先日、サロン内で夏樹静子さんの『腰痛放浪記 椅子がこわい』の読書会を開催しました。

https://wasei.salon/events/777af3475256

この本は、原因不明の激しい腰痛に襲われた作家・夏樹静子さんが、ありとあらゆる治療を試しても治らず、約三年ものあいだ苦しみ抜いた末、最後の最後で心身症としての診断を受けて治療にたどり着くドキュメンタリーのような一冊です。

その治療の過程で医師から告げられるのが、「夏樹静子(ペンネーム)のお葬式を出しましょう」という一言。

つまりこれは、腰痛の本でありながら、弔いの本でもある。

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これを一度目に読んだとき、僕は、謎の痛みに苦しむひとりの作家の物語として読みました。

ただ、読書会に向けて二度目に読み返してみると、まったく別の物語が見えてきたんです。

それは、その本人に最後まで付き合った、周囲の人たちの物語です。周囲の人たちは、みんな薄々気づいていたのではないか。

メンタルに起因する問題だと気づいていなかったのは、夏樹静子本人だけだったのではないか、と。

夫も、家族も、これまで診察してきた何人もの医師たちも、これはたぶん腰だけの問題ではないと、どこかの時点でわかっていたと思うんですよね。

でも、本人が絶対にそれを認めたくない以上、誰もそれ以上は踏み込めない。

もちろん、これは僕の勝手な読みです。事実がどうだったかはわかりません。

ただ、もし自分がその周囲の側にいたらどうしただろうかと考えたとき、僕は自信を持って、きっと途中で静かにこのひとから距離を取っていただろうな、と。

つまり「排除の中の肯定」の論理を実践していたはず。

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この点、誰かが、こちらから見れば明らかに思い込みとしか思えない痛みや傷に囚われているとき、僕らにできることは本当に少ないです。

説得すれば怒られるし、否定すれば相手を傷つける。かといって相手の物語に同意すれば、その思い込みをさらに強化してしまうことにもつながってしまう。

だから僕らは、そんな時いかにも優しそうな言葉を使うようになるわけですよね。

「それは大変ですね」「無理をしないでくださいね」「あなたがそう感じるなら、それが正解だと思います。最後はご自身で決めることですから」と。

一見、どれも相手を尊重した、丁寧な言葉遣いです。

でも、その内実は「もう好きにしろ、勝手にしやがれ」です。

現代社会で「尊重」と呼ばれているものの決して少なくない部分は、相手に関わる責任をこれ以上自分は背負いたくないという、とても丁寧な拒絶なのだと思います。

「あなたの気持ちを尊重します」という言葉は、ときに「もう僕をこれ以上あなたの妄想に巻き込まないでください」という意味になる。

夏樹静子さんの周囲にも、きっとそういう優しい丁寧な拒絶がたくさんあったはずです。

逆恨みされることを恐れて、みんなが少しずつ、優しく退いていく。

でも、最後に出会った平木医師だけは、退かなかった。だから彼女は自殺さえ考えた謎の腰痛から、本当の意味で回復することができたわけです。

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で、この平木医師がやったことは、単なる傾聴でも、無条件の肯定でもありませんでした。まさに「包摂の中の否定」的態度です。


夏樹静子さんが感じている痛みそのものを「存在しない」とは決して言わない。しかし、本人が必死にしがみついている「この痛みは、身体のどこかに異常があるからだ」という物語には、最後まで絶対に同意しない。

あなたの苦しみは嘘ではない。でも、あなたが信じている原因は違う。そして、違うと言ったからといって、僕はあなたを決して見捨てない。

この三つの態度を、見事に同時に成立させたということです。

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現代社会のコミュニケーションでは、包摂と肯定が、ほとんど同じ意味で扱われています。

