少し前に、Twitter上でこんな趣旨の投稿を見かけました。

最近、論理的な創作コンテンツがつまらなくなってきた気がする。たぶんそれは、AIによって誰でもそれっぽく筋の通ったものを作れるようになったからではないか、と。

これを読んで、たしかにそうだよなあと感じます。

AIが登場して以降、「ちゃんと論理的に筋が通っている」ということの価値が明らかに変わってきてしまった気がする。

あまりにもきれいに整っているものほど、「ああ、AIでもつくれそうだな」とすぐに思われてしまう。

一方で、「なんでそんなことするの…?」と、思わず聞きたくなってしまうような行動に、いま人々は強く惹きつけられてしまう。

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普通に考えたら割に合わなさそうなことを、本当に実際やってしまう人。そういう話には、たしかに人は惹きつけられる。

「なんで?」「どういうこと?」そう思いながらも、それゆえに目が離せなくなってしまう。

だからこそ「非論理な事実のほうが、現代においてはおもしろい」という感覚は、僕もよくわかる。

ただ同時に、ここで少しだけ問い直してみたいなあと。

なぜならこの話は、一歩間違えるとかなり危うい方向にも進んでしまうだろうなあと思うからです。

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結局のところ、その行き着く先は、プリミティブな刺激の競争になってしまうはず。

もっと強い言葉やもっと過激な衝動、そして、もっと大きなリスクやもっとわかりやすい炎上狙いの言動が今以上に生まれてくるだけです。

実際に、人間はそういうものに強く反応してしまう。火事と喧嘩は江戸の華という言葉が示すように。

他人の無謀な挑戦を見るのはものすごくおもしろいし、その結果、誰かが失敗するかもしれない状況というのは、ついつい目がいってしまうわけです。

僕らがホモ・サピエンスという生物である以上、そのような刺激に本能的に抗えないわけですよね。

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でも同時、それっていうのは本当に「人間らしさ」なのだろうか、と僕は思ってしまうのです。

ちょうど最近、落合陽一さんと思想史家の先崎彰容さんの対談本『令和日本をデザインする』を読み終えて、ここにも重なる話が語られているなと思いました。

おふたりは、いわゆるSNSのバズ狙いの投稿やショート動画のようなものを「ドーパミカルチャー」として捉えています。

具体的には、スマホをスワイプしているだけで、次々と狩猟採集時代の人類の「獲物を捕まえる」ような高揚感や快楽が得られるようにできている。だから一周回ってものすごく人間らしいのだ、と。

炎上やゴシップや他人の逸脱を見ることで、人間の脳が、そしてホルモンがそうやって無条件に反応してしまう。

それは人間の原始的(プリミティブ)な部分と、たしかに相性がいいわけです。でも、相性がいいことと、それが「文化になる」ということは違うのだ、と。

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「非論理のほうが、おもしろい」という話も、きっとこの話と地続きのように思います。

「論理は、もうAIがつくることができるから、人間側は非論理であればそれでいい」と話を単純化してしまうと、人間の抗いがたい本能を突くコンテンツが、どんどんと強くなっていく。

それは人間にとっては、確かに刺激的かもしれない。でも、それは果たして本当の「文化」と呼べるものなのか。

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で、ここで思い出すのが、本書の中でも少しだけ触れられていた「記号接地問題」の話です。

ここで、記号接地問題をわかりやすくしてみると、「りんご」という言葉を使えることと、実際にりんごを手に取ったことがあることは明確に異なるということです。

りんごの重さや香り、歯ざわり、子どものころに食べた記憶、誰かが剥いてくれた時間など含めて、そういうリアル(現実)に接続されている言葉と、単に記号としての処理されている「りんご」という単語の意味は、まったく同じ「言葉」でもやっぱり違う。

AIは、言葉をとても上手に扱えるようになり、筋の通った文章もすぐに書ける。

物語もつくれるし、それらしい思想も難なく語れてしまう。でも、その言葉が、どこに根を下ろしているのかと問われれば、どこにも根ざしていない。

今回の話も、結局はそんな「根を下ろす」感覚につながっていくはずなんです。

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つまり、現代における真の問題は「論理的か、非論理的か」ではない。

「その言葉や行動が、現実のどこに接地しているのか、根を下ろしているのか」ということです。

僕が今日強く主張したい点も、まさにここ。

だから、正確に言えば、「非論理な事実」がおもしろいのではなく、言葉だけではなく、身体や時間、人間関係や生活にちゃんと根ざして、接地しているものが本当の意味でAIがつくることができないものであり、なおかつ、それが人間にとってのおもしろいということなのだと思います。

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ところが、ここでさらにもう一段、考えなければいけないことがある。

それは、接地先、根を下ろす先にも種類がある、ということです。

冒頭で語ったように、人間の本能に接地することもできる。

つまり、ドーパミンに直接接地することもできる。具体的には怒りや不安、、嫉妬や覗き見したい願望に接地することもできる。

でも一方で、「歴史」やこれまで受け継がれてきた「文化」に接地することもできる。

たとえば民藝や宗教なんかは、わかりやすい。人間がこれまで、何に美を見出してきたのか、何に救いを求めてきたのか。

どうやって、弱さや不完全さを抱えながらも、易きに流れることなく、世界と関係を結んできたのか。

その先行する文化に敬意を払い、そのバトンを繋ぐという形において「接地」することもできるわけです。

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この違いは思っている以上に、大きな違いだなと思います。

落合さんと先崎さんの対談でおもしろかったのも、まさにこの部分でした。

おふたりは民藝や宗教、手仕事の話をされている。でもそれは単に「昔に戻ろう」という話では決してない。

現代のデジタル社会の中で、AIやSNSによってアイデンティティや手触りや共同体の感覚がどんどん溶けていく。まさに足場が崩れていく感覚を、誰もが持っているはずです。

