその横を通り過ぎてしまったんですよね。

それが四半世紀ほど経って、Wasei Salonのメンバー同士が楽しそうに話しているから、急に読んでみたくなったという感じです。

作品そのものはずっと存在していたのに、自分が出会えるタイミングは、こんなふうに後から突然やってくることもあるんだなあと。

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で、実際に本書の感想をみんなで話し始めてみると、「おとなになってから読むと、全然違って見えてくる」という話が、何度も繰り返し出てきました。

たとえば、スネイプ先生のような存在。

ハリーたちの側に立って読んでいると、自分たちに意地悪をしてくる、嫌な先生に見えてしまう。

でも、おとなになってから読むと、このひとはどうしてこういう振る舞いをするのだろうと、その事情のほうが気になってくるというような。

あと、自分たちに好意的ではないからといって、そのひとが自分たちの敵だとは限らない。

そんなことは、僕らも現実の人間関係の中で、少しずつ知ってきたことにつながるんだろうなあと思います。

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このように、昔は何も感じなかった言葉が、いまは妙に引っかかったりもするわけです。

その変化には、そのひとが実際に生きてきた時間が深く関わっているはず。

ただ、それは子どもの頃よりも正しく読めるようになった、という話でもないとは思っています。

良くも悪くも、メタな視点で物語に触れがちなのが、おとなの性です。様々な事情がわかるようになったぶん、その世界観に入り込むこと自体は難しくなっているのかもしれない。

つまり、おとなになって見えるようになったものも、以前のようには感じられなくなったものも、変わらず好きなところも全部ある。

それを、ひとつの物語を通してお互いに丁寧に対話することができること、それ自体がとっても素晴らしいなあと思います。

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そして、ここが個人的には、とてもおもしろいところなのですが、他人の昔の思い出って、あまりにも個別具体的すぎると、「いや、しらんがな」となってしまうことも多いと思います。

そのひとにとっては、確かにとても大切な思い出なのだろうけれど、こちらは、その場所も、そこにいた友人のことも、その頃のそのひとのことも、まったく知らない。

だから、どこからその話に入っていけばいいのか、わからない。

相手が楽しそうに過去の思い出を話したことで、かえってお互いの距離を感じてしまうことだって、往々にしてあると思うんです。

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でも、それがハリー・ポッターという物語を経由して語られると、なぜか「もっと知りたい、もっと教えて」に変わる。

学校の友達と呪文を真似して遊んでいたという話自体、僕はその同級生を知らないけれど、まねしていた呪文のことならわかるし、確かにそういうことしたくなるような雰囲気が当時にはあったよなと、自分の思い出からも、懐かしく思える。

だから、その話を聞いてみたくなるし、そこから少しずつ、そのひと自身のことも知りたくなってくる不思議です。

きっと、優れた物語というのは、こんな風に、ひととひとのあいだの媒介、メディアになってくれる存在なんだなあと思ったんですよね。

お互いの人生の全部を知らなくても、本を媒介にすれば、一緒に話せることが一気に増える。

そこで語られる思い出は、自分とは全然関係のない思い出なのに、その違い自体が、より一層おもしろくなるきっかけになるということです。

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ただ、懐かしささえ共有できれば、それでいいのかというと、そこは少し気をつけたいところでもあります。

ひとは、懐かしい思い出には抗えない、それは間違い真実です。

「あの頃、よかったよね」と話し始めると、その時間を知っているひとたちだけで盛り上がってしまう恐れもあります。当時を知らないひとや、世代の違うひとには、会話に入る余地がなくなってしまう。

誰かを排除しているつもりがなくても、気がつけば内輪ネタばかりになってしまう。

懐かしさを通して、お互いの同質性を確かめて、慰め合うだけで終わってしまうこともあると思うんです。

だとしたら、その思い出をどう持ち寄れば、新たな関係性を構築することに寄与するか。

コミュニティとしての場をつくる側としては、そこまでを丁寧に考えたいんですよね。

昔から好きだったひとの思い出を、初めて読むひとも、楽しく聞けるように。

同時に、初めて読んだひとの感想にも、昔から好きだったひとが「もっと聞かせてほしい!」と思えるように。

同じ懐かしさを味わえなくても、読書会の文化を大切にするメンバー同士で、一緒に読むこと自体はきっと楽しめる。

Wasei Salonでは、そんなふうに「懐かしさ」を捨て去らず、かと言って「懐かしさ」に頼りすぎることもなく、それを媒介にしながら、新たなつながりをお互いに作り出すことができたら、本望だなと思います。

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で、勘の良い方ならすでにお気づきのとおり、こういう楽しさこそ、AI時代に大切にしていきたいなとも同時に強く思うんですよね。

立派な感想を言うことだけだったら、もうAIでいくらでもできてしまう。

作品の構造を分析したり、僕らが見落としていた点を教えてくれたり、感想の内容だけで比べたら、AIに聞いたほうがよっぽど詳しくて、よく整理された答えが返ってくることは間違いなし。

でも、昨日の読書会がやけに楽しかったのは、そのひとが、個別具体的な記憶や体験をもとに、身体感覚を伴った「生の話」をしてくれたことだったんですよね。

逆に、AIには、学校の友達と映画館へ行った子ども時代がない。長期休みのたびに同じ本を読み返して、その後何年も別の暮らしを送り、おとなになってからもう一度その本を開くという、その時間を、自分の身体で体験し、生きてきたわけではない。

そういう体験について説明することはできても、自分が実際に過ごしてきた時間として、互いに持ち寄ることは、AIにはできないわけです。

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昔はなんとも思わなかった先生の言葉が、いまは妙に沁みる。そのことに、自分でもちょっと驚いている。その体温があがる様子自体に、その話を聴いているこちら側も、なんとも言えないグッとくるものを感じる場合があるなあと。

そんな話を、同じコミュニティのメンバーから聞けるのが、純粋にうれしいし、とっても楽しく感じられる。

昨日の読書会の体温が少し高かったのは、きっとそういうことだったのだろうなと思います。

それぞれの時間を生きてきたひとたちが、同じ物語を、いまこの同じ時間の中で囲んでいることにものすごく大きな価値を感じます。

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そして、こうやって昨日の時間それ自体も、これから先には、またひとつの新しい思い出になっていくはずなんですよね。

いつかまた『賢者の石』に触れたときに、「そういえば、あのとき、あの読書会でこんな話をしたな」と思い出すかもしれない。

僕にとってはもう、ハリー・ポッターには、福岡で楽しそうに話していたしげさんやゆっこさんの姿が、完全に結びついています。

そこに、昨日聞かせてもらったみなさんの唯一無二のかけがえのない思い出もみごとに重なっている。

自分ひとりで読んでいたら、きっとそうはならなかったと思います。

昔の思い出を共有していなかったひととも、新しい思い出をともにつくっていける。昔の物語や、その時間的隔たりが生み出す懐かしさや思い出をきっかけにして、です。

そして、これから出会うひとも新たにそこに加わっていけるような、昨日のような場をつくり続けていきたいなあと。

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AI時代の次のエンタメの形、メディア(媒介)の形、その萌芽はきっとこういうところにあるんだろうなあと漠然と思っています。

「秘密の部屋」以降も、また皆さんと一緒に、一冊ずつ丁寧に読んでいく予定です。

物語の続きはもちろん気になるのですが、それを読んだみなさんが、今度はどんなことを思い出して、読書会で何を話してくれるのか。

いまはそれも、同じぐらい楽しみだったりします。

ぜひ次回の読書会には、みなさんも参加してみてください。「秘密の部屋」からの参加も大歓迎です!

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。