最近話題のSubstack(サブスタック)、日本語圏で僕らが使うとしたら、どんな使い方がいちばん理想的なんだろうか、とずっと考えてます。

たぶん多くの人は、Substackと聞くと「メルマガ」だったり「noteの代替」だったり「濃いファン向けの発信場所」のようなものをイメージするのだと思います。

あとは、今の日本のムーブメントが情報商材界隈からスタートしているので、まだどこか怪しいものとして捉えているひとも多いような気がします。

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もちろん、そのような使い方や認識なんかは、とても正しいと思います。

でも、僕自身はそこにもう少し違う可能性を感じているんですよね。

それが、もう一度インターネット上に「情報の交差点」をつくる場所としてのSubstack、というイメージなんです。

今日はそんなお話を、僕なりの視点で書いてみたいなと。

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まず、このことを考えていたら、ふと以前自分が書いた2つの文章を思い出したので、それを先にご紹介しておきたいと思います。

ひとつは、2023年に書いた、今後のTwitterの使い方についてのブログ。


もうひとつは、2024年末にmixi2が突然登場したときに書いたブログです。


そのときはそれぞれ別々の話として書いていたつもりだったけれど、いま振り返ってみると、どちらも結局は、同じことを考えていたように思います。

具体的には、ずっと「情報の交差点」はどうすれば生まれるのか、ということ。

僕自身、2010年代のインターネット文化にどっぷりと浸かって、自分の社会人人生をスタートさせた人間なので、三つ子の魂百までじゃないけれど、結局インターネットに求めていることは、ずっと変わらないのだろうなあと。

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で、まず1本目のほう、2023年のころ僕はTwitterの使い方を大きく変えたいと思って書いた記事でした。

それまでのTwitterは、どこか自分のオピニオンを出す場所として使っていたところがありました。自分が考えていることを投稿し、フォロワーの反応を見て、そこからまた考えるというような。

でも、そのころにはもう、僕が日々じっくり考えているようなことは、ブログやVoicy、Wasei Salonのタイムラインのなかで十分に出せている感覚があった。

届いてほしい人たちには、ちゃんと届いている実感もありました。

だとしたら、わざわざTwitterにまで、同じように自分の意見を持ち込まなくてもいいのではないか、と思い始めていたタイミングでもあります。

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むしろTwitterでは、もっと軽やかに、カジュアルに「情報を交換する場所」として使ったほうがいいんだろうなあと。

具体的には、知人や友人の活動を広めたり、読んだ本についてコメントしたりする場として。

また、おもしろかったイベントに対して感想を書いてみて、いま、自分のまわりを通り過ぎている小さな「兆し」みたいなものについて、ちゃんとコメントを添えてキャッチアップやフックアップをしていくような場所にしていきたいと思っていました。

それは完全なクローズドな場ではむずかしい。半オープンな開かれた風通しのよい場でなければいけなくて、そこで生まれる相互交流を求めていたような気がしています。

そういうものを、自分に興味を持ってくれている人たちに対して、どんどん積極的におすそ分けしたり、手渡していくぐらいがちょうどいいと考えていました。

いま思えば、僕が求めていたのは「もっと自分の意見を届ける場所」ではなく、「価値観の近い人たち同士のあいだで、ほんとうに欲している豊かな情報が自然と行き交う場所」だったのだと思います。

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このときに考えていたのは、別に大きくバズらせたいということではなく、むしろ、広がりすぎないことのほうが大事だと思っていました。

それよりも、初期のTwitterのように、思いがけず拡散されていき、まだ出会ったこともないけれど、でも視座が近い人たちの元へとちゃんと届いていくこと。

その「誤配」のおもしろさのほうを、もっともっと増やしていきたかった。

緩やかな情報流通であり、緩やかな経済圏。

その人たちのあいだで、仕事や機会や信頼みちあなものが、気持ちよく巡っていく。当時の僕は、そういうものをTwitterの上につくれないかと模索していたのだと思います。

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ただ、いま振り返ると、Twitterはやっぱり流れが速すぎました。

アルゴリズムの変化の濁流、そんな津波みたいなものに抗えないとわかったのが、この3年ぐらいの一番大きな変化です。

もちろん、Twitterには今でも世間の写し鏡のような独特な魅力があることも間違いない。

あの有象無象の状態を毛嫌いする人も多いけれど、僕はそこには少し異なる感想を持っていて「これぞ社会、これぞ世界」という感じがしています。

だからあの世界観を叩いてみたところで、それは天に向かってつばを吐くようなものであまり意味がないようにも思う。

また、完全に閉じたコミュニティでは起きないような誤配が起きて、思いがけない人に届くことがある。それも本当にすばらしいことだと感じます。

でも、そこで身の回りの情報の交差点を安定してつくるには、少し流れが速すぎてしまうことがよろしくない。濁流過ぎて、交差点にならないんです。うまく言えないのですが、そこに「秩序」が生まれていかない。

