F太さんと「オーディオブックカフェ」やそれにまつわるこぼれ話をVoicyで配信している際に、ときどき「読むとは何か」みたいな話になることがあります。

そのたびに僕は、わりと一貫して同じようなことを話してきた気がしていて、具体的には、読むというのは、「わかった」と思うことではない。むしろ、「自分はまだ読めていなかったんだ」と気づけることなのではないか、というのが僕の持論です。

「もっと知りたい。もっと教えて」そう思えることこそが、本を読むという行為のいちばん豊かな部分なんじゃないか。

そんな話を、何度も何度も繰り返しお話してきました。(下の回とかは非常にわかりやすい)



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一方で、F太さんの場合、オーディオブックの良さについて話すときに、よく「読んだことがある、と言えるようになることが大きい」という話をしてくれます。

これだけ並べると、ふたりの話はまったく噛み合っていないようにも聞こえるはず。

つまり、僕は「読めていないと自覚すること」が大事だと言っている。F太さんは「読んだことがあると言えること」が大事だと言ってくれている。

片方は、読めていなさのほうに向かっていて、もう片方は、読んだことのほうに向かっている。

一見すると、僕らは真逆のことを言っているようにも聞こえると思うのです。

でも、僕の感覚としては、ずっとふたりで同じ話を繰り返ししているような気がしていたんですよね。

ただ、そのことをうまく説明する言葉が、今まで自分の中でなかなか見つからなかった。

で、最近ふと思ったのだけれど、これはゲームでいうところの「全クリ」と「完クリ」の違いとして考えてみると、かなりわかりやすくなるんじゃないかと思ったんですよね。

今日はそんなお話になります。

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皆さんご存知のように、ゲームをクリアすると言っても、そこには「全クリ」と「完クリ」の2パターンが存在します。

全クリというのは、とりあえず最後までたどり着くことです。

エンディングを見て、ラスボスを倒して、ストーリーの大筋をあらかた知って「あのゲーム、クリアしたことがあるよ」と他者にも言えるような状態になること。

もちろん、それはそれでとても大きなことだと思います。

どんなゲームなのかを、少なくとも一度は自らの体験を通して通過しているわけですからね。その世界の空気をちゃんと知っている。

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一方で、完クリはもう少し異なる要素が含まれてくるわけです。

具体的には、メインストーリーには直接的には関係がないサブイベントも全部拾うし、隠しアイテムなんかも全部集める。

裏ボスを倒したり、細かい会話や世界観の伏線まで理解しないと完クリとは言えないはず。

つまり、全クリが「最後まで行くこと」だとしたら、完クリは「その世界をすべて味わい尽くそうとすること」に近い。

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この違いで考えると、F太さんが語るオーディオブックの価値は、対象の本を「全クリ」させてくれることに近いんだと思う。

一方で僕は、「完クリ」には程遠いことを理解させてくれることが「読む」ことだと思っている。

つまり、まず一通り最後まで触れられる。本の全体像がわかる。

著者が何を問題にしているのかが、なんとなく見えてくる状態を二人とも本を読むことだと捉えているということです。

そのうえで、歩いてきた道のりのほうにフォーカスするか、その道のりを経由したからこそ見えるその先の途方もなさにフォーカスをするのか。

でも間違いなく、両者ともに同じ地点に立っている。

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そして「あの本は、こういう本だったのか」と言えるようになることは、本当に大きなことだと思うのです。

というのも、本というのは、読んでいないあいだは、ずっと「壁」のようにそこに立ちはだかるものだからなんですよね。

タイトルだけ知っていたり、有名な本だということだけは知っている。でも、自分はまだそこに一度も入ったことがない。

そういう本は、自分の中でいつまでも「未踏の大陸」のまま残り続けてしまう。

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もちろん、それはそれで悪いことではない。

読んでいない積ん読の山があるからこそ、世界はより広く感じられるし、いつか読みたい本があるということ自体が、人生の引け目にもつながる部分もあるから。

でも一方で、読んでいない本は、こちらにとってはまだ「関係の始まっていない本」でもあるわけですよね。

その本について誰かと話すこともできないし、何がわからないのかも、わからない。

そういう意味で、オーディオブックは、その壁をまず一度、比較的ラクに越えさせてくれる方法なのだと思います。

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具体的には、散歩をしながらでもいいし、家事や移動中でもいい。そんな「ながら聴き」状態で、その本の世界を最初から最後まで一度通過することができる。

