最近、一周まわって、Xは「本人へのラブレター」を書く場所になっているのではないか、と思っています。

もちろん、厳密にはラブレターではない。相手に直接送っているわけでもないですからね。

でも、それが結果的に、アルゴリズムにのって本人のタイムラインにも直接流れていくことがある。

届いてほしいけれど、直接読んでくださいとは言っていない。

この距離感が、いまのXの新しさであり、おもしろさなのだと思います。

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というのも、先日、Xでバズっていた投稿を見かけました。

多くの人が目にした投稿だと思うのですが、内容を要約すると、いまのXでは、フォロワー数が十数程度でも、作者やアーティスト、タレント本人のタイムラインに投稿が流れていくことがある、という話でした。

しかも、名前を直接書いていなくても、届くことがある。

いわゆるエゴサを避けてエアリプしていたとしても、アルゴリズムが勝手に文脈や反応の傾向を見て判断をし、その投稿に関係しそうな背景や文脈を持つ人たちのおすすめタイムラインに流してしまう。

このバズツイートを読んだときに、なるほどなあ、と思いました。

頭が良すぎるAIに、完全におせっかいされてしまっている感じです。

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つまり、いまのXでは、作者名やアーティスト名、作品名といった固有名及びそれを匂わせる周辺用語でさえも、アルゴリズムに対して、とても強いシグナリング効果を及ぼしているわけです。

これって変な話というか、人間の直感的感覚と大きくズレる部分ですよね。

一番巨大な空間ほど、本人に出会える可能性が、一番高まるわけですから。

それは、けっこう怖いことでもあります。なぜなら、当然、相手への悪口や皮肉なんかも直接本人に届くからです。

逆に言えば、その人間の認知のバグ、Xのだだっ広い空間で本人に届くわけがないという油断や隙、認知の歪みこそがつかれているわけです。どう考えても現実の物理法則に反するから、何気なく気軽に本音も書けてしまう。

本人に聞かせるつもりのなかったダル着でテレビの前でつぶやくような雑な感想でさえも、本人のタイムラインに流れてしまう。

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でも、僕がこの話をおもしろいと思ったのは、怖いからではなく、むしろ逆です。

悪口が届くなら、感謝の声だって届く。皮肉が届くなら、敬意だって届く。

あの作品に救われたとか、あの言葉に励まされたとか、そういう祝いの言葉も、本人にちゃんと届くかもしれないわけです。

そして、ここが大事なので繰り返したいのですが、それは本人に直接送りつける言葉ではないわけですよね。

本人に直接DMを送ると、少し重たい。直接送るという行為には、どうしても相手に「読む義務」のようなものを発生させてしまうところがあるからです。

「読んでください。受け取ってください。できれば反応してください」だと、逆に弾かれるのがメッセージです。

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でも、Xにそっと書くなら、少し違いますよね。

読んでください、とは誰も言っていない。でも、読まれてもいい言葉として置いている。

その祈りのようなものがアルゴリズムによって、たまたま本人のもとに届くかもしれないし、本人も、そういう本音の言葉こそ、覗き見するような感覚で、読みたいと無意識に思っているわけです。

この感じは、かなり現代的な「儀礼」のようにも思えます。

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一方で、すべての言葉が直接本人に届いてほしいわけではないとも思います。

ここもまた、すごく大事なところですよね。

何かを受け取って、考えるという行為は、自分のなかの違和感や、まだ言葉にできていないモヤモヤと、真正面から向き合う行為でもるからです。

そのときに、本人の存在が逆に少し邪魔になってしまう場合もある。それを本人に読まれる前提では書きたくないというような。

すでに完成された感謝や敬意なら、届いてもいい。むしろ、届いたら嬉しい。

でも、未完の批評や違和感、あるいはまだ自分の中で整理しきれていない感想は、本人に直接届いてほしいわけではないし、そういう言葉も一方で必ずあると思うのです。

さらに、Xに長い違和感や批評なんかを置いてしまうと、本人に届くだけでなく、ファンや関係者にも誤読される可能性がある。

本人はちゃんと理解してくれていても、まわりが揚げ足を取ってくる。

だからこそ、もう少し届く速度が遅く、届く範囲が限定され、なおかつ完全には閉じていない場所も同時にほしくなる。

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ここ数年、僕自身は運営しているWasei Salonに、そういう文章を数え切れないほど大量に書いてきました。

人によっては、noteの有料記事のようなクローズドな場所に、そういう言葉を書いてきたと思います。

そこでは安心して書けるから、です。

具体的な作品名や作者名も出しながら、同じ場にいる人たちと、同じ前提や温度感を共有しながら話すことができる。

むしろ、SNSが一般化して広くインフラ化してしまったからこそ、逆説的にそんなクローズドな場が必要になったと言ってもいいのかもしれません。

これは、とても大事な空間なんですが、同時に、そこにはひとつ大きな弱点もある。

そこには、外へと向かう「誤配」がほとんどなくなってしまうのです。

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その場にいる人たちにはちゃんと届くし、特定のメンバーとは議論が起きる。でも、まだ知らない誰かには届かない。

