先日、文芸評論家・三宅香帆さんの新刊『「夫婦」不在社会』を読み終えました。

https://wasei.salon/books/9784065431740

三宅香帆さんの作品はオーディオブック化されているものを筆頭に、ほぼ触れてきましたが、個人的には今回の本が最高傑作だと感じました。

それぐらいおもしろかったですし、三宅さんの本の中でいちばん好きな本です。

ぜひみなさんにも実際に手に取ってみてほしいですし、特に村上春樹作品が好きな方は、いま必読の一冊だと思います。

今日はこの本全体の感想というよりも、この本の冒頭で掲げられていた問いについて、僕なりに考えてみたいなと思っています。

それは、なぜ宮﨑駿と村上春樹は、『君たちはどう生きるか』と『街とその不確かな壁』において、ふたりそろって「母」の話を描いたのか、という問いです。

言われてみれば、この問いは確かにそうなんですよね。

日本を代表するふたりの物語作家が、その最晩年と言っていい時期に、まるで示し合わせたかのように「母」へと向かった。

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まず最初に僕が思ったのは、これはもう社会の必然なのだろうな、ということでした。

究極、もう母以外、全員他人だってバレちゃったんだろうなと。

これだけ離婚も当たり前となり、個人の尊重が当たり前になれば、妻や夫というのは、どこまでいっても他人です。

どれほど深く愛し合っていても、もともとは他人であり、別れようと思えばすぐに別れられる。

一昔前までは、そこに対幻想を立ち上げようとする力学みたいなものがあったはずです。具体的には、「夫婦は一心同体である、運命共同体である」というふうに。社会もその圧力を強めていた。

でもゼロ年代以降、個人の自由や尊厳を守ろうとすればするほど、その物語は維持できなくなっていったわけです。そこに拍車をかけたのがSNS文化だと思います。

夫婦愛という幻想を守るために、誰かが我慢したりしている様子が、世界中から告発されて、お互いに求められている役割をただ演じてきただけという構造も、すっかりと暴かれてしまいました。

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そして、こちらもまた興味深いと思うのですが、配偶者と同じように、「父」という存在もまた、疑おうと思えばどこまでも疑えます。

父性というのは身体的な起源というよりも、役割と制度によって成立しているものだからです。「この人を父と呼ぶ」という社会的な物語が崩れれば、父はひとりの弱々しい男性へと戻ってしまう。

こちらも、思っていた以上に、実は社会の共同幻想に支えられていただけだったんだと暴露されたわけです。

もちろん、言わずもがな生物学的にも、ほんとうにこの目の前にいる父が、私の、生物学的な父なのかということさえも疑おうと思えば、どこまでも疑えてしまう。

でも、母は文字通り、ほんとうにひとりなわけです。

だから現代においては、母を問う物語が主流になる。というか、ならざるを得ないんだろうなあって。

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ただ、ここで話は終わりません。

そんなことをWasei Salonのタイムラインに思いつきで書いたあと、それをAIにも読み込ませてみたところ、もう一段深いところをAIに指摘されて気づいてしまったからです。

正確には「母以外、全員他人だとバレた」のではなく、最後には「母さえも他人だった」とバレてしまった、という話なのですよ、とAIから指摘されたんですよね。

じゃあ、それは一体どういうことなのか。

この点、母というのは、自分が誰かを選択するよりも前から存在している関係です。

契約したわけでも、愛することを自分から決めたわけでもない。自分という存在に先立って、すでにこの世にやってきた瞬間には、その関係が勝手に始まっているような関係性です。

だから「母はひとり」というよりも、母とは、自分では選べない起源の名前そのものなのだと思います。

でも、起源であることと、理解し合えることは、まったく別の話なわけですよね。

実際には、母にも、母になる以前の人生がある。

母には母なりの人間らしい欲望も、後悔も、そしていくら血のつながっている子どもだからと言って、決して明かすことのできない「秘密」なんかもたくさんあるわけで。(というか、実子だからこそ明かしたくない秘密がたくさんある)

