昨夜、ついに寅さんマラソン完走しました。

昨年末から不意に第1作目を観始めて、1日1本のペースで観続けて、約2ヶ月で全50作を走り切りました。

単なる「映画鑑賞」の域を超えて、もはや一つの「修行」であり、濃密な「旅」をしてきた感覚があります。

50作目が終わったあとは、しばし呆然としてしまいました。もうこれで本当に最後か、と。

完走してみて本当によかったです。一生忘れない時間になったなあと思います。

そして、2019年に公開された、第50作『お帰り 寅さん』があって本当に良かったなあと思いました。

この回がなければ、もっともっと違う印象だったはず。

今日は、作品にどっぷりと浸り切ると、作品の登場人物は自分の「擬似家族」に変わるというちょっと変わったお話を書いてみたいなと思います。

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まず、個人的おもしろいなと思った自己の大きな変化は、48作品目を観るタイミングのときでした。

全50作あるのですが、最後の2作品は渥美清の死後に作られた作品であり、渥美清が生きている間に撮影されたラストの回が、48作目。

それを観るまえが、本当に寂しかったです。

この寂しさは伝わるのかなってぐらい、本当に深い喪失感みたいなものがありました。

また、晩年の寅さんは、ほんとうに恵比寿様みたいな顔をしていて、清濁併せ呑んで功徳を積んだ人間って、みんなこういう顔になるんだなあと、改めてしみじみと実感した。

本当に美しいほどに理想的なお顔をされていた。

それが余計に、寂しさを掻き立てるものとなっていたなあと思います。

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で、この寅さんマラソンを走りきってみて、改めて思ったことは最近よく語り続けている「浸り切ること」の何がいいのか、それが自分の中でより鮮明になったことです。

寅さんをモチーフに端的に言えば、ただの「通りすがりのおじさん」から「親戚のおじさん」に変化してしまうこと。

つまり、広義の意味での「擬似的な家族」になってしまうということなんだろうなと思いました。

50作品を通して観たことで、寅さんが自分にとって余人を持って代えがたい存在になった。

そして、今この変化がとても大事だなと思うのです。現代社会、特に、AIの要約文化の中では決して味わえないことだから。

コスパもタイパも完全に無視をした、「浸り切る」という贅沢な時間の使い道だけが、生んでくれる、自分だけのかけがえのない財産です。

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世間で語られる寅さん像はどうでもよくて、自分にとっての「寅さん」という家族だったような存在としての、死者になる。

もちろん、それはこのキャラクターを全肯定しているわけではありません。

嫌なところは、本当に嫌だなと思わされる。

寅さんが語られる場面では、何度も言及されるメロンのシーンなんて、僕も本当にひどいなと思います。

何度あのシーンを観ても、寅さんのあの理不尽な物言いには、観ているこっちも「寅さん!いい加減にしろ!」って叱りたくなります。

言い換えると、「親戚のおじさん」という家族だと思えるからこそ、あの身勝手さに対しても、映画だとわかりながら本気で腹が立つわけです。

でも、その「嫌なところ」なんかも丸ごと含めて受け入れることが、評価を超えた「関係性」の始まりでもあって、まさに、清濁併せ呑む関係性になっていくんだなあと思ったのです。

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じゃあ、そうなると一体何がいいのか?

他人の感想や評価なんて、どうだってよくなるんですよね。

だって、相手は自分の家族みたいな存在ですから。

家族の評価なんて、他人の評価によって、変わらないじゃないですか。

そうやって家族ぐらいの領域に思えるひとを、どれぐらい自分の中に持ち合わせているのかは、今ものすごく大切な視点だなと思います。

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この点、自分の見方が合っているかどうかが不安になるから、ひとは、映画を観終わったあとに、他人の評価や他人の考察のほうばかりを気にしてしまう。

Twitter内で検索したり、note内で他人の感想を必死で探してしまうわけですよね。

でもそれは逆に言えば、他人の考察や批評だけを読んで、何かをわかった気になるのは、何もわかっていないに等しいということでもある。

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いまの世の中って、必ず自分よりも圧倒的に詳しい人はネット上に存在します。

オタク的な視点を持ち合わせているひとが、無料で何かしらの詳しい感想を、余す所なく語っている。きっと、寅さんなんて、その最たる例だと思うのです。

そして、そういうひとがいると思うから、余計にそっちの評価ばかりが気になってしまう。

まさに、進撃の巨人現象です。でも一旦、そういうのを全部無視して、50作すべてを浸り切ると、その枠というか範疇を、完全に超えてくるんですよね。

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これはなかなかにうまく言えないのですが、「故郷」に近くなる感覚っていうのかな。