そのときに、先人たちが何に「美」を見出し、何に自分たちの拠りどころを求めて、どうやってこの世界を生きてきたのかを、もう一度改めて問い直してみる。

つまり、歴史を参照するとは、過去に戻ることではなく、過去から受け取った問いを、現代の環境の中でちゃんと接地させながら、問い直すことなのだと思います。

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そう考えると、オリジナリティという言葉の意味合いも、少しずつ変わってくる。

僕たちはついついオリジナリティと言った瞬間に、誰も見たことのない新たなものをゼロから生み出すことだと思ってしまいがち。

その発想が極端なドーパミンカルチャーに傾倒していく理由でもあると思います。

でも本当は、そうではないのかもしれないなと。

むしろオリジナリティとは、先人たちから受け取ったバトンを自分の身体と時代の中で、再びどう置き直すかのほうに宿るのではないか。

具体的には、どの巨人の肩の上に乗るのか。どの歴史に対して自らを接続するのか。

どの先人たちの問いを、自分の行動として今日から引き受けるのか。バトンを受け取るか、そこに、その人らしさが宿る。

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もちろん、そこに節度や歯止め、倫理も同時に宿ってくれるわけです。つまり、ただのはっちゃけた感じにならないで済むわけですよね。

ぽっと出の新しさではなくて、古い問いが、いまの時代に少しだけ形を代えて、まい戻ってくる感じです。初代ゴジラと、『シン・ゴジラ』や『ゴジラ-1.0』の関係性なんかは非常にわかりやすいかと思います。

直系の関係性ではなくとも、戦後主流だった手塚治虫アニメを批判し、それをアップデートしようとしたスタジオジブリなんかもわかりやすい。

否定しながら、継承することは可能であることは、先日の『プラダを着た悪魔』の中でも証明した通りです。


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で、最近ずっと考えている、「ヒンメルならそうした」という話も、たぶんここにつながります。

『葬送のフリーレン』の中で、フリーレンは何度も「ヒンメルならそうした」とつぶやきながら、自らの行動を淡々と選んでいくわけです。

それは、論理的に最適な判断ではない。もちろん、コスパや効率が良いわけでもまったくない。

そして、フェルンやシュタルクなど、新世代の若い仲間に対して何か合理的に説明しきれるわけでもない。

でも「ヒンメルならそうした」という言葉が、彼女の行動を不思議と決めていくわけです。そして周囲(読者も含めて)も、なぜかそれを観てすんなりと納得してしまう。

それは、単に過去の記号的に存在していた誰か、を真似しているのとはわけが違うと思うからだと思います。



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フリーレンが、ヒンメルという存在と過ごした時間、旅の中で見てきた彼の背中、そのときはわからなかったけれど、あとから少しずつ意味がわかってくる言葉や振る舞い、それらが、フリーレンの中に深く「接地」している、根付いてしまっている。

だからこそ、彼女は、いま目の前で何をするべきかを考えるときに「ヒンメルならそうした」と自然と思えるし、思うことができる。

そして周囲(読者も含めて)それを間接的に理解し、知っているからこそ、その選択を尊重できる。

きっとそこには二人だけの大事な世界があって、その世界を共に守りたい、尊重したいと思うから。ヒンメルのことは知らなくても、共にそうやって祈りたくなる、弔いたくなる。自分は顔を観たこともないような、先祖の墓の前で手を合わせるような気持ちで、です。

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これが、先人からバトンを受け取るという行為そのものだと僕は思います。

先人たちは、明確な答えを与えてくれるわけではない。いま自分が直面している具体的な問題について、細かなマニュアルを残してくれているわけでもない。

でも、どういうときに自ら損な役回りを引き受けるのか。どういうときに、効率よりも大切にすべきものがあると信じて、自らにその責任を引き受けるのか。

そういう身の処し方を、ちゃんと背中で残してくれている。

僕たちはそれを受け取って(しまい)、いまの時代のなかで、もう一度それを判断し直し、問い直す役回りをありがたいことに授かっている。

だからこそ「ヒンメルならそうした」は、単なる懐古主義ではなく、更に伝統に隷従することでもなくてむしろ、過去の誰かの生き方を、自分の現在の行動のなかにもう一度立ち上げる行為にみえるわけです。

そして、これこそが、歴史や文化に接地した本当の意味でのオリジナリティなのではないか、と僕はいま強く思います。

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AI時代のオリジナリティとは、決して目新しさ競争ではないのだと思います。

むしろ、その接続先の深さ、その根の深さのほうが問題になっていく。

どれだけ奇抜なこと、どれだけ非論理な行動を取れるかではない。どれだけ過激なことをして他者の耳目を集められるかでもない。

自分の言葉や行動が、どこに根を下ろしているのか。どのようなバトンを受け取っているのか。そこが、たぶんこれから問われていく。

ここを決して履き違えてはいけないなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。