一昨日、「好きに推していいよ」は自由の言葉であると同時に、見捨てる言葉でもある、という話を書きました。
「好きに推していいよ」は自由の言葉であり、見捨てる言葉でもある。
その翌日に、たまたま『24時間テレビ』で、鈴木敏夫さんと娘の鈴木麻実子さんが出演されている情報が、Xに流れてきました。
番組自体は見ていませんが、話題の中心は映画『耳をすませば』の「カントリー・ロード」のお話です。
あの日本語の詞を書いたのが、当時18歳だった麻実子さんだったという、ジブリ好きにはおなじみのエピソード。
ただ、あのブログを書いた直後だったせいか、いつもとは少し違う角度から、この話が引っかかってしまいました。
今日はそのことについて、なるべく丁寧に書いてみようと思います。
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この点、麻実子さんは当時、もちろん作詞家ではありませんでした。
ただ、中学生のころから人知れず詩を書きためていた、という話です。
そして、作詞に完全に行き詰まった宮﨑駿さんが、主人公の雫と年の近い人の言葉を見てみたいと考えて、鈴木敏夫さんを通じて、彼女に依頼が届いた。
本人は、本番で使われる歌詞というより、参考程度のものだと思って書いたと振り返っていましたが、最終的には、宮﨑さんが絶賛し、多少の手を入れて、あの歌詞になったのだと。
とっても素敵な話です。
ただ、ここで「なんて素敵な親子の話だ」と言って終わりにするのではなく、今回は少し変化球の現代的な問いを置いてみたいのです。
もし、これが現代で、かつスタジオジブリではなく一般的な会社だったら、この仕事は、一体誰に頼まれるのだろうか、と。
ほんとうに、実績のない18歳の若者だろうか。
それとも、AIだろうか。
たぶん、「AIでいい」という判断になるはずです。
「主人公と同世代の感性で」とAIに指示すれば、それらしい詞の候補はいくらでも出てきます。速いし、安いし、一定以上にうまい。
そして、気に入らなければ何度でもやり直せますからね。
でも、それが自分たちの娘だったら、「一回やってみる?」が起きるし、それが起きても何の違和感もない不思議。
この違和感が、今日の話の起点になります。
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で、先週、僕が繰り返し考えてきたことに「初心者の席」という問題があります。
AI以前の社会では、初心者はたしかにヘタクソでした。でも、誰かにやらせなければ、次の熟練者が育たない。
だからこそ、新人向けの仕事というものが、どんな業界にも存在していたわけですよね。下手なことは織り込み済みで、それでも席がちゃんと用意されていたわけですよね。
ところがAIは、新人よりうまくて、新人より速くて、なおかつ安い。しかも育成コストがほとんどかからない。
すると、もうAIでいいじゃん、となる。
結果として、新人の仕事だけがドンドンAIに奪われる、という話は最近よく聞きます。
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ただ、この一般的な話のなかで、僕が本当に気になっているのはそこではありません。
AIによって失われるのは、仕事そのものよりも「まだ下手な人間に、あえて仕事を任せる理由」のほうなのではないか。
仕事は残るかもしれない。でも、その仕事を、まだ何者でもない人間に渡す理由だけが、超優秀なAIの登場によって、静かに消えているのがまさに今なわけです。
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で、だからこそ最近、血縁や地縁というものが、以前とは少し違って見えるようになってきました。
自由主義的な社会では「娘という理由だけで、仕事を渡す」は、基本的には怪しい話です。
縁故やコネ、世襲などは、基本的には不公平とみなされる。それよりも広く公募して、能力で選ぶほうが公正だった。
誰の子かではなく、本人の力で選ばれる社会が公正な社会である、と。
これは圧倒的に正しい。僕もそう思ってきましたし、いまもそう思っています。
でも、AIが能力競争の輪の中に入ってくると、ここで妙なことが起きるなあと。
最も能力の高い存在を、最も公正に選んだ結果、「人間」が選ばれなくなってしまう。
公正さを徹底すればするほど、まだ実績のない人間には順番が回ってこない。市場に出せばAI、公募すればAI、そうやってすべてをAIに任せることが合理的な判断になってしまう。
でもそのときに、「娘だから、一回任せてみる」「この土地の若者だから、次を任せてみる」という、一見すると非合理で不公平な関係性が、人間に機会を残すための合理性として、戻ってくるのではないか。
昔なら怪しかった理由が、AI時代には、人間へ仕事を残すための最後の防波堤になるんじゃないか。