文字通りの「誤配」が起きすぎてしまっているからこその、毎日が炎上なわけで。そして、どうしても反応数やアルゴリズムの空気にも引っ張られてしまう。

つまり、Twitterは、世界の反応を観るにはいい場所かもしれないけれど、そこに橋をかけたり、交差点をつくったりしようとするとすぐに流れにさらわれてしまう。

そんな感覚が強くありました。

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そして2024年末に突如、反旗を翻すように国産のmixi2が登場してきたわけですよね。

あのとき、正直僕はかなり期待しました。mixi2には、初期Twitterや昔のSNSにあったような、風通しの良さがあったからです。

フォローしている人たちの投稿が、ちゃんと時系列で並んでいる。広告やアルゴリズムに強く支配されていない仕組み。

好きな人たちと、好きな距離感で集まれる。完全に開かれているわけでもなく、完全に閉じられているわけでもない。

僕はそこに、縁側のような空間があらわれるのではないか、と本気で思っていた。

広場ではなく、日本らしい「縁側」的空間です。それは、パブリックでもありプライベートでもあり、内でもあり外でもある。あるいは、内でも外でもないような独特な空間。

「日本的な公共空間」と言っても差し支えないと思います。こういう半オープンな場所が、日本語圏のインターネットには必要なのだと感じていた。

いま当時書いたブログを読み返しても、あのときmixi2に感じていた希望そのものは、それほど間違っていなかったと思っています。

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でも、完全に読み違えていた部分もあります。

それは、場所自体が心地よいことと、そこが日々の通り道になることは違う、ということです。

mixi2は、場所としてはとてもよかった。少なくとも、最初に触ったときの感触は、本当にすばらしかった。

ただ、多くの人にとって、毎日自然に通る場所にはなりきらなかったのだと思います。少なくとも僕自身にとっては、そうでした。

情報の交差点というものは、場所を用意しただけでは生まれてこない。その動きや循環が日々淀みなく繰り返されて、はじめて人通りや、通り道が生まれてくる。

そして、その別々の通り道が交わったところにこそ、本当の意味で「交差点」ができるということなんだろうなあと。

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このことを考えるとき、いつも思い出してしまうのが、糸井重里さんの書籍『インターネット的』のお話です。

「情報の交差点」という言葉は、僕自身も過去に何度も使ってきたけれど、もともとは糸井さんの『インターネット的』のなかで語られていた概念です。

そして、いまここまで深めて観ながら改めて考えてみると、インターネット的であるとは、どのサービスを使っているかの話ではないのだと思う。

Twitterにいるから、mixi2にいるから、Substackを使うからインターネット的なのでもない。

そうではなく、そこで一体どうふるまうか。

具体的には、糸井さんがあの本の中で書かれている「リンク・シェア・フラット」という3つの概念と姿勢を起点に、自分の言葉だけで世界を閉じないこと。

誰かの言葉へ丁寧に接続し直すこと。

以前、内田樹さんの「霊的成長は、つなげておいたから」という言葉を以前ご紹介したことがありますが、まさにその感覚です。

自分が見つけたものを自分(たち)だけで囲い込まずに、自分の視座に興味関心を持ってくれる人たちに向けてそっと丁寧に差し出す。

逆に言えば、それ以上の広がりは追い求めすぎないこと。

そういうふるまいこそが、インターネット的なのだと思います。

その流れの健やかさというか、春の小川のような心地よさがそこに必要なんだと思います。

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そう考えると、いまサブスタックに感じている可能性も、少しずつ見え方が変わってくるよなあと思っています。

それは、新しい発信ツールへの期待というよりも、もう一度インターネット的、縁側的にふるまえる場が、インターネット上に現れてくるかもしれないという期待です。

たぶん、そのときのカギは意外にも「課金の仕組み」が乗っかっていることだと思っています。

しかもそれは、「稼ぐ」ためではなく、このエコシステムがちゃんと機能する可能性のある課金システムの構築であり、これまでの新しいSNSプラットフォームにはなかった可能性が秘められているんだろうなあと。

言葉が言葉として、ちゃんと届くためのエコシステムが存在しているかどうか、です。

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Twitterが今後なくなるとは思わないですが、Twitterは週刊誌やテレビ的な、ゴシップ中心の場となり、

Substackが、人文系を中心としたネット論壇や少し硬派なジャーナリズム、さらには文フリのような盛り上がりが合流してくるような気もしています。

そして、この続きがまさに肝になってくるのですが、少し長くなってしまうので、明日また続きを書いてみたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。