長期休暇のたびに、話題にあがる「本の読み方」のお話。

ただ、僕自身は、GW中に読みたい本などは、あまり考えなくなりました。

それは、長期休暇中に本を読んでいないというよりも、ずっと平日と変わらないペースで淡々と読み続けるようになったという感覚が強いです。

また、長期休暇における本の読み方みたいな話にもつながる話題として、インプットとアウトプットのバランスみたいなもので悩まれている様子も最近よく見かけます。

そんなとき、誰もがまずインプットのほうを増やそうとしてしまいがちです。

ゆえに、長期休暇はその最大のチャンスだ!と思うわけですよね。

でも、それはあまり良い方法ではないような気がしています。それをしてしまうと、すぐに破綻してしまうのは目に見えている。

それよりもアウトプットを定期的に行う習慣のほうが、習慣としては圧倒的に大事だと僕は思います。

自分から出していく習慣をつくることができてしまえば、それに合わせて吸い込む作業は半自動的に勝手に行われるわけですから。

一方で出すためには、意識して自分から能動的に動き出さないと、なかなか定期的には出せるものではない。

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もし最初から吸い込むことだけに意識を向けていたら、過呼吸のようになってしまうのも当然のこと。

そして、その苦しさに耐えられなくなって、インプットもすぐにやめてしまう。

長期休暇のたびに積読になったものを消化しようとして、過度な負担によって疲弊をし、また休み明けには辛くなってやめてしまう、その繰り返し。

だから何よりもまずは定期的にアウトプットをすることです。

その習慣が生まれてくると「インプットしなきゃ!」みたいなことにはならないで済むよなあと、過去の自分の経験なんかを通して本当に強く思います。

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そして、このように読書のペースや自らのスタンスが生まれてくると自然と目線自体も長期目線になっていく。

ここからが今日の本題にも入っていきます。

現代は、目先の時代の変化が全く予想できない一方で、3〜5年ぐらい先はかなり解像度高く予測できる時代でもあるわけですから、むしろ長期目線を獲得することのほうが、ドンドンと大切になってきているように思います。

そして、最近は「待ち勝つ」という言葉もよく聞くようになってきました。だとすれば「待ち勝つお供に、良書を読むこと」が本当に大事だなあと思います。

ここが今日一番強く伝えたいポイントです。

もちろん、20代など若いうちは様々な場所に顔を出しながら、人生経験自体を増やすこと自体も非常に重要だと思います。

つまり人生や世界のサンプルみたいなものがないと、読書の世界で何かを擬似体験してみても、それが一体何を表現しているのか、なかなか見えてこない。

でも、そのサンプルがある程度存在すると、その読書体験の中で、人生の深度を広げていくことができていく。

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きっと、今のような世の中の流れだと、3〜5年単位で来るものに張ったら、あとはしっかりと粘ることのほうが大切なはずで。

無駄にガチャガチャせずに、その間にはむしろ世界を深く理解するために意識を向けたほうが良い気がしています。

旅と読書は、そのための手法として最適な方法。

さもないと、ずっと似たような価値観や世界観で似たような次元の勝負を仕掛けてしまいますからね。どうしても、計測可能な数字ばかりを追い求めてしまう。

具体的には、売上規模やユーザー数などばかりに目がいってしまって、日本では飽き足らず世界へとか、地球ではなく今度は宇宙だ!という話にもなっていく。

もちろんそれがダメだとは思わないですが、それだとカズオ・イシグロの「縦の旅と横の旅」の話ではないけれど、忙しなく、横の移動の仕事を繰り返しているだけであって、縦方向の深まりが生まれていかないんですよね。

横の移動していると、自らが変化しているようにも思えるのですが、実は自分自身は何も変わっておらず、周囲の環境だけが目まぐるしく変化していて内面的にはグルグルしているだけだったりもする。

そのような状況下において「自分、実は何にも変わってないじゃん…!」と愕然とすることは、とても大切な気づきだと僕は思っています。

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少し話が逸れますが、ここ最近、僕はずっとオーディオブックで村上春樹の長編小説を聴き続けていて、Audible上にある村上春樹の長編作品をすべて聴き終えました。

村上春樹作品にはさまざまな境遇に置かれた主人公が出てくるのですが、彼らに共通しているのはみんな「暇」であることなんですよね。

その「暇」に置かている状況というのはひとそれぞれで、やる気が起きないもそうだし、強制的に暇になっている場合もあるし、本当にいろいろな偶然があるのだけれども、とにかく「暇」であることは共通している。

