昨日のVoicyプレミアム配信では、最所あさみさんを再びゲストにお迎えして、「旅先で、旅先を舞台にした本を読めるか否か」という話をしました。


話している途中で、自分の読書のかたちについて、これまで自分でもなかなか言葉にできていなかったことが、一気に立ち上がってくるような感覚があったので、今日はそのお話を改めてこのブログの中にも書いておきたいと思います。

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そもそものきっかけは、最所さんと僕とで旅先で読む本に対するスタンスがまったく違っていたことでした。

最所さんは、旅先ではむしろその土地とまったく関係がない本を読みたいタイプ。

一方で僕は、その土地にがっつり関係ある本を、というより、オーディオブックを現地を実際に歩きながら「聴きたい」タイプです。

その対比をふたりで話していくうちに、自分の「本の読み方(聴き方)」の正体のようなものが、だんだん見えてきた感じがあったんですよね。

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まず先に自分のスタンスを明確にしておくと、僕は昔から、何かに対して没頭するということが、あまり得意ではありません。

対象との距離感が基本的にはすごく遠い。他人に対しても、基本的に興味関心が薄い人間です。

映画でも、本でも、世の中の人たちが当たり前のように夢中になれているものに、なかなか同じ温度感で入っていけないことが多かったです。

特に本における小説や物語なんかは、その傾向が強かった気がします。10代のころは、ほとんど小説も読んでいませんでした。

もし読み始めたとしても、いつもどこか他人事で自分が一歩引いている感じがあって、物語の中に飛び込んでいくというより、対岸から眺めているような感覚が強かった。

だから読み終わったあとも、「ああ、おもしろかったな」とは思うのだけれども、最所さんのように、本そのものにちゃんと浸れているかというと、正直なところまったく自信がなかったです。

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そしてきっと、ここに僕のわかりやすいコンプレックスもあったんだろうなと思います。

最所さんとお話ししているといつも、この人は本当に本を読むことそのものが大好きなんだなあと感じます。読むという行為それ自体が、ちゃんと「目的」になっている。

そういう人を、僕は心のどこかで「真の読書家」と呼んでいます。

「本を読むことが、一体何の役に立つのか?」なんて一切考えていない。本を読むことそれ自体が、自己目的的な行為であると。

そして、僕はたぶん、そちら側の人間ではないんですよね。そうなりたいとは思いつつ、そうはなれなくて、ずっと苦しんできた側の凡人です。

本に対していつもどこかに距離があって、その距離をうまく詰められないまま、何冊もの本を非常に中途半端な態度で読み終えてきた、という自覚がずっと自分の中にありました。

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そんな情けない自分でも、なぜかちゃんと没頭できる読み方がひとつだけあったんです。

それが「旅先で、その土地に関係ある本を、オーディオブックで聴く」というスタイルです。

たとえば、プレミアム配信の中でも話題になった凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』は愛媛で聴きました。

ちょうどイケウチオーガニックさんのオープンハウスの企画で今治に行く機会があって、作品の舞台にかなり近かったんですよね。

そのとき僕は、たぶん一冊の本にちゃんと没頭していたと思います。岸辺から眺めているのではなく、ちゃんと物語の中に入って没入していた、という感覚が強くありました。

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これは一体何なんだろう、ということが、ずっと自分でも気になっていたんですよね。

で、プレミアム配信の中で、その答えに近いものが見えてきた瞬間がありました。これは本当に、最所さんの読書スタイルとの対比させてもらったおかげです。

最所さんは、現地で本を読みすぎると「作者の術中にはまりすぎる」感覚があるらしいんです。端的に言うと「ネタバレに近い」と。

だから、あえてその土地と関係ない本を読むことで、作品と自分のあいだに少し距離を残しておきたい。物語に飲まれすぎないために、土地から距離を取りたいのだと。

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一方、僕はもともと、作品から距離を置いて読んでしまうタイプだからこそ、土地の引力を借りないと、作品との距離が縮まらない。

