先日、Wasei Salonの中で「パーソナル選書を体験してみよう。本を贈る、贈られる。」というリアルイベントが開催されました。
場所は、高輪ゲートウェイ駅に新しくできた「BUNKITSU TOKYO」という大型書店のレンタル会議室。
https://wasei.salon/events/3bb9e8312adb
参加者同士で対話をしながら、「今のあなたに合う一冊」を探していくような場だったのだけれど、終わったあとで僕の中にいちばん強く残っていたのは、選書の上手さそのものよりも、もっと別の感覚でした。
それが、「相手に合わせすぎないことの大切さ」です。
「本を贈られるとしたら、何を意識してほしいですか?」という質問に対して、僕は笑顔で「下手に、こちら側におもねらないでほしい」と答えていた。自分でも、これが少し意外でした。
今日は、この感覚について、改めてこのブログの中で考えてみたいなと思います。
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まず、ふつうに考えれば、贈り物というのは相手の好みに寄せて、外さないようにするのが一般的です。相手に喜ばれそうなものを選ぶのが、親切だと思われているはず。
もちろん、それは決して間違っていない。
相手を無視して、自分の趣味だけを押し出すような贈り物が嬉しいかといえば、そんなことはないです。
でも今回、いろいろなやり取りをして、自分でも話したりしながら、むしろ逆なんじゃないかと思う瞬間も何度かありました。
相手にぴったり合いそうなものを当てにいくことだけが、いい選書ではないのかもしれないと。
むしろ、贈ってくれる側が本当におもしろいと思っている世界観を、遠慮しすぎずに差し出してくれたほうが、結果的にはずっと深い贈り物になることがある。そんなことを、改めて強く思ったんです。
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つまり、相手に寄せすぎると、贈り物はだんだん「無難なレコメンド」になっていくわけですよね。「あなた向けに最適化された何か」になっていく。
そこには配慮はあるかもしれない。けれど、贈与の熱量は少しずつ失われてしまうわけです。
これは、本の話だけでなく、ファッションの話なんかだと、わかりやすい。
「相手がこういうタイプのファッションを好む人だから、この服が好きそうだ。」そうやって寄せて選ばれたものは、一見すると親切に見える。でも、受け取る側からすると、意外とげんなりすることもあるわけです。
なぜか。
服が好きな人ほど、自分のこだわりが細かいからです。たとえば似ているように見えるデニムでも、シルエットの落ち方や、生地の厚みや、丈のちょっとした差でまったく別物になる。
しかも、見た目やブランドだけじゃなくて、どの年代のアイテムなのかを気にしていたりするひともいる。
外から見たら「この人っぽい」で済むかもしれないけれど、本人の中には、その人にしかない文脈がある。解像度がやたらと高いんですよね。
だから、属性に合わせて必死で寄せたつもりのものほど、かえって相手からは解像度が低く見えてしまう。
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この感じ、もっとわかりやすく言えば、たとえば大谷翔平選手に対して、「野球が好きだから」という理由で、安易にバットやグローブ、スパイクを贈らないのととても似ていると思います。
そんなのは、本人のこだわりが細部まであるに決まっていると誰もがわかるからですよね。
でも、本の話になると、なぜか急に人はそれをやってしまうよね、と思ったんです。
あの本が好きそうだからこのジャンルとか、村上春樹が好きらしいからこの系統とか、哲学が好きそうだからこの一冊、など。
そういう寄せ方は、たしかに大きくは外していないのかもしれない。でも、読書が好きな人ほど、自分なりの読み方がある。どの本をどんな時期に読んだのか、何に救われて、何に引っかかったのかという文脈がある。
ただジャンルが一致していれば届く、という話ではない。
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だから今回のイベントでも、僕はむしろ下手におもねらないでほしいと思いました。
選ぶ人が本気でおもしろいと思っている世界観を、熱を消さずに持ってきてくれたほうがいい。
なぜなら、選書のおもしろさは、「相手が好きそうなもの」を当てることではなく、「私はこれを面白いと思っている」という生々しい世界観が相手にダイレクトに手渡されるところにあると思ったからです。
自分はなぜその本をおもしろいと思ったのか。自分の人生のどの場面で、その本が刺さったのか。何に救われ、何に戸惑い、何をいまだにうまく言えないまま抱えているのか。
そういうものまで一緒に差し出されるとき、本はただのおすすめではなくなる。
一冊の本がただの「情報」ではなく、その人が見ている世界や人生の風景の断片になっていくんですよね。