僕らはどうしても、忙しくあちこちに顔を出してみて何かしらのアクションをしていないと、自分の「物語」は始まっていかないという強迫観念を抱えて生きているのだけれども、でも本当はちゃんと「暇」にならないと私の物語は始まっていかないということなんだろうなと思います。

言い換えると、環境の変化を生み出すためには、ただ忙しくすればいいだけなんだけれども、私自身の変化は「暇」にならないと訪れないということでもある。

長編小説は、そのような変化を主人公と共に、深いところに降りていく感覚を味わうことができて、この疑似体験がものすごく重要な体験だなと思っています。

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都会にいながらも、クロノスとカイロスの時間軸におけるカイロス的な感覚、世阿弥の語る「時の花」のようなものを掴み取る方法があるとしたら、長編小説や歴史、哲学など長い時間軸を通して育まれたものに、自らの呼吸を合わせてみることが本当に大事だと思います。

このような物語が読める「呼吸の深さ」を確保し続けることは、人生においてとても役に立つものにもなっていくと思う。

逆に、これらが読めないという状況下というのは呼吸が浅くなっている証でもあるわけですから。

SNSやショート動画ばかりを観ていたら、ドンドンと焦らされてしまうのも当然のこと。もちろん仕事が忙しければ本なんて読めるわけがないですし、旅に出ることだってむずかしくなるはずです。

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あと、これは完全に余談なんですが「本じゃなくても、漫画でもいいじゃん、漫画にも100巻を超える長編はたくさんあるし、同じくフィクションだし」と思う方もいるかもしれない。

ただ、漫画なら簡単に読めるのに歴史や古典の長編小説が読めない理由を、逆に考えてみたいなと僕なんかは同時に考えてみたくなります。

僕のその仮説は、漫画というのはそこにすべて目的がある、意図があるからこそ、誰でも簡単に読み続けられるものだと思うのです。

言い換えると、漫画は必ずグランドナラティブのようなものが存在する。伏線回収にファンが大喜びするのは、ソレが理由だと思います。

そして、そのグランドナラティブといのは、構造的には陰謀論と一緒。だからこそ、僕らは漫画にハマれるし、飽きることなく夢中にもなれるんですよね。

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でも、長編小説や歴史や思想史のようなものが理解がなんだかむずかしいなと感じるのは、無意味であることが、山ほどそこには描かれているから、だと思うのです。

たとえば、ドストエフスキーの『白痴』なんかを読んでいても、僕らがあの作品の理解に圧倒的に苦しむのは、そこに意味がない話が山ほど書かれていて、読者としてその目的が全然見えてこないからです。

だから、圧倒的な読みにくさを感じてしまうわけですよね。

でも、漫画はその読みにくさを極限まで取り除いてくれている読み物。

つまり、漫画が提供する直線的な物語と比較して、古典文学や歴史はしばしば複雑で、予測不可能な展開を含んでいる場合が多いわけです。

そして、その複雑さが現実世界の多様性や不条理さを、よりリアルに反映しているという点でとても価値があるんだと思います。

逆に言うと、今の陰謀論ブームは、漫画の世界認識をそのまま現実世界の認識に当てはめてしまうひとが多いからこそ、起きていることでもあるんだろうなと思います。

複雑なことを単純にしてくれるもの、考え始めると思考回路がパンクしそうになりそうなことを考えないで済ませてくれるもの、それが、目的や意味がある物語の特徴です。

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現代の漫画は、たとえば『進撃の巨人』などを筆頭に哲学や思想を含んでいること自体は決して否定しないけれど、でも目的や意味がドンドンと暴かれていく物語が、大多数です。

あれは、ちょっとだけ危険だと思う。『進撃の巨人』における「正義の反対は、また別の正義だった」はそのとおりなんだけれども、それをやると必ず、意味がわからない脅威には、何者かの思惑があると誤解してしまう。

でも、そんなものはない。

「無意味なものに、意味はない。」

それを理解することは、漫画では不可能だなあと思います。

むしろ、漫画の世界認識を頼りにしてしまうと、何かしらの意味が必ずあるはずだとすぐに勘ぐってしまうようになる。

僕らは漫画世代として、漫画で世界認識する人たちがいまドンドンと増えているから、極端な左派や極端な右派も後を絶たないし、SNSがそれをまた加速させてしまっている状況なのだと思います。

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後半はだいぶ話が逸れてしまいましたが、だからこそ「無意味なものに、意味はない」世界の不条理さを長編作品の読書や旅なんかを通して世界の姿を少しずつでも理解することが、今とても大切なフェーズだなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。