昨日、情報の交差点とは、特定の場所のことではなく、そこでのふるまいと通り道が生まれてくる状態のことだ、という話を書きました。


Twitterでも、mixi2でも、Substackでも、どのサービスを使うかだけでは、情報の交差点は生まれてこない。

大事なのは、その場所でどのようにふるまうのか。

具体的には、自分の言葉だけで世界を閉じるのではなく、誰かの言葉に接続し、自分が見つけたものをそっと手渡し、そこからまた別の誰かの情報に思わぬ角度から接続していく。

そういう「インターネット的」なふるまい、「情報の交差点」づくりが、いまもう一度必要なのではないか、ということを書いたつもりです。

そのうえで今日は、いま僕がSubstackに感じている可能性について、もう少し具体的に考えてみたい。

いま僕がいちばん気になっているのは、Substackが、言葉をもう一度「読み続けられる関係」に戻せるかもしれない、ということです。

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現代のSNSでは、言葉がどうしても一回ごとの反応にさらされてしまいます。

短く、わかりやすく、すぐに役に立つもの。あるいは、怒りや驚きや共感を一瞬で引き出すもの。

そういうものがアルゴリズムに高く評価されがちです。

もちろん、それ自体に価値がないとは思いません。

でも、有益であることや、反応されることばかりが求められる場では、言葉が思考のためのものではなく、反応を取るためのものに誘われていく。

そして、反応を取るための言葉は、どうしても一回性が強くなってしまう。

その場で読まれ、その場で評価され、その場ですぐに流れていくだけで、そこには「この人の言葉をもう少し読み続けてみよう」という関係が生まれにくい。

僕がいまSubstackに感じている可能性は、まさにここにあります。

Substackは、もちろんネット上にも開かれているけれど、同時にメールとしても届く。

つまり、完全に開かれたSNSでもなければ、完全に閉じたコミュニティでもない。

読者のもとへ、定期的に届いていく。この「定期的に届く」ということが、思っている以上に大きいのではないかと思うのです。

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昨日も書きましたが、Twitterは、濁流のように流れていく場所。

また、僕個人にとってのWasei Salonは、腰を据えて対話をし、語らう場所。

それに対してSubstackは、こちらから「定期的に届けにいく場所」であり、読者に一回きりではなく、読み続けようと思ってもらえる場所になるような気がします。

ここで、「届く」と「読み続けられる」は、実は同じことの裏表である。

継続的に届くから、読者との信頼が積み重なる。信頼が積み重なるから、読者は読み続けようともしてくれる。

この継続的な信頼関係が、いまのXにはない構造をつくってくれて、ここに僕はかなり大きな可能性を感じているというわけです。

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たとえば、佐々木俊尚さんの「朝キュレ」のようなものを、いまSubstackで毎朝展開してほしい、と本気で思ってしまいます。

なぜなら、朝キュレのおもしろさは、リンクの量ではなく、リンクの並びにあったのと個人的には思うから、です。

佐々木さんは今日、何を見ているのか。何と何をつなげているのか。そういう視界を、毎朝タイムラインの中で受け取ることができた。

それは「有益コンテンツ」とも、少しだけ違うものだったように思います。

完成された意見ではなく、文脈に価値があったし、結論ではなく通り道、まさに情報の交差点的な役割がそこにあった。

そして、それを受け取った側も、「私ならこう考える」とまた別の意見を伴って語り直していく。

そこに、本当の意味での情報の循環が起きていたと思うのです。

そして、それこそが、初期の頃のTwitterのおもしろい誤配にもつながっていたはずです。

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では、なぜいま、この「読み続けられる関係性」が大事なのか。

ひとつには、批判の質が大きく変わってしまったからだと思います。

いまのXで深刻なのは、批判が「公共に向けた言葉」ではなく、「界隈への忠誠心の表明」のようになってしまったことです。

誰かを批判しているようでいて、実際には「自分はこの界隈の側にいます」と示しているだけの言葉が、本当に増えてしまった。

文章の中身ではなく、「誰が言ったか」「どの陣営に属しているか」で判断してしまう。

批判が、論点を前に進めるためのものではなく、味方に向けたアピールになる。

そして、「この人を燃やしていい」という合図にもなる。その結果、界隈化とカルト化がどんどん進んでいる状態。

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本来、批判というのは、相手を黙らせるためのものではなく、次の問いを開くためのものだったはずなんです。

