カフェやコワーキングスペースで、誰かのリモート会議が横で行われていることって、誰もが体験したことがあるかと思います。
こちら側からは、画面の先の、相手の顔も、表情も見えない。でも、だからこそ逆に、そのひとが何にいちばん力を使っているのかが、むき出しになる瞬間があるなあと思います。
具体的には、画面の相手の相手を説得しようとしているのか。
それとも、画面の向こうをケアしようとしているのか。
顔が見えないぶん、声色やリズムや間の取り方に、その人の「重心」だけがはっきりと残るなあと。
その感じがおもしろいな、と前々から思っていました。
ーーー
で、最近AIとやり取りをしていて、そのことをふと思い出しました。AIは、そういう重心の出し方まで、かなり自在に調整してくるなと。
同じ存在と対話しているはずなのに、返ってくる言葉の質感がかなり変わるのです。
AIが論点をはっきり整理するときはどこか男性的にも見えるし、感情の揺れや言葉にならないニュアンスを拾うときは、かなり女性的にも見える。
もちろん、本当に性別があるわけではありません。でも少なくとも、コミュニケーションの表面上は、かなり自然に「どちらにも振れる」感じがある。
論理的にもなれる。共感的にもなれる。相手や場面に応じて、その都度かなり自在に質感を変えられる。
そこに、AIのひとつの大きな強みがあるのだと、なんだかとてもハッとしました。
ーーー
それに対して、人間はたぶんそんなふうには生きられない。
どれだけ器用なひとでも、どこかに偏りが出る。性別をカンタンに変えられないように、です。
理屈に寄る人もいれば、情に寄る人もいる。
その偏りは、これまでの社会では、しばしば欠点にもなりました。
優しさを全面に出せば舐められることもあるし、厳しさを全面に出せば怖がられることもある。
ゆえに、自らのビジネスに有利になるように、自分の性格や行動の癖を変更しようという提案が、数多あるビジネス書の提案だったと思います。
ーーー
でも、よくよく考えてみると、その「失い方」にこそ、人格が出るのではないでしょうか。
言い換えると、AIの強みは、どちらにもなれること。人間の強みは、どちらかでしかありえないこと。
この非対称性は、思っている以上に大きい気がしています。
これまでの社会では、感じのよさや、整い方や、バランスのよさが強く評価されてきました。
ある程度どんな人にも対応できること。もちろんそれ自体は大切です。
でもAIは、そこをものすごい速度でコピーしていく。文章を整えることも、論理と共感のバランスを取ることも、相手に合わせて柔らかく言い換えることも、かなり高い水準でできてしまう。
そうなると、人間が同じ土俵でその「うまさ」を競っても、以前ほど意味を持たなくなるはずです。
ーーー
そのとき逆に価値を持ち始めるのは、これまで欠点やノイズとして処理されてきたものの方かもしれないなあと。
頑固さや不器用さ、情の深さや妙なこだわり、簡単には割り切れない感じ、などです。
この人は不器用だけれど、決して見捨てない。この人はうまく説明できないけれど、本気で他者を気にかけてくれている。
小さな共同体では、案外そういうことのほうが大切だなあと。
ーーー
だからAI時代は、ある意味で「人間の復権」でもある。「性別」が2010年代に消え去ったと思ったら、また急激にいま復権してきていることも決して偶然ではなさそうです。
能力主義や平均的なうまさだけでは測れない、人間の輪郭そのものがもう一度価値を持ち始める。
そういう可能性はたしかにあると思う。
ただ、今回あらためて引っかかったのは、そこから先の「わかりやすさ」の方です。
ちなみにここからが今日の僕の主張になります。
というのも、最近本当に増えたなと思うのです。
AI時代なのだから、人間は無意味や無駄や非合理を追求するべきだ、という話が。
これは僕も、半分は正しいと思います。
効率や最適化だけではこぼれ落ちるものはたくさんあるし、偏愛や執着やノイズのなかにしか宿らない価値もたしかにある。
でも、どうも毎回モヤモヤしてしまう。
なぜかというと、「合理的なAI、それに抗う非合理な人間」という構図自体が、あまりにもきれいに整理されすぎているからです。
この対立図式は、一見するとAIへの抵抗のように見えます。けれど、ほんとうにそうなのだろうか、と。
ーーー
むしろこの構図そのものが、あまりにわかりやすく、あまりに拡散されやすいからこそ落とし穴だと思う。
要するに、複雑な現実を認識しやすい二項対立に圧縮しているという意味で、ものすごくAI的でもあるのではないかと思うのです。
ここがいちばん大きい違和感です。
人間らしさを守ろうとして、「無意味こそ大事」「偏愛こそ大事」「非合理こそ人間らしさ」と語りたくなる。
その気持ちはよくわかる。でも、その語りがあまりにも「わかりやすい救済の物語」になってしまうとしたら、それは本当にAIに抗っていることになるのだろうか。
むしろ、AIが理解しやすいかたちにおいて、人間を再定義しているだけではないか。そんな気がしてしまうのです。
ーーー
しかも、この構図のいやらしいところは、反AIっぽく見えながら、その語り方自体はかなりAI的であるところです。
役割分担的や機能分化的で、両者の差異がわかりやすく、物語として収まりがよすぎる。