今日このブログのなかで、僕がいちばん主張したいことはまさにここにあります。
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ただし、これは「世襲を復活させよう!」という安易な話ではありません。ここは早めに釘を刺しておきたいところです。
鈴木敏夫さんの娘だからジブリの仕事を独占していい、という話とは、まったく違います。
昔の縁は、人間を拘束するものでした。
「この家に生まれたのだから、この仕事をしなさい。この村の人間なのだから、一生ここにいなさい」そんなしがらみから人間を解放したのが近代であり、自由主義の功績だった。
これから戻ってくるかもしれない縁は、方向がその逆なんです。
あなたには、別の人生を選ぶ自由がある。でも、もしやりたいのなら、最初の一回だけは私が信用を貸す。
そうやって、縁が「逃げられない理由」から、「まだ何者でもない人を、受け入れるための理由」へとガラッと変わる。
だからこれは、自由主義の否定ではないのだと思います。
むしろ、自由主義を通過したあとだからこそ可能になる、新しい「縁」の話です。
権利の世襲は、閉じてしまうけれど、責任の世襲は、つなぐものになるのではないか、という大胆な仮説を提示したいんですよね。
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で、ここで同じくスタジオジブリの宮崎吾朗さんの話をしたいと思います。
麻実子さんの話だけだと、「若者にチャンスを与える」という育成論に見えてしまう。でも吾朗さんの話を置くと、話がもう一段深くなると思います。
具体的には、「誰に渡すか」から、「何を継ぐのか」へ。
吾朗さんは、宮﨑駿の後継者になることには、ずっと距離を置いてきた人です。
それでも吾朗さんは、ジブリパークをつくった。
もともと造園や環境デザインの世界にいた方で、三鷹の森ジブリ美術館の建設に関わり、映画監督も経験し、そして愛知のジブリパークを手がけたわけです。
父と同じ映画をつくったわけでもないし、もちろん、父と同じ才能を持っているわけでもない。
でも、ジブリが積み上げてきた世界観や気風を、次世代へ渡していく仕事は、自分の務めや責務だと思ってちゃんと引き受けている。
しかも吾朗さんは、ジブリパークについて、完成したものを修繕して維持するだけでは足りない、そこに人が住んでいるかのように中身を変え続ける必要がある、という趣旨のことも語っています。
僕はこれを聞いて、継承というものの姿が、少しはっきり見えた気がしました。
つまり、継承とは、同じことをすることではない。
親と同じ責任を、自分なりの方法で、引き受け直すことなのかもしれないなと。
継がれているのは才能ではなく、その「責任」のほうなんです。
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で、ここから、少し大きな話になっていきます。
近代の自由主義がやったことは、ものすごく単純化すれば、「誰の子として生まれたかによって、何者であるかを決められなくていい」という解放でした。
長男だからという理由で、家を守らなくていい。この土地に生まれたからといって、一生この土地に縛られなくていい。
これは巨大な進歩であり、絶対に手放したくない人類の進歩です。
でも、そのとき同時に弱くなった構造があるなと思うのです。
「自分の次を、自分が用意する」という構造です。
昔の「家(イエ)」は、いまの感覚だと、財産や身分を世襲する装置として見えてしまいます。実際そういう面は強かった。
でももう片方では、家は仕事を継ぎ、信用を継ぎ、責務を継ぐための装置でもあったわけですよね。
「これを受け取るなら、これも引き受けなさい」と、権利と一緒に責任も継承する仕組みだったわけです。
自由主義は、権利の世襲を壊した、それは良かった。
でも同時に、責任の世襲まで壊してしまったところに、いちばん大きな問題があったのだと思います。
一代の覚悟は、どれほど強くても、一代で終わります。
だからこそ、一代では責任が取れないようなこと、たとえば街の再開発や、核のゴミ処理場の問題など、本来であれば何代にもわたって責任を継承していかないといけないような出来事も、なぜか曖昧なまま、だれも責任を受け継がないまま、野ざらしにされてしまうわけです。
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そして、AI時代には、この問題がもっと露骨になります。
先日、AIには責任だけは渡せない、という話を前後編で書きました。
調査も、制作も、計算も、提案も、実行すらも、AIはどんどん引き受けていく。それでも最後まで人間側に残るのは、「で、これを誰の名前でやるのか?」「失敗したら誰が引き受けるのか?」という問いです。
かなり露悪的に言えば、巨大なAIの身体の上に、責任主体としての人間の「生首」だけが載っているような状態。