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選書が偶然の出会いを生むのは、その瞬間なのだと思います。
本という物質のレコメンドではなく、他者の世界観との出会いになる瞬間。自分の好みにぴったり合うからではなく、「あ、この人はこういう場所から世界を見ているんだ」とわかる瞬間。そのとき本は、読まれる対象というより、両者の関係性の媒介となっていく。
ただ、ここで大事なのは、迎合しないことは押しつけることではない、ということです。
相手を無視して、自分だけを貫き通せ!と言いたいわけではない。
相手の話はちゃんと聞く。相手の置かれている状況も受け取る。いま何に悩んでいて、何を読みたくて、何に疲れているのかなんかも、ちゃんと聞く。そのうえで、それでもなお自分の熱までは消してしまわないこと。
このアンビバレントな立場、その矛盾の中で1冊を決め切ることが大事なのだと思います。
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そしてこの感覚は、今回急に思いついたものというより、僕の中では以前からどこかで引っかかっていたものなのだと思います。
以前、ブログにも書いたように、思いがけない贈り物をもらったときにも、似たようなことを感じたことがありました。
ちゃんと自分に向けられているのに、自分だけに過剰に向けられてはいない。自分宛てなのに、自分宛てじゃないと感じさせてくれるような、あの絶妙な距離感。
あれがどうしてあんなに嬉しかったのか、あとから考えてみると、やはり「やりすぎていなかった」からだったんだと思います。
相手に気を遣っていないわけではない。でも、気を遣いすぎてもいない。こちらの逃げ道もちゃんと残してくれている。
今回の選書にも、どこかそれに近いところがある気がしました。
つまり、本当に嬉しい贈り物というのは、全面的に相手へ寄り添いきったものというよりも、ちゃんと自分の側の世界を持ちながら、それを相手が受け取りやすい温度感において差し出してくれるものだと言えそうです。
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この感じについて考えているとき、僕はどうしても、日本語の「つまらないものですが…」という決まり文句を思い出してしまいます。
もちろん、あれは本当に「つまらない」と思って渡しているわけではない。むしろ逆で、本当はいいと思っている。ちゃんと渡したいと思っている。
でも、その本気を剥き出しのまま相手にぶつけない。ほんの少し和らげて差し出す。そのおかげで、相手も受け取りやすくなる。
ここには、偏愛を差し出す強さと、それを押しつけにしない節度が同時にある。
僕はこの感覚がとても好きだし、大事だと思っています。
自分が本当にいいと思っているものを渡す。でも「これが絶対にいいから読め」という顔では絶対に渡さない。
その緩衝材があるから、贈与であっても、ハレーションを起こしにくくなる。
そう考えると、選書という行為は、ただセンスを見せることでも、相手に最適化することでもなく、偏愛と節度のあいだに橋をかける行為なのかもしれない。
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そして、これはいまの時代において、かなり大事なことのようにも思います。
いまは何でも「あなた向け」になっていく時代です。
好みに合いそうなものや失敗しないおすすめ、なんでもかんでもあなたに最適化された提案がなされていく。AIもアルゴリズムも、そのことにどんどん長けていく。たしかに便利だし、助かる場面も多い。
でも、だからこそ逆に、人間にしかできない贈り方なんかも同時にハッキリしてくるんだと思います。
AIは、相手の好みに合いそうなものを返すのは得意。でも、「私はこれをどうしてもあなたに渡したい」という偏りや熱量は、やはり人間の贈与の側にしか残っていないし、相手が人間だから、僕らもそれを素直に受け取れる。
そういう少し不器用なやり方のほうが、かえって深く相手に届くことがあるということです。
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最後にまとめると、選書のおもしろさは、「あなた向け」をうまくつくることではなく、「私が本当にいいと思っている世界」の一部を、そっと橋を架けるようにして、相手に手渡すことにあるのだと思いました。
そういう贈り方がまだ人間の側に残っているのだとしたら、それはAI時代において、かなり大事にしてみてもいい、人間らしい「不器用さ」なんじゃないかと感じます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/04/02 14:15
相手におもねらないことが、いちばん深い贈り物になる。

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