「AIは合理、人間は非合理」と切り分けた瞬間に、人間の非合理さまで一つの機能になってしまう。
それはもう、生きた混乱(自然)ではなく、システムの中で与えられた役割のほうに近い。でも本当の人間は、そんなにきれいに分けられないはずです。
人間は、非合理だけでできているわけではない。むしろかなり合理的でもある。効率も求めるし、最適化もするし、説明可能性も欲しがる。
一方でAIが扱いきれないものも、単なる「非合理」ではなく、合理と非合理が絡み合った、もっと厄介で整理不能なもののはずです。
なのに、
AI=合理
人間=非合理
と配置した瞬間に、その厄介さが全部消えてしまう。ここに僕は強い違和感があります。
ーーー
たぶん僕が引っかかっているのは、「非合理そのもの」ではないのです。
非合理が、あまりにも都合よく「人間の価値」としてパッケージングされてしまうことに、ものすごく強く引っかかっている。
で、そうなると、本当にこぼれ落ちるものは何か。合理でもなく、非合理でもなく「そういう整理そのものに、乗らないもの」なのかもしれません。
ーーー
ここで、冒頭で考えていた「重心」という話に戻ってきます。
人間の価値は「重心」に宿る。これはたしかにそうだと思う。
でもその重心は、「AIには合理を、私は非合理を担当します」という役割分担の中で立つものではない。
先日読んでいた対談本の中で、哲学者・近内悠太さんが「矛盾があるとどちらにも振り切ったり、割り切ったりできない。だからこそ、揺れる、揺れ続けることができる。それができるのも、一つの成熟の証だと思います」という言葉に強く惹かれました。
大事なのは、合理の側に立つか、非合理の側に立つかではない。
簡単には割り切れない矛盾の中で、それでも何を引き受け続けるのか。
その揺れ方のほうに、ほんとうの人間の輪郭は宿る。
ーーー
むしろ、合理と非合理、論理と感情、整合と逸脱、そういう整理のどちら側にも完全には回収されず、なおそこで引き受け続けてしまう偏りのことを、「重心」と呼ぶのだと思います。
だから、人間の価値は単純な「非合理」にあるのではない。もっと言えば「無意味」や「無駄」を追求することそれ自体にあるわけでもない。
そうではなく「自分が何に引っかかるのか。何をうまく整理できないまま、それでも抱え続けてしまうのか」そこにこそ、そのひとの重心が宿るのだと思います。
ーーー
そしてたぶん、共同体や関係性のなかで最後に信頼になるのも、そういうものです。
そういう姿は「非合理な人間」の演出ではつくれない。なぜならそこには、役割としての非合理ではなく、引き受けざるをえない偏りがあるからです。
ーーー
もちろん、ここでも、危うさはあります。
偏りや重心が価値になる時代には、同時にそれがすぐキャラ化・商品化される時代でもあるわけです。
本来は長い時間をかけてにじみ出るはずの重心が、プラットフォームの中では「見せるための個性」に変わってしまう。
毒舌な人、やさしい人、不器用だけど誠実な人、そうした輪郭が、生き方ではなくプロレスにおける演出になる。
さらに、極端な人ばかりが得をする未来にもなりかねない。
だから、ここでやるべきなのは「もっと尖ろう」ではないし、「もっと非合理になろう」でもない。
問われているのはもっと地味で、もっと厄介なことです。自分の偏りを、その代償ごと引き受けられるかどうか、です。
ーーー
ここまで考えてくると、問いは自然と自分に返ってきます。
では、自分はどんな重心を持って生きていきたいと思うのか。
僕自身には、相手の事情や文脈を汲み取りすぎるところがあります。なぜそう言ったのか、どうしてそう振る舞ったのかを、ついつい考えてしまう。
それは他人に喜ばれるときもあるし、その感受性に助けられてきた場面も実際には多いです。
でも、そこでずっと橋渡し役に回っていると、疲弊もする。
「どちらの事情もわかる」
「その気持ちも理解できる」
それ自体は大事だけれど、それだけでは何も守れないこともあるわけです。
ただ優しいだけでは守れないものがある。でも、優しさを捨てればいいわけでもない。
さて困った、ものすごく揺れる。でもその揺れこそを、今こそ大事にしたほうがいいんだろうなあと思っています。
ーーー
最後にまとめてみると、大事なのは、AI的な合理の反対側に、非合理な人間を置くことではなく、整理しきれない偏りを、それでも自分のものとして、引き受けていくこと、その態度や姿勢なのだと思います。
AI時代に人間が本当の意味で持つべき重心とは、案外そういうものなのかもしれません。
ただ、この違和感は、単なる人間観の話では終わらない気もしているんですよね。
「読むこと」や「考えること」それらに伴った「成長すること」や「変わること」をめぐって最近よく語られる、もうひとつの立派な問題提起にも、同じ構図が潜んでいる気がするからです。
その話は、次回あらためて書いてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/04/03 14:33
「AIは合理、人間は非合理」という物語こそ、いちばんAI的。
4リアクション
このブログは
メンバー投稿記事
ですメンバー登録すると、限定記事の閲覧やメンバー同士の交流、限定イベントへの参加などができます。
4リアクション
メンバーの方はこちらからログイン
