体力がないひとって、体力がないことを理由になんでもかんでも「でも私、体力がないんで…」の一言で片付けてしまうよなと思います。

そして、「人生のうまくいかなさ」のすべてを体力の問題に還元しがち。

もしくは、そんな甘い言葉を発信し続けているインフルエンサーやスピ系占い師みたいなひとにだまされて、ずっと「体力がない私」を生き続けている。

でも、そんなことせずに、ふつうに体力をつける努力すればいいのになと思ってしまいます。

「体力がない」と嘆いている人に対して「じゃあ、何かやっているんですか?」と聞けば、大抵何もやってない。

そりゃ体力がつかなくて当然だよなあと。

べつにアスリートのようになれというわけじゃなくて、ただ昨日の自分よりも少しでも体力がつけばそれでいい。

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体力に限らず、勉強もそうだし、習慣なんかもそうだけれど、何もやっていないのに、それを自分の人生がうまくいかない理由にされても「じゃあ、さようなら。何も努力せず、自分の生まれ持ったものを呪う人生を歩んでください」と世間も見放すに決まっています。

そんな人間でも声をかけてくれるひとは大体詐欺師だし、そういう自分がついつい観てしまうコンテンツも、大体そういう弱さに付け入るようなコンテンツだったりするから、ほんとうに何か少しでも努力はしたほうがいいはず。

ここで、大事なことは「昨日の自分よりも少しでも自信がつくこと」だと思います。

1歩でも前に進めば、それは昨日の自分よりも体力がついた証。周囲との比較なんて、一切関係がない。

今日は、Wasei Salonのタイムラインに何気なく投稿したこの内容について、もう少しその真意についてブログ内でも丁寧に考えてみたいなと思います。

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さて、この話をすると、すぐにふたつの反応に分かれると思います。

ひとつは、「そうだそうだ、だったら体力をつければいいじゃないか!」という反応。

つまり、体力がある側に回ればいい、という短絡的な話です。

体力がある人に向かって、「あなたたちは、体力があるからいいですよね!」と皮肉めいて文句を言ってみても、その言葉をぶつけた相手の体力が低減するわけではない。

当然、体力がある人を引きずり下ろそうとしたところで、自分の体力が増えるわけでもない。つまり、他人の足を引っ張ってみても、自分が「ある側」に移動できるわけではないわけです。

それを悟ったひとたちは、「じゃあ、自分もある側に回れ」と諭す。

でも、僕が言いたいのは、そういうことではないんです。

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一方で、もうひとつのわかりやすい反応もある。

「体力がない人にも、もっと社会は配慮すべきだ」というリベラル的な応答です。これもまた、本当にその通りだなあとは思います。

本当に体力がない人が世の中には一定数必ずいる。病気の人もいるし、障害のある人もいる。

ほかにも、長年の疲労や、環境の悪さや、メンタルの不調によって、どうしても動けない人もいると思います。そういう人たちに向かって、ただ「努力不足だ」と言うのは、あまりにも酷だと。

社会には「合理的配慮」が必要だし、無理をしなくても生きられる仕組みは必要だと叫ぶ。

弱さを持った人が、弱さを隠さずにいられる場所が必要だという意見は、僕も大賛成です。

ただ、それは圧倒的な真実なんだけれども、社会はそんなにすぐすぐ変わってくれるわけではないということも、また圧倒的な社会の真実。

全然変わってくれない社会を恨みながら、日々生きることになる。社会を呪い続ける人生になるわけです。

これはこれでつらい。

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僕が言いたいのは、もう少し異なる3つ目の視点なんですよね。

それは、「私、体力がないんで」という言葉が、いつの間にか、その人を守る言葉ではなく、その人を閉じ込める言葉になっている場面があって、それだともったいないよね、ということ。

つまり体力や学力がないこと自体が、問題なのではない。問題は、「体力がない私」という自己認識に自分自身が居座ってしまうことなのだと思う。

「私、体力がないんで…」そうやって、自分の人生のうまくいかなさを、全部「体力」や「学力」の問題に還元してしまう。

最初は本当に苦しかったのだと思うのです。周囲と異なり、体力がないことで、人と同じように動けなくて、悔しい思いをしたこともあったのだと思う。

でも、その言葉を何度も何度も使っているうちに、いつの間にかそれが「状態」ではなく、自己の「身分」や「個性」のようになっていく。

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「私は体力がない側の人間です。だから、できません、変われません。ゆえに、もっと私(と同じような人間)に配慮してください」

もちろん、そうやって社会に対して言いたくなる気持ちもわかる。でも、その場所にずっと居座っていると、たぶんどこかで、自分で自分を見捨てることになってしまう。

ここがいちばん危ないところなのだなと僕は思っています。

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そして、世間は、体力がない人をすぐに見捨てるわけではない。

むしろ、新しい挑戦を始めた人に対して世間は意外とやさしかったりする。

その人に本当に体力があるかどうか、最初からうまくできるかどうか。そんなことは、案外そこまで見られていない。

それよりも、

「ああ、この人は少しでも前に進もうとしているんだな」
「自分の足で立とうとして、何かを始めようとしているんだな」

そんなことのほうを、周囲はちゃんと見ていたりする。

もちろん、いつも誰かが助けてくれるわけではない。世間はそんなに甘くはないかもしれない。でも、少なくとも「何かを始めた人」に対しては、手を差し伸べる余地が生まれてくる。