似たような問いを抱えていて、似たような価値観を持っているかもしれない人や、まだ出会っていないけれど、どこかで近いことを考えている人との接点が生まれにくい。

安心して書けるけれど、閉じているがゆえに、偶然の出会いがまったく起きないジレンマがあるわけです。

逆に言うと、10年以上前のSNSやブログ文化には、むしろこの誤配の気配が多分にあったわけですよね。そして、そこで生まれる新たな出会いこそが、楽しかった。

きっと僕らがいま飢えている出会いと、届きすぎてしまうことの窮屈さ、あるいはエコーチェンバー的に狭すぎてしまうことの窮屈さは、このあたりにあるような気がしています。

言い換えると、このジレンマを打破してくれるものを無意識に探していたのかもしれません。

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そこに、ちょうどよく現れているのが、Substackなのではないかというのが、今日の一番の主張です。

Substackは、Xほど開かれていない。少なくとも日本語圏で使っている感覚としては、Xほど検索に強くない。エゴサもかなりしにくいです。

これは、たまたま僕の使い方の問題かもしれないし、単純に日本語検索との相性がまだ弱いだけかもしれません。

でも、現時点の体感として、Substackは本人に届きすぎない。

この検索されにくさ、届きすぎなさが、実は一周回ってかなりいいなと思うのです。

一方で、Substackは完全に閉じているわけでもない。

購読機能があるし、タイムライン機能もある。ちゃんとリポストや引用のような形で、関心の近い人たちのあいだを、少しずつ回遊していく動線が設計されている。

その広がり方が、Xのような爆発的な拡散ではなく、10年以上前の「Twitter+独自ドメインのブログ」の組み合わせのように機能し、関心の近い人に向かって染み出していく感じに近いです。

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まとめると、Xとnoteの組み合わせは、かなり高い確率で今は本人に届いてしまう。

一方でオンラインコミュニティや、有料マガジンは外にはまったくもって広がっていかない。

Substackは、そのあいだにある。完全に開いているわけではない。でも、完全に閉じてもいない。

この半クローズドな感じが、いまのSubstackのおもしろさです。

これは、語義矛盾を承知で言えば、「コントロール可能性のある誤配」なのだと思います。

書いていて、自分でも矛盾しているなと思います。コントロールできるなら、それはもう誤配ではないのではないか、と。

たぶん、その通り。それでも、この言い方を手放したくない感じが強くあります。その、矛盾したまま残っている感じを、ほかの言葉でなんだかうまく言えないからです。

アルゴリズムを避けられる誤配、と言えば少しは伝わりやすくなるかもしれません。

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こうやって考えてくると、僕たちはいま、単に「どのプラットフォームに書くか」を選んでいるわけではないのだと思えてきます。

もう少し正確に言えば、言葉の曖昧な宛先の、その塩梅みたいなものを選んでいる。

本人に届いてほしいのか。本人には届きすぎないでほしくて、すでに信頼している人たちとだけ話したいのか。

一方で、まだ知らないけれど、きっと同じ問いを持っている誰かに思わぬ形で届いてほしいのか。

その距離感ごとに、書く場所を選んでいるとも言えそうです。

だから、XとSubstackを並べて、どちらがいい場所かと考えてみても、実はあまり意味がない。

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公開か非公開か、無料か有料か、拡散するかしないか。そういう分類だけでは、もう、いまのネットの言葉の置き場所は捉えきれないなあと最近、ほんとうに強く思います。

その言葉がどこまで届き、どこからは逆に届きすぎないのか。

そして、どれぐらいの誤配を自分自身は望んでいるのか。

以前「編集とは、不一致を避けることであり、人を遠ざけることも編集だ」とブログに書いたことがありますが、まさにその感覚です。

それぞれの場所に、それぞれの距離感がある。

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ただ、最後にすべてひっくり返すようなことを書いてしまうと、こうやってきれいに割り振ってしまうと、それはそれで、嘘になってしまうような気もどこかでしています。

実際には、その日の自分が、どれくらい届いてしまうことに耐えられるか、その気分によって置く場所が変わっているだけなのかもしれません。

耐えられる日もあれば、そうでない日もあるというような。

同じ言葉でも、Xに置ける日もあれば、Substackにしか置けない日もある。あるいは、クローズドな場所にしか置けない日もある。

いま自分はどれくらい距離感に耐えられる言葉を紡ごうとしているのか、それを自らに問いかける時に、自己と向き合い、真剣に考えるし、考えざるを得ないということなんでしょうね。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。