先日、晴れた休日にカフェにいたら、隣の席に座っていた20代前半ぐらいの非常に仲の良さそうな、そしてお世辞にも頭はそれほど良くなさそうに見えるカップルが、ずっとお互いの身体運動を合わせていて、それがなんだかとても楽しそうでした。
何かを食べるときも、まったく同じものを食べていて、その都度よくわからないハンドサインをおくりあい、ひとりがカフェのBGMにのってくると、もうひとりも無言で同じようにのりはじめる。
本当にずっと同じ身体運動を共有していて横目でみながら、このふたりが仲良くやっていけるのは当然だよなあと思ってしまいました。
なぜなら、ずっとお互いのミラー・ニューロンをハックし合っているみたいな感じだったからです。
きっと、身体性をあわせたほうが「意識」で意見や理解を合わせるよりも、よっぽど合理的だということが直感的にわかっているんだろうなと思います。
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この点、なまじ頭が賢いと「意識」における協調性を重視するあまりに、言葉でお互いの意思疎通をはかろうとしてしまいがちです。
そして、お互いの意見が同じであることを逐一言葉によって確認し合って、そればかりを重視してしまう。
そして自分たちは意識を共にしているからこそ、一緒にいられるんだと誤解をしてしまうわけですよね。
でも本来僕らは、言葉によって意識が合わせることよりも、先に身体性を合わせるから、相手に共感し、好意を持ち、結果として意識やそこから導かれる意見も合ってくるという順序のほうが、きっと正しいのだと思います。
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さもないと、たとえば学校という空間内において朝から昼過ぎまでランダムで選ばれた40人前後の人間が同じ教室を共にすることができるわけがないですからね。
クラスの中でも、ありとあらゆる集団生活、その身体性の同期が先にあって、そのなかでお互いに同じ共同体のメンバーであると把握し合っているからこそ、共にいられるんだろうなあと。
そう考えてくると、社交界における「社交ダンス」みたいなものも、実はめちゃくちゃ理にかなっているんだろうなあと思わされます。
別に、彼らは貴族過ぎて、あまりに暇でやることないからクルクル踊っていたわけではなく、ある意味ものすごく”実用的に”踊っていたんだと思う。先人たちの知恵はハンパないなと思わされる。
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このように考えてくると、僕ら人間は身体性の奴隷だとも言えそうです。
そしてきっと、めちゃくちゃ「意識の嘘」に騙されている状態にもあるんだろうなと思います。
ここで思い出されるのが、以前もご紹介したことのあるロビン・ダンバーが書いた『宗教の起源』という書籍の話です。
宗教活動においても、身体性の同期が非常に重視されていたというお話になります。
以下で少し引用してみたいと思います。
儀式が持つ最もわかりやすい特徴は同期性だ。礼拝の出席者は身を寄せあい、立つ、ひざまずく、座る、ひれふすといった動作をいっせいに行なう。十字を切る動作はもちろん、歌うときも、祈りを唱えるときも声がそろっている。もちろん踊りも同じだ。同期した動作には催眠的な効果があって、仲間意識を大いに高めてくれる。
これは、本当にそう思いますよね。
たとえば、僕らはイスラム教の礼拝なんかを映像で見せられると、一体どんな優れた教義によってあれだけの多くの人々が、あれだけ熱心に礼拝をするのかととても強く驚かされる。
そして、実際にその教義内容に興味を持って、その内容を実際に学んでみるわけだけれど、いわゆる「一神教」であって、神話の世界観のような話に過ぎない。
そこに仏教のような深遠な哲学が広がっているわけではありません。
だからこそ、何かに共感できるわけでもなく「その行動原理が全然理解できない…!」と思ってしまい、自分たちとはまったく価値観が異なる民族だと認定するのだろうけれど、でも本当は、あのような礼拝を毎日欠かさず続けているからこそ、僕らが驚かされるような大勢の礼拝の場面が生み出されるのだと思うのですよね。
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あと、これは一気に卑近な例になりますが、たとえば昨年の甲子園でも非常に話題になった慶應義塾の応援歌「若き血」なんかもそうだと思います。
あれを大きな球場で、これでもかというほど爆音で繰り返すからこそ、自分たちと同じ陣営内にいる人間同士で一体感のようなものが生まれてくる。
「我々は同じ共同体の人間なんだ」と謎の高揚感に包まれる。
僕自身もあの熱狂の中に自らの身を浸したことがあるので余計に強くそう思いますが、あの状況は本当に今思い出すと怖いなと思わされます。
自陣営の人間以外が本当に全員敵に思えてくるし、逆に自陣営の人間に対しては、無条件に仲間意識を持ってしまう。