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これは逆に言えば、体力がない人が見捨てられるのではなく、体力がないことを理由にして、何も始めようとしない人が、だんだん見捨てられていくというのが社会の真の構造だということです。

これはかなり厳しい話ですし、書きながら自分でも耳の痛い話だなと思いながら書いています。

でも、たぶん本当にそうなのだと思います。周囲の人たちだって、最初からその人を見捨てたいわけではない。最初は励ますし、最初は相手の話を丁寧に聞いてくれる。

ただ、そのたびに、

「でも、私は体力がないんで…」
「でも、私には無理なんで…」

と返され続けると、だんだん手を伸ばせなくなる。

そして最後には「この人は、助けてほしいのではなく、自分が変わらない理由を承認してほしいだけなのかもしれない」と思い、そっと距離を置いてしまう。

これが本当にもったいない。

なぜなら、そうやって周囲のまともな人たちが少しずつ離れていくと、冒頭にも書いたとおり、最後まで声をかけてくれる人たちは、だいたい怪しい人たちばかりになるからです。

「あなたは悪くない、あなたはそのままでいい」そういう優しい言葉は、一瞬は救いになるし、もちろん、そういう優しさが、本当に必要なときもあると思う。

だから、そのような優しい言葉に常に警戒し続けろとも思わない。

今まさに壊れそうな人に向かって「もっと頑張れ」と言うのは、ただの言葉の暴力です。

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でも一方で、「あなたは悪くない」という言葉を商売にしている人たちは、相手が本当に自分の足で立ち始めると困るわけですよね。

その人たちが少しずつ体力をつけて、少しずつ自信を取り戻して、少しずつ自分の判断で歩き始めたら、もうその甘い言葉に依存してくれなくなってしまうから。

自分が詐欺師の自覚はあるひとはいいですが、ほんとうにそれが「相手への優しさ」だと思って、100%善意で、そういうビジネスをしているひとたちも世の中にはほんとうに多いから、ここには本当に気をつけたほうがいいなと思います。

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僕は、人間の弱さを否定したいわけではありません。

でも、弱さを理由にして、自分が変われる可能性まで手放してしまうのは、あまりにももったいないなと思う。

だから、一度くらい、「自分はこういう人間だ」という物語のほうを、ぶっ壊してみてもいいのではないかと。

いちばん極端でラディカルな意見だと思われてしまうかもしれないけれど、ここが今日の僕の一番の主張です。

もちろん、身体や心を本当の意味でぶっ壊せ!と言っているわけではない。

そうではなくて、「私は体力がない」「私は変われない」という、その自己説明のほうを一度、ちゃんと壊してみればいいのにと思う。

どうせずっと同じ場所でぐるぐる悩んでいるのなら、一度くらい何かを始めてみればいい。

たぶん、人間はそんなに簡単には壊れないから。

そして仮にほんとうにぶっ壊れたとしても、「ここまでやって壊れたなら仕方ない」と思える壊れ方には、どこか自分自身に納得感があるはず。

自分に納得感が持てていれば、また、自分から進んで再起しようとも素直に思えるはずなんです。

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そして、何もしないまま腐っていくより、よっぽどそのほうが「自分の物語」になる。

僕は、本当の物語というのは「私はこういう人間だから」という自己説明が通用しなくなったところから始まるのだと思っています。

フリーレンだってそうだったじゃないですか。そういう小さな経験から、ようやく本当の自分の物語は始まっていく。

逆に言えば、「私はこういう人間だから」と旅に出ない理由を自ら一生懸命に説明し続けているうちは、まだほんとうの意味での「自分の物語」が始まっていないのかもしれない。

それは物語というより、自己弁護に近い。もっと言えば、自分が少し拗ねていることを、自分でも認めたくない状態なのかもしれない。

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今日の話を最後にまとめてみると、体力がある側にまわって、他人より強くなれと言いたいわけではない。

一方で、社会に対して合理的な配慮を求めるな、と言いたいわけでもない。

ただ、体力がない自分を理由にして、自分で自分を見捨てることだけはやめたほうがいいと思うという話です。

昨日の自分より、少しだけ前に進む。昨日まで信じていた自分の物語だと思っていたものをぶっ壊してみる。

たった、それだけでいいのだと思います。

その一歩は、他人から見れば、ほとんど何も変わっていないように見えるかもしれない。

でも、自分だけはちゃんと知っているわけです。昨日の自分より、少しだけ前に進んだことを。少なくとも今日だけは、自分で自分のことを完全には見捨てなかったことを。

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努力とは、自分を責めることではない。努力とは、自分で自分に対し、優しく手を差し伸べることなのだと思います。

昨日より一歩だけ前に進んだ事実があれば、少なくとも自分だけは、自分に対して少しだけ手を差し伸べることができるわけですから。

そうやって、自分で自分のことを投げ出さずに大切にしているひとのところには、ちゃんと同じように手を差し伸べてくれるひとたちが、必ず現れる。

人は、目の前の相手が自分自身のことをどうやって扱っているかによって、その人の扱い方を無意識に決めているわけだから。

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「体力がない私」に居座る必要はないんです。強い人間にならなくてもいい。

でも、弱さを理由にして、自分の物語を始めないままでいる必要も、同じぐらいまったくない。

苦手なことであっても、昨日より一歩だけ前に進んでみる。それはとても小さなことかもしれないけれど、そこからしか始まらない物語というのが、たぶん間違いなくあるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が誤解なく伝わっていたら、ほんとうに嬉しいです。