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では、その生首が、数十年ごとに消えたらどうするのか。
AIによって、人間がものすごく大きな作用を短時間で生み出せるようになると、作用の寿命と責任者の寿命が、ますます釣り合わなくなります。
AIが下した判断の影響は、100年後もこの世に残るのに、その判断に名前を貸した人間は30年程度で表舞台からいなくなる。
だからAI時代には、「責任主体としての人間」を育てるだけではきっと足りない。
責任主体そのものを、代替わりさせる仕組み、従来の「家」のような仕組みが必要になるわけです。
ここまで来て、麻実子さんの話と吾朗さんの話が、一本につながると思います。
なぜ、初心者に席を渡さなければならないのか。
それは、優しいから、とか、子どもを贔屓しているからではないのだと思います。もちろん、安易に若者を応援したいからでもない。
そうじゃなくて、次の「責任主体」をつくらなければ、責任の系譜そのものが途絶えてしまうからです。
一代目が何でもAIでやれば、一代目はとんでもなく生産的になる。でも、それだと二代目が育たない。
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だから僕がいま思うのは、人間をもう一度世襲させることではなく、責任だけを世襲させることではないか、と。
誰がその席に座るかは自由でいい。血縁でなくてもいいし、養子でもいいし、弟子でもいいし、地元の若者でもいいし、まったく別の場所から来た人でもいい。
それは、本人の意思で選べばいい。
ただ、「この責任を次へ渡す」という義務だけは、消してはいけない。
権力の世襲ではなく、責任の世襲です。所有の相続ではなく、引き受けの相続。
そして、まだ実績のない人間、AIよりも劣っている人間に、わざわざ席を渡すことを世間に納得させる理由として、いまも一番強いのは、やっぱり「血縁」、つまり血の繋がりです。
ここはどれだけ時代が進歩しても、簡単には変わらない人間の真実だと思う。
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そして、たぶんここが一番未来的なところで、
なぜ血縁や地縁が戻ってくるのか?
人間が保守化するからではありません。
AI時代、最適化しない理由こそが必要になるからです。
AIは基本的に最適化します。最適な人、最適な答え、最適なコストを淡々と選び続ける。
でも人間の社会には、最適ではない人を選ばなければ、次世代が育たない領域がある。
そのときに、「娘だから」「この土地の子だから」「このコミュニティの次世代だから」という理由が効いてくる。
近代合理主義からすれば、どれもものすごく怪しい理由なんです。
でもAI時代には、その怪しい理由こそが、人間に機会を渡し続けていける唯一の根拠になると僕は思う。
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縁とは、最適ではない存在に、それでも機会を渡すための非常に人間らしい不合理な理由なのかもしれない。
血縁、地縁を「古いしがらみ」とだけ見るのではなく、市場やAIの最適化から、まだ未熟な人間を守る緩衝地帯として、読み替えてみること。
そして、AIは天皇制における摂政のように、その次世代の子どもたちを支援することができる。そうやってAIは活用されていくのではないかと思います。
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Wasei Salonで言えば、コミュニティメンバー同士で信頼を重ねて、記憶も重ねるうちに、あと10年もすればそれぞれのメンバーのお子さんたちなんかも見事に成人します。
そのときに僕らが渡せるものが必ずあるはずだよなあと思うし、なんだったらそのときにちゃんと渡せるものこそを、これから淡々と耕していきたい。
もちろん、そのときにほんとうに彼ら・彼女らが選ぶかどうかは、本人たちの意志に任せたうえで、です。
これが、血縁や地縁の復活を回顧主義ではなく未来の話として、いま語っておきたい理由です。
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圧倒的な自由と、AIという超知能を手に入れつつある僕らが、もう一度、人間らしい「縁」を発明し直していくこと。
そんな必然性が、AIが人間を凌駕することがほぼ確定している今だからこそ、真剣に考えないといけない問いなんだろうなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/08/31 15:19
AI時代に「地縁・血縁」は若者に仕事を残すために戻ってくる。

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