相手を受け入れるとは、相手の言い分をすべて認めることだ、と。

でも、本当に相手を包摂するためには、ときに相手の自己認識を否定しなければならない場面がある。

また、ここで大事なのは、これは「正論を言う勇気」の話ではない、ということです。

正論を言って去るのは、実は簡単なんです。言うだけ言って、あとは相手の問題だと突き放せばいいだけなのだから。

本当に難しいのは、否定したあとも、その場に残り続けることのほうです。

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とはいえ、夏樹静子さんの痛みのすべてが作り物だったわけではないと思います。

きっと最初はほんとうに、書きすぎや座りすぎによる、ごく普通の身体的な痛みがあったはず。ただその小さな痛みが、いつしか、作家としての自分を維持するための隠れ蓑になっていった。

少なくとも僕には、そういう痛みのグラデーションの物語として読めました。

つまり、痛みの原因についての本人の説明は、真っ赤な嘘だったのかもしれない。でも、本人が感じていた痛みまで嘘だったわけではないんです。

これもいつも書いている「嘘から出たマコト」の話です。

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つまりこれは腰痛だけの話ではないと思っています。たとえば陰謀論なんかもそう。

信じている内容そのものは虚偽であっても、それを信じた人が感じている恐怖や怒りや孤独は、紛れもなく本物。

だから、内容の誤りをいくら指摘しても、その人のマコトは消えない。

嘘を信じている人間の苦しみ自体は、嘘ではないということです。

だからこそ難しい。苦しみを本物として扱うことと、その人の物語を肯定することは、まったく別のことなのに、いまの社会ではこの二つがほとんど区別されていないからです。

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さて、ここからがこの記事のタイトルの話にも繋がるのですが、

『椅子がこわい』のなかで、僕がいちばん心を動かされたのは、絶食療法の場面でした。

本書のクライマックスである治療の極限のなかで、夏樹静子さんは平木医師に対して、激しい怒りや暴言をぶつけます。

それまでは立派な作家として、非常に礼儀正しく、自分を律してきた人が突然取り乱す場面です。

そして僕には、実はこの場面こそが、回復の本当の転換点のように読めました。

正しい診断を告げられたときではなく、言いたいことを散々言って、それでも相手が逃げなかったときや、反論もされずに説教もされず、ただ受け止められたとき。

そこで、彼女が長年抱え込んできた何かが、ようやく成仏したのではないか、僕にはそう読めたのです。

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そして、この発見をさらに進めると、ひとつの仮説が立ちあがってくる。

それは、人が自分を変えようとするとき、古い自分は、誰かを悪者にしなければ死ねないのかもしれないということです。

「苦しいのは、こんな治療を受けさせるあいつのせいだ」「自分がこれまで信じてきたものを奪う、おまえが悪い」そうやって、古い自己は最後の悪あがきのような抵抗をする。

だから、人の変化に対して、本気で付き合った人は純粋に感謝されるとは限りません。むしろ、逆恨みされることのほうが圧倒的に多い。

逆に言えば、だからこそ、みんなそこまでは関わろうとしないんです。

サンドバッグになる勇気とは、殴られ続けることだけではなく、相手の古い自己が最後に暴れる、そのわずかな時間だけ、その場から逃げずに留まり続ける覚悟を持つこと。

相手の怒りを全部真に受ける必要はない。でも、怒っている相手そのものは見捨てない。「受け取る」ことと「聞き流す」ことを、同時にやり続けることでもあるわけですよね。

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ただ、人が変われないのは、本人の執着だけが理由ではないとも思っています。

周囲もまた、その人に変わらないでいてほしいと強く願っているからなんです。

作家には同じように書き続けてほしいし、明るい人には明るくいてほしいし、頼りになる人には、いつまでも頼りになる人でいてほしい。

現代の「推し活」というムーブメントなんてまさにその極みで、ファンは「私たちが好きになったあなたのままでいてほしい」と強く願う。

そして、これは支配であると同時に、紛れもなく愛情でもある。だから単純に否定できないんです。

相手を固定する愛と、相手の変化を受け入れる愛。そのどちらもが、同じ「愛」という言葉で呼ばれてしまっている。

そして厄介なのは、これが自分自身に対しても働くことです。

「自分は作家である。自分は人に必要とされる人間である。」その自己愛が、誰よりも強く、自分自身のことを強く固定してしまう。

弔いとは、大切なものを悲しみながら失うことだけではないんだと思います。

「もう、それら全部をやらなくていいんだ」と自ら望んで降りられること、それを自他ともに許される状況にいることが、何よりも大事なことなんだろうなあと。

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あと、ここまで書いてきて、どうしてもAIの話をしないわけにはいきません。