すると、その本は「未踏の大陸」ではなくなって、一度歩いたことのある土地へと様変わりするわけです。

もちろん、細かい道までは覚えていないかもしれない。どこに何があったか、正確には思い出せないかもしれない。

でも、「あのあたりに、たしかこういう景色があったな」という感覚はちゃんと自分の中に残るはずであり、その体験がまさに、一度実際に訪れたことがある旅先や観光地のように様変わりしてくれるわけです。

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で、ここまでの話を少し別の言い方をすれば、その本が自分の中で「索引」のようなものになってくれる、ということなんだと思うんですよね。

その体験があるからこそ、何かのきっかけで「あの本にはこういう話があった気がする」と呼び戻せる場所が、自分の中にひとつできる。

それだけで、次にその本と出会うときの距離感は、まったく変わってきます。

別の本を読んでいるときに、ふと接続されたり、誰かとの会話のなかで急に蘇ってきたりして、その本と、もう一度出会える場所が、自分の中に明確にできるわけですから。

つまり、「読んだことがある」は、読書の終点ではない。

むしろ、本当の意味で、その本を読むための読書が始まるための足場なのだと思います。

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まとめると、「あれ、自分はあの本を読んだつもりでいたけれど、全然読めていなかったんだな」と気付ける瞬間は決して「読書の失敗」ではなくて、むしろ、その瞬間にこそ「読む」が始まっている。

きっとそんなふうに「読めていなかった」と気づくこと自体、実はかなり貴重な営みなんだと、僕は思っているといことなんだと思います。

もちろん、実質的に完クリというのは、北極星のように、到達不可能な場所でもある。

だからこそ、著者や本そのものに対しても、「まだ知らない部分がある」と敬意が宿る瞬間でもある。

だから、F太さんの言う「読んだことがあると言えること」と、僕が言っている「読めていないと自覚できること」は、決して対立せず、むしろ、前者があるからこそ、後者が生まれてくるという構造なんだろうなあと。

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ただし、世間的には「読んだことがある」は、ときに読書、その本を完全に対話を終わらせる言葉にもなるから、要注意なんだろうなとも感じます。

あの本はもう読んだ。だから知っている、わかっている、もう十分だ、と。

そうなってしまうと、たしかにそこで読書は終わってしまう。

旅先なんかもそうですよね、スタンプラリー的な旅になってしまうと、その土地との関係性がむしろ断絶してしまう。

一度その土地の観光スポットをすべて巡ったから、もうその土地のことを全部わかった気になってしまったら、その土地の再訪のタイミングは一生やってこないわけです。

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きっと旅も本も、本当におもしろい瞬間は訪れたあと、不意に始まるときなんだと思います。

そういう瞬間が、自分の中に少しずつ増えていくこと。それが、旅や読書の本来的な豊かさなんじゃないかと僕は本気で信じています。

何度も通いたいと思わせてくれる、旅先の土地や風景など、行くたびに知らなかった魅力に気付き、この街のことを自分自身がまったく知らないという事実に、ハッとするあの瞬間。

あの瞬間が大好きだからこそ、僕はオーディオブックと旅が本当に好きなんだと思います。

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あと、今日ここまで考えてみて、僕は「読む」という行為を、ずっと「理解すること」ではなくて、「関係が始まること」として捉えていきたいと思っているんだなあとあらためて強く実感しました。

そういう終わらない関係性が、自分の中に少しずつ増え続けていくことのほうに豊かさがあって、だからこそ、「読めていない」と気づけることはとても大事なこと。

それは、決して、未到達や未熟さの証明ではない。

そして、その関係を始めるためには、F太さんが語るように、まず一度「読んだことがある」と言える状態になることが、同じくらい大事だし、それを他者と語らうような読書会のような場こそが、自分の理解不足を一番強く深く実感させてくれるような場でもある。

だからこそ、これからもオーディオブックとWasei Salonというコミュニティで開催される読書会、そしてそれを身体感覚で味わうような「旅」の体験を大事にしていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。