つまり、最所さんが距離を取るために旅と本を切り離すのなら、僕は距離を縮めるために、旅と本をつなぎたくなる。

同じ「旅先でどんな本を読むか」という話なのに、二人がやっていることは真逆だったということです。

これに気づいたとき、長年抱えていた、自分は「真の読書家」ではないかもしれないという感覚に、ようやく説明がついた気がしました。

僕は本そのものに没頭する力が弱いだけで、別のルートを通れば、ちゃんと没頭できる人間だったのかもしれない、と。

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ただ、その話をしているうちに、もうひとつ大きく腑に落ちたこともありました。

これが今回いちばん書きたいことのひとつでもあります。

「自分はたぶん本を目的に読んでいない。自分は世界を知ろうとし、自分で書くために、本を通して取材している感覚」がいちばん強いということです。

これは、自分で言ってから、ああそうか、となんだか妙に腑に落ちる感じがありました。

僕にとって本は、たぶん昔からどこか「手段」だったのだと思います。

まず世界というものを知るために、自分でブログに「書く」という前提があって、そのための取材をしたい。生きること、それ自体が取材であるという感覚です。


本も決して例外ではなく、人生を旅するように生きるうえでの取材行為のひとつ。

言い換えると、読むことによって、何かを書きたい。何かを考えたい。そうやって、世界を深く理解したい。

その「何か」のために、本を開いてきたといっても、過言ではないだろうなあと。

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そう考えると、自分が本に対して距離があるのも、当然のことだったのかもしれないなと思うんですよね。

読むことが目的の人と、読むことを手段にしている人とでは、本との関係性がそもそもまったく異なるわけです

前者は本そのものに浸るけれど、後者は本の中から自分が必要な何かを取り出すために本を開く。

そして、現地を歩きながら、オーディオブックで聴くというあの読み方は、僕にとってまさに取材そのものでした。

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しかも、この取材行為は、オーディオブックという形式だからこそ成立するんです。

目で文字を追う必要がなくて、手も塞がらない。歩きながら、街の風景を見ながら、その土地の音と一緒に本の言葉も同時に入ってくる。

紙の本ではこうはいかなかったと思います。旅とオーディオブックの組み合わせは、僕みたいな他者や物語との距離が遠い側の人間にとって、本を取材するための装置として、ほとんど発明に近いものだったのだと思います。

僕は「真の読書家」ではなく、完全にエセ読書家です。

でも、だからこそ、この読み方にたどり着けて、自分なりの独自の距離の詰め方を掴むことができたということでもあると思います。

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で、ここまで書いてきて、これはたぶん僕だけの話ではないのかもしれないなと思っています。

世の中には、最所さんのように生粋の読書家で、読書そのものに没頭できる人がいる。読むことそれ自体が目的になる。

一方で、もう少し対象との距離が遠い、僕のような人もいるはずなんですよね。

具体的には、いつも人に対して深い関心がなくて、クールでドライだとまわりから言われ続けてきた人。「なぜ、わざわざ小説なんかを読まなければいけないのか」と若いころは小説を読む行為自体が完全に苦痛だった人。

そういう人は、たぶん自分のことを「本が好きではない側の人間」だと思ってきたかもしれないし、少なくとも僕は、ずっとそう思って若いころは生きていました。

でも、もしかしたら、それは読み方を間違えていただけなのかもしれないのです。

読書という行為そのものに浸るのではなく、自分の身体を別の場所に置いて、そこから本を取材しにいく。そういうやり方があっても構わない。

むしろ、距離が遠い人間にとっては、そちらのほうが本来の読書のかたちだったのかもしれないなと、いま強く思います。

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僕がたまたまたどり着いたこのやり方は、本との距離を持て余してきた人間のための、エセ読書家の読書法。

でも、そんな読書のかたちが、確かにあるということを、オーディオブックを15年以上使い続けている僕は、いま声を大にして言いたいです。

たぶん同じような距離感を抱えている人がいるはずで、その人にとってもこの読み方が機能するんじゃないかと、心から真剣に思っています。

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ちなみに、昨日のVoicyプレミアム配信では、この話を最所あさみさんとかなり自由に話しています。最初はこんな話になるなんて思ってもみませんでした。

実際の対話はもっとたくさんの寄り道もあって、それ自体がすごく楽しい対話の時間でした。

また、『汝、星のごとく』や『星を編む』など、凪良ゆうさんの作品が描いている優しさなど、本音ベースでたくさんの気付きや発見があったので、よかったらぜひ本編を直接聴いてみてもらえるとうれしいです。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。