先日、Xにこんな投稿をしたところ、思いのほか大きな反響がありました。というか完全に、プチ炎上と呼んでいい状態になりました。
僕としては、靴そのものの性能や、履いているひとの人格を否定したつもりはまったくなくて、書きたかったのは、商品にまとわりついている記号と、それを欲しがらせる構造の話でした。
ただ、いま改めて読み返してみると、「トレンドに敏感だと思われたい中年」という言い方を選んだ時点で、構造の話は、世間に存在する特定の誰かへの揶揄に着地してしまっています。AIにもその点について懇切丁寧に指摘されました。
本当に問いたかったことよりも先に、「中年を馬鹿にするな」という反発を招いてしまったのは、明らかに僕の書き方の問題です。
ただ、プチ炎上して大量に寄せられた反応をずっと眺めているうちに、その言い方の稚拙さとは別のところで、とても興味深いことが見えてきたような気がしていて、今日はそのことについて、少し丁寧に書き残しておきたいなあと。
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反論の多くは、「履きやすいから履いているだけだ」「若者も普通に履いている」「おまえのほうこそ偏見にまみれている」というもの。
それらを読みながら気づいたのは、反論してくるみなさんが本当に守ろうとしていたのは、靴そのものではなく、「これは自分の意志で選んだ」という感覚のほうだったんじゃないか、ということです。
ひとは、自分の持ち物を批判されることには、案外耐えられる。
でも、「あなたのその欲望は、あなた自身がつくったものではないかもしれない」と言われることには、ほとんど耐えられないんだろうなあと。
そして厄介なのは、いまのマーケティングが売っているものが、まさに「その感覚」だということです。
商品と一緒に、「これは誰にも影響されていない、あなた自身の選択です」と思える物語まで含めて売っている。
だから、商品を疑う言葉は、どうしても「選んだあなた」本人を疑う言葉として響いてしまうんだろうなあと。
今回、最初に見えてきたのはこの構造です。
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そしてもうひとつ、僕にとって最大の発見だったのは、反論をくれたひとの多くが、山登りやトレイルランニング、キャンプを愛するひとたちだったことです。
その反応を眺めながら感じたのは、山が好きなひとたちはなぜか、「山」を「市場の外側」にあるものだと思いたがる傾向がある、ということでした。
そして現代では、その「市場から離れている」という感覚こそが、もっとも上手に商品化されているのではないか、と思ったんですよね。
山そのものは、たしかに市場ではありません。当然、都市でもない。
そして、自然の中で身体を動かせば、仕事からもSNSからも、一時的に離れることができる。
その解放感は、間違いなく本物だと思います。だからこそ、あれだけ多くのひとが山に向かうわけで。
でも、その本物の解放感に、「都市を離れている自分」や「消費社会に染まっていない自分」といった物語が付着した瞬間に、そこはまた「巨大な市場」に変わってしまう。
具体的には、高機能ウェアを着て、最新のギアを背負って、ブランドが丁寧に整えてくれた「野生」に向かいながら、自分だけは市場の外側にいると感じている。
「市場の外」というラベルの貼られた、見事なまでに市場の内側の商品。現代は、それがいちばんよく売れている社会のように、僕には見えます。
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ただ、これはアウトドアだけの話では全然ないんですよね。むしろ、ここからが今日の本題にも入っていきます。
たとえば、手仕事などのクラフト文脈も、独立系の書店も、地方移住も、オーガニック界隈も、古着も、ミニマリズムも、丁寧な暮らしも、デジタルデトックスも、そしてコミュニティなんかも、全部そう。
かつては市場の論理に対抗する価値として語られていたはずのものたちが、いまでは市場にとって、いちばん魅力的な商品になってしまっています。
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この点、昔の広告は、いま振り返るとずいぶん素直だったなあと思ってしまう。
「これを買えば豊かになれます、これを持てば格好よくなれます」と、まっすぐに率直に言っていた。
でも、いまの市場はそんな露骨なことはもう言ってきません。そんなことを言っても現代の消費者には刺さらないとわかっているから、ですよね。
そのかわり「本来の自分に戻ろう、自然とつながろう、作り手を支えよう、自分の感性で選ぼう」と語りかけてくる。つまり、「買うことばかり考える暮らしから離れましょう」と言いながら、そのための最適な「商品」を差し出してくるわけです。
登山ギアを買えば都市から離れられて、作家のうつわを買えば丁寧に暮らせて、古民家を買ってリノベすれば、大量消費と距離が取れる、と。
