昨日、Wasei Salonの中で、内田樹さんの新刊『老いのレッスン』の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/c580869345a7

この本は「老い」というタイトルでありながら、実際には30代の編集者との往復書簡の形式で進んでいきます。

「老い」というよりは、むしろ「成熟」みたいな話を、質問と回答のキャッチボールで深めていく内容。

Wasei Salonの中でも30代のメンバーが一番多いので、この内容はきっと喜ばれるだろうなと思い、今回企画させてもらいました。

結果として、本当に素晴らしい読書会になったなあと思います。

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で、今回の読書会で特に印象的だったのは、多くの方が「コーリング(呼びかけ)」について語っていたことでした。

「天職とは何か」を考える時に、内田樹さんが必ず持ち出す鉄板のお話です。

それぐらいこのお話には、多くのひとの心を打つ納得感があるお話なのだと思います。

もちろん、僕も大好きでこのブログでも、過去に何度もご紹介してきました。

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とはいえ同時に、読書会の中では問いも出てきました。

「コーリングだけで、現代社会のキャリアは築けるのか?」

こちらの問いも本当にそう思います。

周囲から届く「あなたにこそ、お願いしたい」という声ばかりに耳を傾けていても、いまの世界には、呼びかけのノイズがあまりに多すぎる。

だからこそ、現代のビジネス書は、だいたい決まって「本当にやりたいこと以外は、全部断れ」と語るわけですよね。『エッセンシャル思考』などはわかりやすい。

たしかに、それも一理ある。

でも、じゃあ僕らは、本当の意味でどうすればいいんだろうか。

どうやって、自らに届く呼び声、そんな「コーリング」と対峙すればいいのか。

改めてこの問いについて、今日のブログの中でも考えてみたいなあと思います。

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この点、まず、このコーリングの話を、振り返っておきたいと思います。

少し実際に『老いのレッスン』から引用してみたいと思います。

「天職」という言葉があります。「天から授かった職業、その人の天性にかなった職業」という意味です。みんな「天職」に就きたいと願っている。当然ですよね。     
さて、「天職」を英語で何というかご存じですか?     callingというんです。「呼ぶこと、招待、神のお召し、召命」と並んだ後に「天職」という訳語が出てきます。
(中略)
おわかりですか?    僕たちが何か僕たち以外の人にはできない仕事、余人を以ては代えがたい仕事をなす時、僕たちはいつもこの原型をなぞります。「呼びかけに応答する」のです。人は必ず「呼びかけに応える」というかたちで「天職」に出会います。


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この内容を踏まえて、人が自分の「天職」に出会うのは、だいたい誰かから「ちょっと手を貸してくれる?」という支援の呼びかけを受けたときというのは、本当にそう思います。

とはいえ、問題は、どれが本当の意味で自分を呼ぶ声なのか、わからないこと。

お子さんがいらっしゃるメンバーは、「子供が自分のことを呼ぶ声が大きすぎて、会社のメンバー(仕事)からの呼びかけに対して、応答することができない場合も多い。」と語られていました。

また冒頭にも書いた通り、呼ばれていることだけでは、現代社会においてキャリアを築くことができないという不安や不満も本当におっしゃるとおり。

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で、この点、内田さんは報酬が大事なのか?と別の場面で語られていました。

みなさん方は「天職」に出会いたいんですか、それとも「給料のいい仕事」とか「みばえのいい仕事」とかに就きたいんですか?    どっち?     こういうふうに問い詰めるのって、あまりいい趣味じゃないんですけれど、いま僕に問われて、「そんなんじゃなくて、ただ職場の雰囲気のいいところで働きたいだけです」といま思った人、それ正解ですよ。