でも今は、批判が「勝つための言葉」になりすぎている。Xのようなバズの場では、強い言葉ほど勝ちやすい。

でも、Substackのような定期購読の場では、批判は、信頼を失うと続かない。

この違いは、かなり大きいように思います。

バズの場では、相手を強く批判すればするほど、一瞬の注目は集まりやすい。怒りは拡散されるし、敵味方がはっきりしている言葉ほど、反応されやすい。

でも、購読の場ではそうはいかないはずなんです。

読者は、その人の言葉を一回きりではなく、末永く読み続けようとしているわけですから。

だからこそ、乱暴な批判や断罪は、短期的には気持ちよくても、長期的には信頼をすり減らしていくことにつながる。

ここに、Substackで復活し得る批判文化の芽があるように思うのです。

つまり、読み続けられる関係のなかでは、批判もまた、少しずつその形を変えていくのではないかと思います。

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そして、こうした「読み続けられる関係」といま相性がいいと思うのが、意外にも文フリ界隈です。

文フリ界隈の人たちは、たぶんいまのXにかなり嫌気が差していたのだと思います。もう一度ちゃんと「書く」「読む」「手渡す」「買う」「会う」場所を求めた結果として、リアルな場と、リアルな紙の本へと向かった。

ただ、リアルな場と紙の書籍は、どうしても閉じやすいのが難点。外側からは見えにくい。

だからこそ、Substackがここに入ってくるとおもしろいのではないかと思うんですよね。

文フリ的な「書く・読む・手渡す」文化が、もう一度インターネット上に開かれていくようなイメージです。

そうすると、かなり自然に「小さな文芸誌のネットワーク」のようなものができていく気がします。

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また、これは文フリ界隈だけの話ではない。

たとえば、東浩紀さんのゲンロンカフェのように、最初からスケールを目指さず、まともに話せる場を自分たちの手で守ろうとする動きとも、根っこの部分ではつながっているように思います。

Xの濁流からは一定の距離を置いて、まともに読み、まともに書き、まともに対話できる場を耕してきた人たち。

その人たちがいま、Substackという「届く場所」を経由して、ゆるやかにつながり始めたら、何かが一気に開花するのではないか、

そんな淡い期待が僕の中では強くあるんです。

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そして、このときに重要になるのが、意外にも課金システムの存在だと思っています。

Substackの課金は、単なるマネタイズの話ではない。それは、考え続ける時間や労力へのねぎらいみたいな形になるのだと思います。

これまでネット上では、調べること、考えること、批判すること、紹介することなどが、ほとんど無料で消費されてきたわけですが、でも本来、それらはとても知的コストのかかる行為です。

これらに対価が支払われることは、本来とても自然なことのはず。

でもSNSでは、それが「無料でやって当然」のようになってしまっていた。しかも、その知的営みの成果は、最終的にはプラットフォームの滞在時間や広告収益に変換されていく。

そこで集まる莫大な広告収益を閲覧数の割合で、分配しようぜ!という発想になってしまうから、投稿するユーザー側も次第に過激になっていくジレンマがありました。

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Substackがおもしろいのは、少なくともその構造を少しだけ反転できる可能性があることだと思います。

読者が、書き手の労働や時間に直接、お金を払う。それは「この記事一本を買う」というよりも、「この人には考え続けてほしい」と支える感覚に近い。

文フリで本を買うことは、単に紙の束を買うことではないはずですよね。その人が書いた時間、考えた時間、形にした労力に対してお金を払うことでもある。そこに課金や交流の価値がある。

Substackの課金も、きっとそれに近づくのだと思う。

「この人の次の文章を支える。」
「この問いが育つ場所を一緒につくる。」

そういう感覚が根づいていけば、批評や論考、取材や編集といった、これまで無料で消費されがちだった知的営みを、もう一度「対価のある仕事」として扱えるようになるのかもしれない。

反応を取るための言葉ではなく、信頼を積み重ねるための言葉に変容していく。

Substackが持っている可能性は、そこにあるのだと思います。

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もちろん、Substackだからといって、自動的にそんな公共圏が生まれるわけではない。

放っておけば、Substackもまた小さな界隈になる。有料購読者だけに向けて、内輪の正しさを確認し合う場所にもなりうる。

だからこそ、運用する側に作法が必要なんだろうなと思います。

コミュニケーションの作法があって初めて、Substackは単なるメルマガ配信サービスではなく、ネット上の公共圏になりうる。

その意味で、僕自身がもしSubstackを使うなら、やりたいことはかなり明確です。

「情報の交差点」を意識して、自分の前を通り過ぎていった小さな情報の断片、それらを少しだけ並べ直して、手を加え、届けてみる。そのくらいの軽やかさでいいのだと思う。

完成されたオピニオンを届けるのではなく、オピニオンになる前の視界自体を共有する。

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Wasei Salonが、変わらずに僕にとって本丸のような場所です。

じっくり考えたり、対話をしたり、新たに何かを試したりする場は、引き続きWasei Salonであり続けると思います。

一方でSubstackは、そこから生まれた視点や、日々自分の前を通り過ぎていく情報を、もう少し開かれたかたちで丁寧に届けてみて、能動的に紹介や交流をし、誤配も積極的に受け入れる場にしていきたい。

そこに、縁側のような半オープン性が宿りそうだなと思っているという話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。