AIは、僕たち人間よりも、はるかに辛抱強く話を聞いてくれます。同じ話を何度しても絶対に怒らない。どれだけひどい言葉をぶつけても、AIは傷つかない。

一見すると、最高のサンドバッグ的存在です。

でも、ここにこそ人間とAIの決定的な違いがあると僕は思っています。

AIは傷つかない。だから、本当の意味では、関係のなかに残っているわけではないんですよね。

殴られても痛くないとき、相手の前に居続けることは、賭けでも勇気でもありません。AIは言葉を受け止めることはできても、こちらの怒りによって傷つき、それでもなお関係を続けるかどうかを選び直す、ということが原理的にありえない。

しかも、いまのAIは基本的に、利用者の自己物語に沿うように答えようとします。本人が「原因はこれだ」と信じていれば、その原因を強化する材料やロジックを、いくらでも丁寧に並べてくれるわけです。

それはとても快適でありがたいことなんですが、でも、夏樹静子さんの治療に本当に必要だった「あなたの苦しみはわかる。でも、あなたの説明には同意しない」という応答とは、まったく別のものです。

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本書の中でも、平木医師が使っていましたが、禅の言葉に「啐啄同時(そったくどうじ)」というものがあります。

夏樹静子さんと平木医師のあいだに起きたことも、まさにこれだったのだと思います。

そして、この啐啄同時的にタイミングが合うということには、実は前提があると思うんです。

それは、お互いが有限な身体と、有限な感情を持っている、儚い存在なんだということ。

僕らには寿命があり、体力に限りがあり、ひとりの人間に振り分けられる感情にも限界がある。だからこそ「いま、この瞬間に相手に応える」ことにも、意味が生まれる。

AIには、この有限性がないわけですよね。いつでも応えられるということは、裏を返せば、「いま」応えることに何も賭けていないということです。

無限に待てる相手との対話に、啐啄同時は起こりようがないわけです。

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有限な身体を持つ者同士が、互いの残り時間を差し出し合いながら、たった一度のタイミングを合わせること。

そこで相手の怒りにちゃんと傷つき、自分自身もまた変わってしまうこと。

成果物としては何ひとつ生み出さないその時間を引き受けることが、これから人間に残される仕事なのかもしれない、と本気で思っています。

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あと最後に、ひとつだけ書いておきたいことがあります。

ここまで、いかにも「相手の本当の問題が見えている側」の立場で書いてきました。でも、当然ながら、相手が間違っていると確信している自分のほうが、実は間違っている可能性だってあります。

平木医師のすごさは、正しい診断をしたことだけではなく、自分の見立てにも、相手の人生にも、文字どおり身体を張ったことです。

相手にも自分にも賭けたわけです。それは少しのあいだだけでも、相手の旅に真剣に付き合うような態度そのもの。

その人が古い自分自信をちゃんと弔い、新しい自分として歩き始めるまで、関係の外へ逃げずにいてくれて、そして最後は、ちゃんと送り出した。

いろいろあるだろうけれど、きっとそれも、あなたにとって必要な旅になる。そう信じて素直に「ボンボヤージュ」と言えるような関係性。

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そんな、逆恨みされて、サンドバッグになる勇気を、果たして僕は持てているのだろうか、と。

そんなことをとても深く考えてしまいましたし、AI時代に僕らはどうすればそんな関係性をお互いに築くことができるのか。

旅立つ人や新しい門出を迎える人に対して、無事と幸運を祈り合う関係性を育める場を、これからも全力でつくっていきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。