このあたり、内田さんとしても、同じ質問を繰り返し受けてきたからこそ、ついに言明した、という感じがあるなと思いました。

社会的地位や報酬なのか、それとも本当に自分にとっての大事な天職を見つけたいのか。

そしてこの二者択一を迫られたら後者を選びたいと思うのが、人間が一番切望するところだと思います。

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ただ、もちろん、最初からそうやって割り切って考えられたらいいけれど、実際は、そうやって割り切ることはできないから、困っているんだという話でもあると思うんですよね。

これがまさに、現代社会で生きることのむずかしさ。

現代には、必ず「置いていかれてしまう恐怖」がある。FOMOみたいなものです。

特に今みたいなインフレの時代では、それがそのまま格差にもつながってしまう。

その格差がいつの間にか埋められない溝に変わり、今後はさらにそこから「階級」にもつながっていきそうな勢いが、まさに今なわけです。

昨今の政治の分断が「右・左」ではなく、階級としての「上・下」で争われていると語られるようになりましたが、ほんとうにそんな階級闘争の話になりつつあるなと思います。

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だからこそ、コーリングの話で大事なのは、誰のどのような呼び声に自分は応答するべきなのか、という点。

繰り返しますが、いまは呼び声が溢れている世界です。インターネット上にも、リアルにも。

闇バイトとかもそうですよね。いい人そうなフリをして善意に付け入るような形で、呼びかけてくる人たちが山ほどいる。

また、音声コンテンツがこれほど普及してくると配信者の声が直接、自分の耳に囁かれるわけだから、それもひとつのコーリングと言えなくもない。

宛先がない音声配信だとしても、「私が受け取った」と思えば、それは私への呼びかけになる。

実際、そうやってWasei Salonの少なくないメンバーが、僕のVoicy経由で入ってきてくれた。

だからこそ、自分が信じるべき「本当の呼び声」とは、誰のどのような声なのか、逆に問わざるを得ないタイミングだなと。

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この点、内田樹さんがコーリングを語るとき、よく引き合いに出されるのが『聖書』に出てくる預言者・アブラハムの話です。

神の声を、誰よりも先に聞き取った人、それが預言者なのだと。

このあたりは宗教の議論も絡んでくるので、気になる方はぜひ内田さんの他の本なども合わせてぜひ読んでみて欲しいです。

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ただ、僕がここで言いたいのは、呼び声というのは、もっと抽象的な「呼び声」なんかも含まれるんじゃないか、ということです。

だからこそ、ハイデガーも自らの「良心の呼び声」に耳を澄ますことが大事だと語った。

きっと、西郷隆盛の「敬天愛人」なんかにも近い概念だと思うのです。

西郷は、他の誰でもなく「天の声」を聴いたからこそ、明治維新にも踏み切れたわけですよね。

ただし、ソレが誰から、どこから突然響いてくるかは、わからない。

同僚からかもしれないし、子供からかもしれない。

とはいえ、ただ一つ確かなのは、天職に導いてくれる「真の呼び声は、常に不意に訪れる」ということを、内田さんはここで語りたいのだと思います。

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そうなってくると、いちばん大事なのは「聴く練習」なんだと思うんですよね。

「耳を澄ます訓練」と言い換えてもいいかもしれない。

わかりやすいところで言えば、自らの日々の生活を整えることも、その一部だと思います。

たとえば、さすがに二日酔いでぐでんぐでんのときの自分の頭が感知した、呼び声を「ソレ」とはきっと思えないはずだから。

要するに、呼び声に耳を澄ますことができて、「ちゃんと自分に届く」と信じられる自分になること。

言い換えれば、自分のことを「コーリング」を聴き取るだけに値する「共鳴体」や「受信体」にしていくこと。雑音としての呼び声、そのノイズに溺れず、届くべきものがちゃんと届く身体と生活にしていくこと。

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もちろん、他者に対して敬意と配慮と、親切心を施すとかも、その一部だと思います。