子どもから見れば、自分だけの母親であっても、その人は自分のためだけにこの世に存在しているわけでは決してないはずです。

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映画『君たちはどう生きるか』の主人公である眞人も、母のいる場所へ戻ろうとします。

でも、母と永遠に一体化することはできない。

最終的には、母と別れて、自分の生きている世界へ帰ってこなければならない。

つまり現代の「母の物語」は、母の無条件の愛へ帰っていく話ではないということなんですよね。

そうじゃなくて、絶対に自分の側にいてくれると思っていた(そうやって信じながらこれまで生きてきた)母でさえもまた、自分には理解し尽くせないひとりの他者だった、と思い知らされる物語の構造となっているわけです。

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で、このあたりまで考えたときに、僕の頭に浮かんできたのは、村上春樹のあの有名な一節でした。

「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」


この「大事なもの」の正体は、失われた恋人や故郷や過去である以上に、もっと根源的には「自分がこの世界に無条件で受け入れられていた」という、そんな強い実感なのだと思います。

そして、その最初の原型というのが「母」という存在なのでしょうね。

だから「母≒ 自分がこの世界に無条件で受け入れられていたという強い実感(原初の体験)」となりやすいわけです。

まだ自分と世界が切り分けられておらず、存在しているだけで受け入れられていた場所こそ、母体でもあるわけですから。

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夫婦も恋愛も友情関係も、すべてはお互いが他者であると理解している者同士が、この世に産み落とされたあとに、お互いの孤独を満たすためにあとから築いていく関係性。

だけど、母子関係だけは、自分の意思よりも先に始まっている。

だから、あらゆる関係が幻想だったと暴かれたあと、最後に「母」が残るんだろうなあって。

村上春樹の主人公たちが、井戸や地下へ降りていくのも、ずっと同じことをしているように僕には思えます。

「失われた女性」を探しているようで、実際には「自分と世界がまだ切り離されていなかった場所」を探しているような行為に見える、それこそが「井戸掘り」のメタファー。

でも、当然、そこに永住することはできない。

見つけたものはすでに壊れているし、母とも再び一体にはなれない。だから最後には、「壁抜け」をして、こちら側へとちゃんと戻ってこなくてはならない。

その残酷さ、たるやです。

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で、ここからが今日僕がいちばん書きたかったことなのですが、

現代人の僕らはそうやってすでに、いろいろなものを暴いてきたわけです。夫婦の対幻想も、無条件の母も、共同体の温かさも散々疑って疑って、「前時代的だ、封建的だ!」と解体をして、そんなものは幻想に過ぎないと暴いてきた。

でも「暴くこと」と「弔うこと」は、まったく別の行為のはずなんですよね。

そして、僕が「弔い」にこだわりたい理由も、まさにここにあるんだろうなとなんだかハッとしました。

徹底的に暴くことで、既に失われたものへの期待が消えると思っているのが現代社会、とりわけリベラルや左翼側の人々の主張ですが、それだけでは人間の期待は消えないわけです。

それはむしろ、執着や恨みというまた別のエネルギーを生み出すか、もしくは虚無としての鬱、トラウマとして影として、内側にずっと残り続けてしまう。

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かつて無条件に信じていたものが、ただの幻想だったと知らされただけの人間は、その幻想に裏切られた気分のまま、宙ぶらりん状態で生きることになってしまうということです。

その結果、保守主義的に過剰に反応するか、すべてを虚無の側に落とし込んでふさぎ込むか、その二択が迫られるのが現代人だなと。

でもそうじゃない第三の道があると思っていて、それがちゃんと悲しんで、ちゃんと弔う、そのうえで再出発するという状態です。

この「喪に服す」という作業を経由しなければ、人は失ったものに縛られたまま生きることになるのだと思います。

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そう考えると、宮﨑駿と村上春樹が最晩年に描いたのは、「暴露の物語」ではなく、「弔いの物語」だったと言えるのではないでしょうか。