そうやって反・市場的な言葉を巧みに用いながら、市場そのものは静かに拡張し続けている。ここが、いまの消費のいちばん巧妙なところだと思います。
過激な左派思想を打ち出すほど、その思想を書いた本が売れて、著者がマルジェラの洋服を着ることができてしまうのと、構造としては非常によく似ているなと。
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で、ここでやっぱり思い出してしまうのは、1988年に、糸井重里さんが西武百貨店のために書いた有名なコピー。
「ほしいものが、ほしいわ。」
モノが一通り行き渡ってしまって、欲望の行き先そのものが見えなくなった時代の気分を、みごとに言い当てた言葉として、今もひろく語り継がれています。
では、あれからさらにモノがあふれて、広告やマーケティングの仕組みまで多くのひとが知ってしまったいま、僕たちはいったい何を欲しがっているのか。
たぶんもう、単純に商品が欲しいわけではないんだと思います。商品を買いながら、都市の流行に乗せられていない、大量消費に加担していない、自分の感性で選んでいる、と思い込めること。
僕たちが本当に欲しいのは、そちらの「物語」のほうです。言い換えれば、「私はただ消費しているわけではありません」という、消費のアリバイのようなもの。
だから、あのコピーを今風に書き直すとしたら「消費していない気分が、ほしいわ。」ということになるはずです。
そして企業は、その気分を実にうまく商品に仕立てあげて、僕たちの目の前にあたかも「あなたの自由意志によって選びましたよね」という証明と共に差し出してくれています。
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さて、本当はここからが、いちばん書いておかなければいけないことだと思うのですが、
当然、僕自身もそのような「商品」をこれまで選び続けてきました。その好みには本物の実感があると信じてきた。
ただ、そこには「自分はわかりやすい流行には乗らない」「マーケティングには簡単に動かされない」という自己像への欲望が、まったく含まれていないかと問われると、正直に言って、そう言い切れる自信はまったくありません。
サロモンを履くことが記号消費になり得るのなら、サロモンを履かないこともまた、同じように記号消費になり得るわけです。
流行に乗ることだけが消費なのではなくて、流行を拒んで「自分だけは外側にいる」と感じられるポジションもまた、市場がちゃんと用意してくれている美しいほどの特等席のひとつだからです。
つまり、今回僕に反発してくれたひとたちの怒りと、僕があの投稿に込めていた感覚というのは、おそらく同じ構造でできている。それはちゃんと認めざるを得ない。
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じゃあ、一体どうすればいいのか。
どこまでいっても堂々巡りじゃないか、と言われたら、そのとおりなんです。
現代のような高度な資本主義社会に生きてしまっている以上、市場の完全な外に出ることは、おそらくもう誰にもできません。
かといって「どうせ全部消費なんだから」と開き直って、割り切って港区民のように無邪気に買い続ければいいという話でもないはずなんですよね。
山に行きたければ山に行けばいいし、好きな独立系書店に通って紙の本を買えばいいし、移住や二拠点居住もしてみればいい。
その価値が本物であることと、それが商品化されていることは、矛盾なく両立します。
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問題は、何を選ぶかではなく、自分の選択だけは市場から自由なんだと思い込んでしまう、その無邪気さのほうなのだと思います。
だから僕たちに必要なのは、市場からの脱出ではなく、たぶん絶え間ないその自覚のほうです。
自分はいま、モノと一緒に一体どんな「美しい物語」を買おうとしているのか。どんなふうに「自分の手だけは真っ白だ」と思いたくて、ソレを選んでいるのか。
そのことに対してときどき立ち止まってみて、自分の手こそが本当は「真っ黒」だったんだと愕然とすること。
もちろん、その自覚だけでは免罪符にはならないかもしれないし、気づいたところで、僕らはまた明日になれば、また何か別の記号をせっせと買うわけです。
それでも、無自覚のままでいるよりは、ほんの少しだけ自由に近い場所に立てるような気がしています。
これからのAI時代にはますます巧妙な「物語」、そんな「フェイクコンテキスト」が世の中に溢れ返ることが既に確定しているようなタイミングだからこそ、いまとても大事な視点だなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/07/13 14:07
「市場の外」という思い込みが、いちばんよく売れる時代に。
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