「徳を積む」というと古臭く聞こえるかもしれないけれど、西郷の「敬天愛人」の「人を愛する」って、まさにこれだと思うんですよね。

天の声を聴くだけの価値がある人間だと、自分自身が思えているかどうか。その自己信頼がなければ、天の声だって聴こえてこない。

だから西郷はあれだけ「人を愛して、慈愛を持って、人に接した」のだと思うのです。

まさに、情けは人の為ならず、ですよね。

つまり、西郷隆盛の「敬天愛人」も、まさに天のコーリングを受信するための、いわばチューニングだったのでしょう。

もちろん、そんなふうに人を愛する西郷だから、「天の声を聴いても当然だ」と周囲の人々だって思ったでしょうし、本人もきっと、いつだってその呼び声に対応できる準備が整っている、そんな生活を日々実践している自負はあったのだと思います。

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で、今日のこの話は、逆に言えば、それを繰り返した時に「聴き取った自分の呼び声こそがソレだった」と、あとから振り返った時にそう思える自分がいる、ということだと思うんですよね。

つまり、呼び声は最初からはっきりと聞こえるとは限らない。

でも、日々の選択を繰り返していくうちに、未来から振り返ったときに、「あのとき私は確かに呼ばれていた」と実感できる瞬間がやってくる。

これは、アドラー心理学『幸せになる勇気』における「運命」の解釈なんかにも、非常に近い話だと思います。

運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。われわれは運命の下僕になってはいけない。運命の主人であらねばならない。運命の人を求めるのではなく、運命といえるだけの関係を築き上げるのです。


ただ、その始まりやきっかけは、本当に不意な出来事だった、ということなのだと思います。

狙って探せるものではない。むしろ、狙えば狙うほどズレていく。

多くの運命的な恋愛を描く古今東西の物語が、偶然の出会い、たとえば相手の落とし物を拾ってあげたとか、そういうところから始まるのも、きっとそれが理由なんだと思います。

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最後にまとめると、どうやったら自分は、全身全霊でその呼び声をキャッチすることができるのか、それをを日々必死で考えて、その周波数が合う人間になれているかどうかを見定める。

「いいアンテナの人間ってどんな人間だろう?」という問いを立てて、それを自らに実践していく。

ありとあらゆる宗教や武道などの「修行」と呼ばれるものも、きっとそのために行われているのだと思います。

そのように自分を信じて、呼び声に導かれて、彼岸に渡る。ジャンプできるようになれるような人間になる。

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なにはともあれ、コーリングも、自らの力で築き上げるもの。

未来から振り返ったときに、「あのとき、私は確かに呼ばれていた」と実感できるように善処する。

本物に触れ続けるというのは、つまり、そういうことなんじゃないか。

あとこれは最後に完全に余談なのですが、今回の読書会は、僕にとって「奇跡みたいな出来事だったな」と思います。

読書会中でも話題になったけれども、いま大炎上中の内田樹さんの本の読書会をこのタイミングでやること自体、ものすごく反感を買いそうなのに、それでもちゃんと予定通りに集まってくれた。

しかも、その炎上とはまったく関係なく、書かれている内容について、落ち着いて、ゆっくり対話できる。

これって当たり前のようでいて、本当に当たり前じゃない。

見て見ぬふりをするわけでもなく、このタイミングで冷静に読書会と対話ができること。それって本当にすごいことが行われていたよなあと思う。

世間的なイメージではなく、書かれているテキストで判断できるということだから。

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この空間が、ちゃんと表の世界とは異なる「別世」になっていて、本当に嬉しいなと思いました。

そして、こういうところの呼び声も、ひとつ大きく信頼に値するなと思う。

炎上などの「外側の騒音」を遮断し、テキストそのものと誠実に向き合えるWasei Salonの空気感、それ自体が、メンバー全員が「良導体」であろうと努めている証でもあるわけだから。

だからこそ僕は、みなさんからの呼びかけに対しては、丁寧に応答していきたいとも純粋に思います。

そう思える場を、共に耕してもらうことができて本当に嬉しいですし、ありがたいことだなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。