第二の故郷となる、まさにアナザースカイです。

自分にとっての「故郷」に、他人の評価って介在させないじゃないですか。

つまり、もはや他人の評価の中にある「その土地」のイメージや、AIが排出してくれるようなその土地の客観的なデータや評判が、完全に無効化される。

それが第二の故郷や、アナザースカイという言葉に込められている意味だと僕は思います。

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そして、故郷というメタファーがある種の世界観だとするならば、その世界観に紐づいた「物語」もそこに生まれてくる。

そしてその物語は、どこまでいっても、「私と故郷」の関係性、そのあいだにおいて育まれる。

僕の場合、僕と地元の北海道・函館の関係性に、他者の評価や考察は影響を与えないし、意味をなさない。

少なくとも自分の実感値よりも、優先するものなんかには決してならない。

僕にとって故郷とはそういうものです。

「家族」も、もちろんそう。自分と、その対象との間の問題であって、他者の評価が介在しようが、父は父だし、母は母。

このように、固有名を持つ存在が、自己の故郷や家族に移り変わる瞬間がとても大事だなと思うのです。

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寅さんに限らず、村上春樹を全部読んでいたときもそうでした。夏目漱石とか谷崎潤一郎とかもそう。

それぞれ一癖も二癖もあるような作家たちなわけです。

そして世間一般的に語られるとき、どうしても悪い噂や、時代とのズレを批判的に語る言説、偏見に満ちた感想なんかも聞こえてくる。

しかもそれを権威ある批評家や、メディアが語っていたりもするわけです。

そして、1〜2作品ぐらい触れたぐらいだと、その評価がドンズバにも思えるわけです。

逆に言えば、大抵はみんなそうやってわかった気になっているということですよね。

でも、一方で、熱心なファンがいて時代を超えて語り継がれている、残っていることにはそれなりの理由がある。

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そんな人々の口コミを信じてちゃんとついて行ってみると、つまり作品群として一通り浸ってみると、表層的な評価だけではなくなってくる。

僕にとって、村上春樹も夏目漱石も谷崎潤一郎も、そして寅さんも、もはや他人の評価なんてどうでもいい、「自分と相手」の関係性に移り変わる。

実際、一般的な評価なんてまったく気ならないですし、自分の実感値こそを、一番大事にしたいと思えています。

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第50作目に、50歳になった甥っ子の満男(吉岡秀隆)の生きている世界において、ゴーストとして、寅さんがそっと背後から見守っているというシーンが何度か描かれていたけれど、

僕にとっても同様に、「いま寅さんが存在すれば、一体何を語ってくれるだろう?」ってなることは間違いないなと思います。

しかも、それを自分という人間のLLMに入力することで、自然と出力できるようになってくる。

自分という人間の頭が出力した「寅さんなら、こうする」というアイディアを誰の評価も挟むことなく信じられるようになるわけだから。

それっていうのは、相手と一緒にそれだけ耕してきた時間があるからだと思います。

ものすごく現代風に言えば、浸り切るという贅沢な時間の使い方を行うことによって、自分のLLMを他のどんな人間のLLMよりも、信頼に値すると思えるものに成り代わるわけです。

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ここまで読んでくれた方々の中には「でもそうすると、ひとりよがりな解釈になってしまうのではないか?」そんな懸念も抱くかもしれない。

実際にそのとおりの側面もあるとは思います。僕らが本当の家族や故郷に対して、一定の贔屓をして現実が見えなくなってしまうときもあるように。

でも、逆説的に、他人の意見に対しても、素直に耳を傾けられるようになるとも思うんですよね。

なぜなら、自分の考え方が、ちゃんと自分の中で定まるから。

軸がブレないからこそ、他人の考察にも「なるほど、そういう意見もあるんですね」と、他人の意見をそのまま尊重できるようになる。

少なくとも、他人のほうが正しく見えてしまわない。「あっ、自分が間違っているかも」と不安になったり焦ったりしないで済むようになる。

これって、同じように他人の意見を大切にするという場合であっても、まったく違った意味合いになると思っています。

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今日書きたかったことは、誰を、そして何を、架空の疑似家族や故郷にしたいと願うのか。

どんな作品の世界観を、自分の物語と紐づけていくのか、ということです。

これは徹頭徹尾、主観の問題です。

でもそれを大事にすることで、見守られている感がまったく変わってくる。勝手に弟子入りした感覚になる。

言い換えると、自分の目の前にいる観察の対象ではなく、いつも自分の後ろで見守ってくれているような「親戚のおじさん」としての死者となってくれる。

AI時代でいくらでも簡単に要約を手に入れることができて、いくらでもショート動画をスワイプできる時代において、とっても大事なことだと思います。

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たとえそれが、盛大な勘違いであっても、それで自分の一挙手一投足が変化するなら、僕はものすごく大きな変化だなと思うし、こういう自己の変化こそ全力でハックしていきたいなと僕なんかは思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。