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さて、話をもとに戻すと、基本的に現代社会というのは、意識が最優位に置かれていて、その意識が自由意志のようなものを持ち、その意識がすべてを判断したうえで、僕らは自由に行動していると思いがち。
フロイトが提唱する前までは、無意識のようなものさえ存在しない、取るに足らない存在だと思われていたわけですからね。
ゆえに、身体性を完全に無視した「非同期型」のコミュニケーションが現代では尊ばれている。
コロナのように、同期が物理的に不可能な状況が、ソレをより一層加速させたわけです。
でも、非同期型でコミュニケーションを取り続けると、僕らが他者と強調することができるのは「合理的であるかどうか」というその一点の基準に収束していってしまう。
つまり、誤解を恐れずに単純化すると「生産性」ですべてがはかられるようになるわけです。そうすると、社会の共通認識がコスパやタイパにたどり着くのは当然の帰結だと思うのです。
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これは言い換えると、コスパタイパがこれほどまでに尊ばれるようになった理由というのは、それが正しいからとか、そうするとメリットがあって人類が幸福になれるからとか、そういう話ではなく、単純に人々の身体性の同期をこの社会からことごとく排除し、非同期型にして。分断していったからでもあると思うのですよね。
それをあたかも僕らは、一番正しい選択のように思わされているだけ、なのかもしれないなと。
つまり、コスパやタイパのような価値観が先に確固たる正解として存在していたというよりも、遠隔で身体性を排除し非同期にしていった結果、ソレ以外に人々が共通して認識し合えるものがなくなったという順序のほうが正しい気がしています。
もちろんこれは資本主義社会にとっても、ものすごく都合がいいことは言うまでもないかと思います。
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結果として、協調性は剥奪されて、ひとりひとりの人間がドンドンと傲慢にもなっていく。
それが身体性の同期を完全に無視してきたひとつの結果なんだと思います。
さらに、そういうひとたちがわかりやすく好み、すぐに持ち出してくるのは『攻殻機動隊』に登場する荒巻課長のあの名ゼリフ、
「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。」
この話も何も間違っていないと思います。というか、そうなるに決まっています。すべてが、合目的的であるかどうかで判断されるわけですから。
とはいえ、攻殻機動隊という物語だって、その対立軸として意識や身体性を超えた「ゴースト」の歯止めがあるから、踏み外すこともなくバラバラになることもない。
言い換えると、スタンドプレーはゴーストというひどく曖昧なものに従い続けているからこそ、そこに自然発生的にチームワークが生じてくる。そんなジレンマを描いている作品が『攻殻機動隊』でもあると僕は思っています。
にも関わらず、ゴーストへの敬意や配慮を無視したスタンドプレーというのは、本当にただただKPIとコスパとタイパにまみれた世界へ行き着いてしまうと思うのです。
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で、今日の話で一体何が言いたいのか、僕の今の興味関心は、オンライン上の交流だけで、この意識の嘘をどこまでごまかせるのか、という点です。
今後「コミュニティ」が重要になっていくのは間違いないかと思います。
そう考えてみたときに、身体性を無視しながら、どこまで協調性を高めていくことができるのか。
今のNFTやトークンコミュニティにおいても、インセンティブが明確になっているからコミュニティがやっと成立し始めたと言っても過言ではない。
とはいえ、その価値観だと従来の社会と何も変わらない。
それ以上の新たな価値観を提示したいという場合、必ずどこかでバッティングしてくるはずであり、オンライン上だけのつながり、身体性を無視したものはどこまで耐えて抗えるのか。
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言い換えると、オンライン上のメタバースのようなものは、身体性のようなものを僕らにもたらすのか。
宗教における宗教施設や、それに付随する習慣が担っていたものを、オンライン上でも構築可能なのか。
もしそれが可能であれば、いまの流れの先に新しい世界が広がっている可能性は十分あると思うし、可能でなければ、どこかで空中分解していくか、もしくは社会のコミュニケーションがまた、オフライン中心に戻っていく流れの中で、ジリ貧になっていくのだと思います。
そして「やっぱりリアルだろ!」ということになってきて、また身体性の同期を極端に強調しその部分を極端にハックしたカルト宗教なんかが現れてきちゃうのだと思います。オウム真理教みたいな形で。
どちらにせよ、人間は身体性の同期から、お互いを信頼し合う流れのほうが、本来の順序としてはもしかしたら正しいのではないか、そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。