眞人は母と再会し、母もまた失われることを受け入れて、母のいない世界へ戻ってきます。

あれはきっと、執着を断ち切る場面ではなく、きちんと悲しんで、喪に服す行為です。

ふたりの巨匠が、現代人がまだ済ませていない「幻想の葬式」を、物語のかたちにおいて代行してくれたとも言えそうです。

もちろん「そんなのは、おまえがそうやって見たいだけだろう!」という批判も、甘んじて受け入れます。だって実際にそうだから。

このふたりだけはただ暴くんじゃなくて、それでもこの世界でどう生きるか、と真剣に問うてくれたのだと、僕が信じたいんだという話を、いま一生懸命に書いています。

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じゃあ、弔い終えたところから、具体的には一体何が始まるのか。

僕はここで、贈与の話を思い出したくなります。

母子関係というのは、契約でも交換でもなく、こちらが受け取ることを選ぶよりも前に始まっている贈与です。

そして贈与論が教えてくれるのは、贈与は必ず「呪い」にもなりうる、ということでした。返せないもの、選べなかったものとして、受け取った側を縛ることがある。

「母もまた他人だった」と知ることは、この最初の贈与を、「呪い」から「贈与」へと受け取り直す行為なのだと。

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これだけだと少し抽象的すぎるので、もう少しわかりやすく言い換えると、母は自分のためだけに存在する装置ではなく、自分とは別の人生を生きるひとりの「他者」だった。

そう知ったとき、初めて僕らは、母から受け取ったものを「ひとりの他人が、それでも自分に与えてくれたもの」として、受け取り直すことができる。

そして、それは自分と母との関係性の話だけではありません。

無条件にわかり合える相手など、この世には最初から誰一人としていない。自分を完全に満たしてくれる場所も、残念ながらこの世には一切存在しない。

失われたものは、たとえ見つかったとしても、完全に損なわれている。一瞬の受容を与える場所が万が一見つかったとしても、それも変化し、流転し続ける。まさに盛者必衰、諸行無常です。

それぐらい、この世界は残酷なんです。

でも、その残酷さの前提を引き受けたところから、ようやく「それでも、私は他者とともに生きる」という話が、幻想ではないかたちで、新たに本当の意味で始まるのだと思います。

記号的だったり、理念的だったりしたものが、落ちきった先で初めて、地に足がつくような実感として生まれ出てくるはずだよねって思うのです。

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つまり、幻想を弔い終えた人間だけが、目の前の他者を、幻想の代用品としてではなく、その人本来の姿として、ふたたび愛し始めることができる。

だから僕が今日この場で強く主張したいのは、「母もまた他人だった」と知ることは、すべての関係の終わりやこの世の終わりなんかではなく、本当の関係の始まり、この世の始まりだった、ということです。

「ほんとうにあまりにも残酷な現実を突きつけてくるな、人生は…」と正直思うけれども、でもそれこそが、僕らの人生に対する祝福そのものだったんだと気づいたという話です。

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最後に、『君たちはどう生きるか』というタイトルは、「君たち」と複数形で呼びかけてくれている。

問いは共有できるのに、正解は共有できないこの無惨さ。ここが、現代のいちばんつらいところだと思います。

もう誰も、夫婦のあるべき型も、母の無条件の愛も、客観的な正解としては与えてくれない。

でも、正解がないということは、どの関係も「こうあるべき」の外側で、自分たちの手で選び直し続けられるということでもあるわけですよね。

血縁も婚姻も、無条件の保証や幻想を与えてくれないのなら、あらゆる関係は、毎日自分の手で選び直し続けるしかない。それはたしかにかなり不安定なんですが、でもその選択権はいつだって自分の側にある。

だったら、呼びかけられている「君たち」でちゃんと手を取り合っていきたい。

僕は、正解を共有するためではなく、そんな問いを共有するために、Wasei Salonという共同体を運営している感覚がとても強いです。

そして、「君たちはどう生きるか」と呼びかけられた、その「君たち」で、正解のない世界を手探りするように生きていきたい。

そのための新しい家族や「イエ」の萌芽が、この場所には確かにあると思っています。僕は今、かなり真剣にそう信じている。

今日の内容を通じて、この時代に「共同体」を新たに復興していくことの意味合いや、意義のようなものが、かすかにでも感じ取ってもらえていたら、ほんとうに嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。